方便ということ

 

嘘も方便」という言い方がある。そもそも「方便」という言葉は、元々仏教用語であり、古代インドの(upaya=ウパーヤ) から来ている。意味は、「衆生を教え導く巧みな手段」あるいは「真実の次元に導くための便宜上の教え」ということになる。

また広辞苑によれば、方便(ほうべん)と書いてタズキ又はタツキと読ませる使い方もあるようだ。その場合の方便(たつき)の意味は、どうも手付け、つまり手を付けるから来ているらしく、何か、事を始めたり、また何かを知るための手がかりや手段のことを言うのだそうだ。

したがって「嘘も方便」の本来的な意味は、正当なる目的を実現させるためにつく真実ではない言葉ということになる。簡単に言えば、嘘も正当な目的があれば許される時がある、ということだ。そこで問題になるのが、嘘を方便とする為の「正当な目的」と「嘘のつき方」である。

正当な目的を持った嘘の代表的な例は、弱っているガン患者に対する「あなたはガンではありません」という身内のつく嘘である。これこそが「嘘も方便」ということの真の意味である。なかなか方便(相手に真実を伝えるための手段)の嘘というものはつけるものではない。嘘は、そもそも自分を正当化したり、相手をだまして、陥れるために利用されることが多い。

ブッダは、「私がみんなに説いていることは、人が真実の次元に到達するためのイカダに過ぎない。つまりイカダは、川岸から反対の川岸に渡るための、便宜上の乗り物であり、渡ってしまえば、もはや必要ないものである。自分が日頃、言っていることもそれ以上のことではないよ。」と言っている。

その意味では、世の中のすべては、方便である。宗教も国家も家族も学問も、さらには仕事や伴侶さえ、自分自身を知り、本来の自分に到達するための方便に過ぎないのだ。逆に言えば、だからこそこの方便だらけの社会で、しっかりとした目標を立てて、努力することが大切なのである。そうでなければ、自分という存在は何をするために生まれて来たのか、まったく分からなくなってしまう。

最後にもう一度。方便とは、正当な目的を持ってこそ意味をなす言葉である。佐藤

 


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1998.6.18