北海道の義経伝説 

−私の義経伝説を考える基本スタンス−

日本中至るところ に、「義経街道」とか「義経通り」などと名付けられている道がある。しかし実際に義経が歩いた道というものは、以外に少ない。どうもその裏には、日本人の 誰もが、義経という人物が、自分の住む近くの道を歩いたと思いたい心理があるのかもしれない。

今、北海道の平取町は、北海道の義経伝説の聖地 のような所になっている。しかしこの平取は、日高アイヌの故郷とも呼ばれる場所だ。その奥の二風谷(にぶだに)は、アイヌ民俗研究で著名な萱野茂氏(かやのしげる:アイヌ民族出身者で元参議院議員、現在二風谷アイヌ資料館館長。)の生家があった。要するにこの地は、実は義経伝説の聖地などではなく、アイヌの民の聖地である。おそらく、この地に様々なもっともらしい義経伝説が存在する理由は、先住アイヌ民族の懐柔のためのイデオロギーとしてこの伝説がねつ造され、それが盛んに喧伝されたためであるということができよう。

私 の義経伝説を考えるスタンスは、この義経伝説を通して日本を哲学してみることにある。義経伝説の中には、日本人が、志向する精神性やロマンという肯定的な 側面ばかりではなく、攻撃性であるとか侵略性あるいは暴力性といった否定的な側面も多分に含んでいる。義経伝説を深く知ることは自分自身の無意識に眠って いる日本的感性を知ることであり、引いてそれは日本という得たいの知れない文化圏を探ることに通じる。 

例えば義経伝説のなかに、「判官びいき」という 一見、美しく感じる弱き者に対する憐憫の情というものがある。しかしこれとて、悪い見方をすれば、義経伝説の総体においては、伝説の中にある強烈な攻撃性 や暴力性を覆い隠し、すべてをオブラートに包んで中和させる役割を担っているようにも感じられる。

周知のように北海道における義経伝説の成り立ちというものは、先住民族であるアイヌの人々を懐柔するために極めて意図的政治的に持ち込まれた概念である。北 海道を開拓するという大義名分のもとに、日本人は北海道を蝦夷地と呼び、先住民族のアイヌの民に、文字文化がないことをよいことに、義経や弁慶があたかも オキクルミなるアイヌの神であったかのような流言飛語を流し、これを祀ったものである。そして北海道には土地の伝承として、「アイヌの民の言い伝え」とし て、もっともらしい義経伝説が残ったのである。

つまりは、北海道における義経伝説は、アイヌの 人々に対しては、あたかも昔から義経一行を崇拝する伝承が存在したとして、アイヌの人たちを懐柔し、本土から開拓のために渡ってくる日本人には、この土地 が希代の英雄である源義経のゆかりの土地であると思わせるイデオロギーそのものとして機能したことになる。

そもそも平取にある義経神社は近藤重蔵なる人物によって創られた神社であるが、この義経公のご神体の木造は、かの近藤重蔵をベースにして彫られたと云われ ている。もしもそれが事実であれば、これは希代の英雄源義経公を冒涜する行為である。

近藤重蔵は(1771−1829)江戸幕府の先 手組与力で探検家として、1798年北海道から千島列島を歩いて、蝦夷地の地図を作った人物だ。ざっくばらんに云えば、彼は結局、先遣隊となって本格的 に、先住民族アイヌたちが縄文の昔から住んでいる先祖伝来の蝦夷地を、ロシアに持って行かれないうちに幕府の支配下にこの土地を置こうという明確な意図の もとに北海道から千島を渡り、どうしてもいうことを聞かぬアイヌの民をワナに掛ける目的で、かの義経伝説を注入したことになる。そして彼は平取に、自己の 姿に似せた義経像をご神体として義経神社を造営した。アイヌの民の立場で云えば、これは自分たちの住む土地を奪おうと画策した大盗賊か大悪人である。

平取 の義経神社の社伝によれば、義経一行は、むかし蝦夷地白神(現在の福島町)に渡り、西の海岸を北上し、羊蹄山を廻って、日高ピラトリ(現在の平取町)のアイヌ 集落に落ち着いたとされる。そこで農耕、舟の製作法、機織りなどを教え、アイヌの民から「ハンガンカムイ」(判官の神ほどの意味か)あるいは「ホンカンカ ムイ」と慕われたことになっている。

ところがこれには異論がある。アイヌの民の間ではアイヌの民から様々な宝物を奪った大悪人ということになっている。また義経に裏切られて、女の子(メノコ) が自殺を遂げた場所まである。

結局これは、義経公というものに悪い日本人が為した犯罪行為を象徴させているように感じられる。つまり立場が変われば、これほど見方が変わるということであ る。

日本人が、どれだけ義経は素晴らしい侍で、北海道に渡りアイヌの神にまでなったなどと言っても、逆に侵略されるアイヌの民の側から見れば、そのまったく逆の 見方がでる。煎じ詰めて言えば、北海道における義経伝説というものは、異民族の土地を奪い ためのイデオロギーの役割を果たしたことになる。そして義経神社は、さしずめ異民族支配達成の象徴的記念碑(モニュメント)ということになるであろう。

実に悲しく悲哀に満ちた話ではないか。本人のまったくうかがい知れないところでひとつの伝説が形成されるということは、歴史の中では、まま起こりえることで ある。北海道のアイヌの民は、こうして伝来の土地を奪われ、コタンと言われる集落に押し込められることになった。加害者征服者は、どのように考えても我々 日本人だ。平取の義経神社は、蝦夷地征服のまさにモニュメント以外の何ものでもない。

北海道における義経伝説生成の過程は、義経が自害して果てた文治五年(1189)からほぼ六百年から七百年という途方もない時間をかけて創られたものであ る。義経が奥州平泉で自害以来、今日まで、多くの日本人が本土から渡り、あるものは、自分が憧れる強い者の象徴である源義経の名を語り、自分がいかに強い 武者であるかをアイヌの民に語りながら、アイヌの民に農耕を教えるといい、あるいは造船術を教えると欺き搾取をするふらち者が跡を絶たなかったと思われ る。もちろん中には、本当にアイヌの民と親交を持とうとした人間もいたはずだ。しかし結局、歴史総体で考えれば、アイヌの民にとって、日本人は、大悪人と いうことになる。多くのニセ義経がいて、多くの近藤重蔵のようなインチキ者が暗躍したことになる。かの近藤重蔵は、晩年罰が当たったと見えて、息子の犯罪 に絡 んで、不孝な牢獄生活を送り、悲惨な最期を送った。

私は源義経公を尊敬し、今こそ、このような天才 以上の天才を認める日本社会にならなければ、日本の未来はないとさえ思っている日本人の一人である。しかし自分の怪しげな知識でもって、この素晴らしい義 経公を勝手に脚色し、自分の邪(よこしま)な思いを実現させようなどと考えるような人々の説く、義経伝説には一切組したくない。

もちろん今北海道で、この義経伝説を純粋に肯定 的に受容されている方々も居る。そうした人たちを、頭から批判するつもりは毛頭ない。問題なのは、義経伝説というものが、一歩間違えば大変危険なイデオロ ギー性を含んでいるという事実だ。義経伝説というものを知る人間は、歴史的にも、そのことは実際に起こったことだという位の歴史認識は、少なくても持って 欲しい。義経伝説を語る者は、敢えてその負の部分も引き受けなければと思う次第である。佐藤

 


2003.8.4
 

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