「永遠の少年」考

サン=テグジュペリ「星の王子様」論

本文中の引用は、すべて、愛蔵版「星の王子さま」内藤濯訳、岩波書店2000年11月刊の新版を使用しています。

1 永遠の少年サン=テグジュペリ

男にはどこか「永遠の少年」のようなところがある。少年時代の夢が忘れられずに、端から見れば取るに足りないようなことを夢中で追いかけてしまうような・・・。ところでこの「永遠の少年」を考える上で、格好のテキストにサン=テグジュペリの書いたファンタジーに「星の王子さま」がある。

この「星の王子さま」は、砂漠に不時着し、生死の域を彷徨っていた時に、ふと主人公の前に現れた金髪の少年である。ファンタジーとして書かれているので、緊張感は少しもないが、きっとこれはサン=テグジュペリが、1935年に自家用機でパリからサイゴンに向かう途中で、リビアの砂漠に不時着した時のヌミノース体験(神秘体験)を作品化したものと考えて差し支えないであろう。彼はこの時、飲み水が一週間分しか残っていないような危機的状況だった。何とか、運良く不時着から五日後、遊牧民に助けられて九死に一生を得ている。

彼はこのことを「難船したあげく、いかだに乗って、太平洋のまん中をただよっている人よりも、もっともっとひとりぼっちでした。」と書いている。そんな中で眠りについたサン=テグジュペリは夢うつつのの中で、

「ね・・・ヒツジの絵かいて!」という声に目を覚まされる。見れば目の前に、金髪にサベールを持ち、王族のような立派なガウンを着た星の王子さまが立っていたのである。何故星の王子さまがヒツジの絵を描いて欲しかったのは分からない。でもとにかくそんな声がしたのである。それから後の話は、おそらく作者サン=テグジュペリのイマジネーションによって創作されたものであろう。

私はこの純粋無垢な「永遠の少年」のイメージを持つ、「星の王子さま」がサン=テグジュペリという人物の枕元に現れた事こそ、重要であると思う。ここで作者は、「永遠の少年」という人類に共通の集合的無意識に出会ったと同時に、自己の「無意識」あるいは「影」と出会ったことになる。

「永遠の少年」のイメージは、まさに大人に成りきれず、冒険を好み、一生涯を少年の頃の夢を追って亡くなったサン=テグジュペリの心を強く支えていた元型(集合的無意識)であった。この永遠の少年のイメージを強くもつ人格というは、周囲に容易に適合できず、母親に対する思いが強く(マザーコンプレックス)、自己中心的で、時に冒険的な性格を有するとも言われるが、それは作者の性格と生涯をみれば、納得できる。

星の王子さまが言ったヒツジは、キリスト教社会の象徴として考えれば、キリストその人である。また星のようにキラキラ輝いている少年なのであるから、この王子そのものが変容したキリストの幼い頃の姿とも考えることができる。では何故、サン=テグジュペリの生命の危機の中で、何故このような永遠の少年が現れたのかを考えてみよう。
 
 

2 「星の王子さま」と戦争の影
 

「星の王子さま」という本は、レオン・ウェルトという友人に捧げられている。この人物は、サン=テグジュペリにとって、幼友達でユダヤ人であった。この本にはどこにも戦争もナチスのことも書いていないが、実は戦争の中で生まれた本である。

12歳の時、初めて飛行機に乗せてもらってからというもの、サン=テグジュペリは、すっかり空を飛ぶということに魅せられてしまった。21歳で、フランス海軍兵学校に入学したサン=テグジュペリは、パイロットを目指した。23歳の時には、飛行機事故で頭蓋骨を骨折したが、奇跡的に回復。兵役を終えた。その後、空を飛ぶことが大好きな彼は26歳の時には航空会社に就職をした。郵便飛行士として活躍するかたわら、雑誌に短編小説を発表し、文才の一端を示した。

やがて第二次大戦が勃発すると、予備役(?)であった39歳のサン=テグジュペリは召集され、偵察飛行の任務を負うことになった。しかしながら一年後、ナチスドイツはフランスの首都パリに侵攻し、フランスはやむなく休戦条約を結んだのであった。

サン=テグジュペリは、意に反してやむなく除隊し、祖国がナチスに蹂躙されるのを何とかしたい、と思いつつ、戦争の嵐のないアメリカに渡った。そこで彼は、ラジオを通じて、フランス人に祖国のために団結することを呼びかけたのであった。その時、「星の王子さま」の着想が浮かんだのであろう。彼は行方の知れない幼友達のレオン・ウェルトのことを思いながら、この作品を書いた。実際彼は、幼友達のレオン・ウェルトに「ある人質への手紙」(1943)という小冊子を書き送っている。しかしどこにもこの本に戦争のことがないのは、子供たちがこの物語を読むことを想定し、意識して一言もそのことに触れなかったに違いない。

