出会いの不思議

本田宗一郎とアイルトン・セナ


昨日、本田宗一郎のことをインターネットで調べていると、一枚の写真に出会ってしまった。その写真は、在りし日の本田宗一郎とアイルトン・セナがタキシードで談笑している姿である。本田さんが盛んに何かを云っているようだ。セナの方は感激しているのか、目頭が赤くなっている。この写真を見ながら、私は人と人の出会いの不思議を感じてしまった。
 

本田宗一郎とセナの出会いのなかに、男とか女とか、家族とか、世代とか、国家とか、貧しいとか豊かとか、そんなくだらない全ての境を越えた強い絆を感じてしまうのである。

本田さんというエンジニアは、世界一のエンジンをどうしても作りたかった。だから彼は、四輪の最高峰F1グランプリに参入した。

一方セナも世界一のドライバーになりたかった。若い頃のセナは、すさまじいテクニックを駆使しながら、荒い運転をして、まわりからひんしゅくを買ったりした。それでも少しずつ実績を重ね、雨の日のようなコンデションや狭いモナコのようなサーキットは、セナの独壇場となっていた。コンデションが悪ければ悪いほど、遅いエンジンでも、何とかテクニックや勇気でエンジンのハンデを補えるからだ。しかしそれでもセナは、納得出来ずに、悶々としたドライバー生活を送っていた。

そんな時、二人は、運命的な出会いをした。二人は、お互いを必要としていたのである。

あれは確か、’88年のF1グランプリ第10戦鈴鹿サーキットでの出来事だ。セナが圧倒的な強さで初の世界チャンピオンになった瞬間、チャンピオンフラッグを受けたセナは「わー」と叫びながら鈴鹿のコーナーを回った。一瞬誰もが耳を疑った。寡黙なセナが大声を出すなんて!少しして、解説者が「セナが叫んでいます。セナが泣いています」と告げた。その時、勝利を祝福するように小雨がシャワーのように降り注いでいた。セナはその時のことを後で振り返って「鈴鹿の空に、神が降りて祝福してくれるのを見た」と語っている。

きっとホンダのホームグランドで本田宗一郎の前で世界チャンピオンになれたことが、よほどうれしかったのだろう。

上の写真はそんな時の一枚である。’90年F1での世界チャンピオンになったセナを讃える本田宗一郎の顔が実にいい。この時、本田さんは、「来年も最高のエンジンを作るからね」と、セナに約束した。そしてセナはその言葉に感動し、「僕も最高のレースをお目にかけます」と言った。この写真をよく見れば分かるが、セナの目は潤んでいる。

その後、セナは、3度の世界チャンピオンをホンダのエンジンとともに獲得した。本田さんはセナによって、自分のエンジンの強力さを世界に認識させ、セナはセナで、名実ともに史上最強のドライバーと呼ばれるようになった。もはや誰も彼らの栄光を止めるものはなかった。

しかし人の出会いは永遠ではない。必ず別れの時がやってくる。’91年8月、本田宗一郎が逝去したのである。追悼GPとなったハンガリーGPでセナは、腕に喪章を付け、亡き本田宗一郎のために泣きながら勝利を納め、「この勝利を本田宗一郎に捧げる」と短く語った。

日本人とブラジル人。エンジニアとドライバー。世代も親子以上に違う。本田さんとセナはまさに運命の糸で結ばれていた二人であった。

本田宗一郎亡き後、’92年ホンダはF1からの撤退を正式発表した。その時セナは、これまでのホンダの努力に、感謝の言葉を述べ、男泣きに泣きながら走り去ったと言う。その後セナは、魂の父本田宗一郎の後を追うように、短くも輝きに満ちた生涯を駆け抜けていったのであった。

'94年5月1日サンマリノGP・イモラサーキットにて、アイルトン・セナ死去。

出会いとは、不思議である。そして出会いは、全ての障害を越える。佐藤


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1998.2.3