秘すれば花

秘すれば花の恋愛論



今年も桜の季節がやってきた。

花は桜というように日本人は、何故かこの散り急ぐ花を見ると血が騒ぐ。

万葉集で、ある男が、女に桜の一枝(ひともと)添えてこんな歌を送った。

 この花の一節(ひとよ)のうちに百種(ももくさ)の言ぞ隠れるおほろかにすな(万葉集巻之八一四五六)

(大意:この花の一枝には、私の思いのたけのすべてが秘されているからけっしておろそかにしてはいけないよ)

それに対して女も、歌を返した。

 この花の一節のうちは百種の言待ちかねて折らえけらずや(万葉集巻之八一四五七)

(大意:この花の内にあるというあなた様の思いが、(あなた様に)言い出されるのを待ちかねて、折られてしまったのでしょうか)

実にたあいない恋の歌である。万葉の時代は、歌のひとつもひねれなければ、恋も出来なかった。この頃に美しい女性を表現するのに「花を折る」という言葉の使い方があったそうだ。例えば「手折(たお)られた花のように愛らしい君よ」などという感じで使われていたらしい。確かに満開の桜の杜(もり)も美しいが、ある種の思いを持って、手折られた一枝の花を見るのは、実に風情(ふぜい)があり、そこにも秘された美を我々の祖先達は見ていたことになる。

簡単に「あなたが好きです」という言葉を吐くのは容易い。言いたい気持ちを心の奥に秘めて、それを別の言葉に置き換える。そこにこそ我が祖先たちの恋愛の術としての秘する花の極意がありそうだ。

「秘」は、むかし「祕」と記述した。示は神にまつわることを意味し、「必」は呪術のことである。だから、本来神の前においての呪術をすることが秘の真意であった。仏教にも「秘仏」という考え方があり、いつもは「厨子」(ずし)の中にしまっておいて見せずにおく仏像のことを言うのである。これは仏教界の新興勢力とも言うべき密教から始まった考え方だ。確かに普段「秘密」にされておいて、この秘仏のお姿はどんなものだろう?ということで、どんどんこちらの想像力が膨らまされることになる。つまり秘するという術を使うことで、秘された側では、勝手に想像の翼が広がって、どうしようもなく見たいという気持ちに陥らされてしまうのである。これこそが、秘の術である。そして何十年に一度、その秘仏が公開される。何のことはないただの仏像でも、秘の術によって、こちらの頭は、もう秘仏に恋する乙女のようになっている。だからこの秘の術は、恋の(?)にも十分応用できそうである。

花と言えば華道であるが、わが国で華道が成立したのは室町時代である。華道の精神においてもっとも大切なことは、やはり花を見せる事ではなく、花を秘することにある。

世阿弥もその著「風姿花伝」の中で、「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」という事を言っている。これは能を一見すれば分かるように、すべてを見せずに、ほんの少しのことを象徴的に表現することによって、観客の想像の翼を活用することによって、表現に膨らみを持たせようとする一種の術である。

茶の湯の宗匠(そうしょう)の千利休が、庭中に丹精込めて作った「朝顔」をすべて引き抜いて、ただその一輪を奥の座敷に添えて、その朝顔を見に来た秀吉を唖然とさせたのもこの秘の術を用いたのである。したがって、お茶の精神もまた、秘するということにありそうである。
その利休が好んだ歌にこのようなものがある。

 花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや(藤原家隆)

(大意:春といえば、花の咲くことばかりを待っているような人には、山里の溶けた雪間から顔をのぞかせている若草にある春の風情をみせたいものだ)

現代ではとかく多弁が蔓延しており、恋愛でも芸術でも表現がいささかオーバーになる傾向が見受けられる。日本文化の粋とも言うべき、能や狂言、あるいは和歌や俳句などにしても、その道の根底にあるものは秘して多くを語らないことである。西行にもこのような歌がある。

 咲きやらぬものゆゑかねて物ぞ思ふ花に心の絶えぬならひに(山家集)

(大意:花は、なかなか咲かないからこそ、かえって色々と物思うことがあるのだ。咲かないからこそ花に心を留められる習慣がつくというものだ)

では多弁に成りたい気持ちを秘して、短く結論である。

秘すれば花。花は花弁に甘き蜜を秘して蜂や蝶を招くべし。
秘は心の花。そして恋の術。佐藤

 


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2000.4.3