彼はこの作品を書いた後、居ても立っても居られないような熱い思いが込み上げてきた。祖国のために友人達のために役に立ちたいという気持ちを抑えきれなくなったのだ。そこで彼は30歳という年齢制限を遙かに超えていることを承知で、43歳の時に、フランス軍に再入隊すると再び、偵察飛行の任務に就き、44歳の時、コルシカ島を飛び去った後、消息を絶ってしまったのである。

このように考えると、この「星の王子さま」という作品は、サン=テグジュペリが、世界の子供たちに遺した贈り物であり、平和への祈りである。また幼い頃に無邪気に遊んだレオン・ウェルトに対する感謝の物語であるとも言うことができよう。サン=テグジュペリは、きっと、ここに登場する「小さな星」の王子さまのように、世界中の大人が、子供の頃の素直でけがれのない気持ちで生きて行ければ、戦争などは起こるはずはないよ、と言いたかったのではあるまいか。
 
 

3 ウワバミはヨーロッパ文明を象徴している?!

「星の王子さま」は、全体が27章で構成されており、至るところにサン=テグジュペリが手書きした絵が散りばめられている。

一章は、プロローグというべき章で、<ぼく>(サン=テグジュペリ)が六歳の頃に読んだという「ほんとうにあった話」から書き始める。はじめにウワバミ(大蛇)がクマのような怪物に巻き付いて丸飲みにする絵が登場する。テーマだけを聞くと怖いのだが、絵が幼稚なので、少しも怖い印象はない。

ここでその本にあったという言葉が紹介される。
「ウワバミというものはえじきをかまわずに、まるごと、ペロリとのみこむ、すると、もう動けなくなって、半年のあいだ、ねむっているが、そのあいだに、のみこんだものが、腹のなかでこなれるのである」

ついでいびつな帽子のような奇妙な絵がある。
これは<ぼく>が色エンピツで初めて書いた「第一号の絵」だ。おとなに自慢しようと見せて「これこわくない」と言うと「ぼうしが、なんでこわいものか」という答が返ってくる。<ぼく>はがっかりする。そして「ぼくのかいたものは、ぼうしではありません。ゾウをこなしているウワバミの絵でした。」とふり返る。おとな達に説明するために、<ぼく>はウワバミの内部にのみこまれたいるゾウの絵を書く。さてそれを見た大人たちは、「外がわをかこうと、内がわをかこうと、ウワバミの絵なんかはやめにして、地理と歴史と算数と文法に精をだしなさい」と言って取り合わない。

そんな訳で、<ぼく>は絵かきになる夢をあきらめて、飛行機の操縦を覚えて、世界中を飛び歩くことになる。大人になった<ぼく>ではあるが、誰も「ぼくの考えは、たいしてわかりませんでした」
彼は物わかりの良さそうな人物に会うと、決まってあの帽子のような「第一号の絵」を見せてみる。でもたいていは、「そいつぁ、ぼうし」だと言ってしまう。結局<ぼく>はウワバミの話や原始林の話や星の話は止めにして、大人の好きな「ブリッジ遊び」や「ゴルフ」や「政治」やネクタイの話に話題を変える術を覚えてしまう。すると相手は、「こいつぁ、ものわかりのよい人間だ」ということになる…。

ここに登場するウワバミ(大蛇)は、大きな知性を象徴しているように思える。蛇は、旧約聖書のアダムとイブの物語にあるように、まだ知性というものを持たなかった人間を誘惑した動物である。結局、この蛇の口によって、アダムとイブはエデンの園を追い出されてしまう。蛇は、かなり大きな動物でも相手を丸飲みにするという暴力的で粗暴な性質を持っている。文明というものは知性の発展としての科学技術を推進力として膨張するウワバミのような性格を持ち合わせている。こうして考えると、ウワバミというものは、サン=テグジュペリの無意識に登場したヨーロッパ文明そのものであるかもしれない。そしてウワバミとしてのヨーロッパが呑み込もうとしているゾウは、未開の大陸としてのアフリカやアジアや新大陸アメリカということになるであろう。インドにとって、ゾウは神聖な動物であり、神そのものでもある。いち早く科学技術を発展させ、海洋に乗り出したヨーロッパの列強は、次々に世界の未開地を植民地化し、それこそウワバミのように呑み込んで時間を掛けて「こなして」いった。

大人が<ぼく>に対して、一番はじめに絵なんか描いていないで「「地理」の勉強をしろ」、というのは象徴的な言葉である。つまり大人にとって、ウワバミに誘惑された近代的な知性と理性を持ってしまったアダムとイブの末裔であって、ヨーロッパとしてのウワバミが、巨大な大陸を呑み込んでいる姿(侵略と植民地化)など、取るに足らないことなのである。

ただ子供の心を失わない<ぼく>だけが、ウワバミの内部に存在する「ゾウ」のことを必死で大人に説明して、「密林ではウワバミがゾウをこなしているんだよ」というのだが、誰もが、「ぼうしだろう?」ということにして、取り合わない。結局そんな事ばかりが続くと、<ぼく>自身も、相手に合わせてしまう人生を送ってきたと、独白をしている。

この第一章によって、サン=テグジュペリの心の一端が明かされる。それは大人に成りきれず純粋な気持ちを保ちながら齢(よわい)を重ねているものの、結局蛇に象徴される長いものに巻かれて身動きが取れなくなっている自分へのジレンマのような感情である。サン=テグジュペリは真実の世界を見るためには、子供のような素直な純粋に内と外からものを見る見方が大切だと言っている。確かに大人も昔は皆子供であって、子供の頃にはあれほど許せなかった政治家の賄賂や不正疑惑にも、「政治にはその位のことはあっても仕方ないかも…」といった一種のさめた感覚に浸る自分に出会う時、私たちは、もう一度「星の王子さま」の「ジャングルのなかではいったい、どんなことがおこるのだろう」と常に考えてみることの大切さをかみ締めるべきであろう。
 
 

4 貪欲な食欲を持つひつじを王子が欲した訳は?!

星の王子さまが、夢うつつの<ぼく>に頼んだ「ひつじの絵」は、いったい何を意味するのか。

もちろん王子の目的は、この物語の論理の上では明確である。それは王子のふるさとの星(B?612番)に「バオバブ」という教会ほどもある大きくて害のある木が生い茂ってしまい、それをひつじの貪欲な食欲によって、根絶やしにしてしまいたい、ということにある。
 

王子さまの星には、およそ星なら、どの星もそうであるように、いい草とわるい草とがありました。・・・でもその種は目には見えません。地面の、どこかふかいところに眠っていると、そのうちに種のどれか一つが、ふと、目をさます気になるのです。そして美しい、あどけない茎を、日の光のほうへ、はじめはオズオズとのばします。赤カブやバラの木だったら、のびほうだいにのばしておいてよろしい。だけれど、わるい草木だったら、それが、目につきしだい、すぐに抜きとってしまわなければなりません。

さて王子さまの星には、おそろしい種がありました。そして星の地面は、その種の毒気にあてられていました。早く追いはらわないと、もうどうしても、根だやしするわけにはゆかなくなるものです。星の上いちめんにはびこります。その根で星を突き通します。星が小さすぎて、バオバブがあまりたくさんありすぎると、そのために、星が破裂してしまいます。


王子の住んでいる星も実に小さいらしい。どのくらい小さいかと言えば、何しろ「すわっているいすをほんのちょっと動かすだけで、見たいと思うたびごとに夕やけの空が見らえる」ほどに小さい星である。王子の星も、きっと危ないのだ。引き続いて王子は、なまけものがひとり住んでいたためにバオバブが生い茂って、崩壊しそうになった話をする。

<ぼく>は王子に教わったイメージで、なまけものが住んでいて、バオバブのために崩壊しそうになった星の絵を書く。そこには小さな玉のような星を三方から三本のバオバブの木が星を掴むように根を生やして、星が食べられてしまいそうな絵である。まさに王子の星も、バオバブのために崩壊の危機に差し掛かっているのだろう。そこで王子は、ふるさとの星を救うべく、地球の<ぼく>のところに助けを求めてやってきたようだ。
 

明らかに<ぼく>の前に現れた王子さまは、ひつじが地球の砂漠地帯の木や草を食べて、それを根絶やしにしてしまったことを知っている。またひつじはその昔、ローマ軍が英仏海峡を渡って、ひつじを運び、イギリス中の森をどんどんと食べ尽くして、なだらかな牧草地に変貌させてしまった事実を知っているのである。王子は小さくて優しいひつじが持つ怖ろしい貪欲な食欲という本質を知りながら、毒気のあるバオバブという悪い木を倒すために、小さな自分の星にそれを持ち込もうとしているように見える。いわば「毒をもって毒を制す」ということか。

でも王子が心配していることがある。それは王子の星には「どこにもないめずらしい花が一つあって」それがひつじにパクリと食べられてしまうことである。そこで<ぼく>は夜になったら、ひつじの口を塞ぐような口輪を描いてやり、同時に花の周囲には囲いを描いてやろうとするのである。

王子は、地球に対する警告のように言った。

バオバブはほうり出しておくと、きっと、とんださいなんになるんだ。ぼくは、なまけものがひとり住んでいた星を知っているけどね。その人は、まだ小さいからといって、バオバブの木を三本ほうりっぱなしにしていたもんだから・・・


そして<ぼく>もまた教訓として、
「おーい、みんなバオバブには気をつけるんだぞ」と叫ぶのである。

さてこの「バオバブ」に象徴されるものはいったい何であろう。貪欲な食欲を持つひつじを自分の星に持ち込んでまで、退治したい悪い木とは何か・・・。
 
 

 バオバブの木は科学文明を象徴している? 

「バオバブ」の木に象徴されるものは何であろう。いささか原作と放れてしまうかも知れないが、私には近代都市の高いビルの林立した光景が、バオバブのように思えてならない。バオバブは、悪い種によって、生い茂った木である。バオバブは、自分を悪い木とは少しも思っていない。何しろバオバブは、小さい頃には、バラの木とそっくりなのだ。見分けがつかない。それは生き物が、その地に根を張るための戦略なのである。擬態を装って人の目を眩まし、バラとして成長するのである。大きくなるとその本質が牙をむくのである。そうなると、もう根が地上深く伸びて、小さな星であれば、根によって、粉々にされかねない。実に怖ろしい木なのである。しかし木は、何も星を滅ぼそうと思って生きているのではない。ただ自分のDNAの持つ生物としての設計図に従って行動しているだけなのだ。 

ニューヨークのマンハッタンの摩天楼は、まさに都市に生えたバオバブの木のようだ。そこでは毎日、お金というものに象徴される人間が作り出した経済の「果実」が取引されている。しかもその果実から生み出される世界中の富みは、ごく一部の大国に集中してしまっている。そうなると摩天楼だけではなく、その都市の国家も経済も皆バオバブの木に思えてくる。なまけ心がいけなかったというよりは、バオバブが戦略として生み出したバラの擬態が上手かったと言うべきかもしれない。 

気がついた時には、多くの富は、金融システムを生み出した者の手に集中し、額に汗をかき、手にまめをつくって働く生産者の利益は、ごく僅かとなった。バオバブが、星の王子様の星の栄養を全て吸い取って、空に高く高く幹は伸び四方に枝を伸ばし、大きな手のような葉を振る様はまるで怪物のようですらある。 

考えてみれば、地球もまた小さな星である。大きいと思っていたが、それは幻想に過ぎなかった。人工衛星は、たったの数十分で地球を一周してしまうほどだ。だからもしかすると星の王子さまは、B−612ではなく、地球という星の王子であり、地球そのものの分身かもしれない。つまり王子は人類に地球の危機を知らせるために、サン=テグジュペリの夢枕に現れたと考えられるのである。

そこまで考えるとバオバブは、科学文明の象徴とも言える。西洋文明は、いささか科学というものを新しい神のようにして奉り過ぎてきたように思う。日本もまた明治以降、西洋に追いつき追い越せという西洋をキャッチアップする政策を金科玉条の政策としてやってきた。ところがそれが限界に達してしまったことを、多くの人間がうすうす気づき始めているようなところがある。科学とは、まさにそれを神のように信奉する西洋型人間の怠慢が生み出したバオバブの木である。科学文明が、このまま更に何の際限なく成長するならば、エントロピーの法則(熱力学)が予言するように文明自身が日々に生み出す熱によって崩壊してしまいかねないのである。 

地球の温暖化は、科学万能の西洋文明が必然的にもたらした人災である。西洋の先進諸国は、この現実に驚愕し、何とか地球がこれ以上暖まらなくしようと二酸化炭素を排出しないために話し合いを持ち、これ以上バオバブの木が蔓延らない調和のある地球にしようと条文をまとめ上げた。「京都議定書」である。ところが本条約が批准されようとしていた矢先の2001年初頭、アメリカの政権が民主党から共和党に政権が移譲されるや否や異を唱え始めている。結局アメリカの意見は「国益に合わない」の一点張りで、どうにか京都議定書を押しつぶすことに躍起のようだ。 これもソ連邦が崩壊し、世界でただひとつの超大国となったアメリカの驕りのようなものであろう。

ますます小さな星の地球は、バオバブに象徴される科学文明そのものによって崩壊の危機に差し掛かっているのである。

つづく

 


2002.4.1
2002.4.9
 

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