寄稿

東海道藤沢宿の義経伝説と宮城県栗駒町

かまくらや資料館 平野 雅道
1.藤沢の義経伝説

このタイトル一見するとなんのことやら??と思われる人が多いでしょう。江戸時代の宿場町、江戸日本橋から六番目の五十三次宿場―藤沢宿に義経伝説がある!!東海道にはどうやら藤沢だけが義経伝説をもっています。宿のほぼ中央、旧町名「坂戸町」の総鎮守である白旗神社の御祭神として地元ではしらない人はいません。しかし伝説としての色彩が強く史実としてはあまり重要視されていませんでした。

文治五年六月十三日、鎌倉の西浦「腰越」で梶原景時や和田義盛等によって首実検されたのち、捨てられて片瀬川に漂着、川を逆流して首は藤沢の里人によって手厚く葬られたと伝承され首塚と洗い清めた井戸が史跡として現存しています。このおぞましい伝承は藤沢の地で生まれ育った私などは井戸を覗くたびに生首を想像して「気持ちわるい」と思っていただけです。判官びいきの人々、北方伝説を指示する人々からは忌避すべき史跡でしょう。鎌倉時代当時の資料を検討すると藤沢に首塚があることは十分説得性のある史実ですが、ここでは省略します。

また首だけが祭られているのですから胴体はどうなったか?なんて藤沢の人は誰も想像しません。「義経記」は平泉の高館で自害した後、館に火を放ち遺体は確認しようがないと記されていますから、ほとんどの人は、胴体は消失したと思い込んでいます。
 

2.菅原さんとの出会い

昨年暮頃、宮城県栗駒町で温泉旅館を営んでいる「菅原次男」さんからお電話をいただきました。何のお話かと思いましたら、「栗駒町には義経公の遺骸を祭る史跡―御葬礼所があります。藤沢にある首塚を是非一度訪ねたい。」面白いことを言う人だ。義経公の伝説は公認されている史実以上に伝説伝承があまり多く、信憑性は乏しい、世の人々の興味本位の史跡巡りには付き合いたくない、くるのならばどうぞ、と心の奥底で思っておりました。それ以前に「藤沢の首塚の伝承は江戸時代文化文政期に作り上げられた観光名所だ、そのうち史料に基づき論破してやろう!」と思っていた矢先のお話です。でもまあ世の中には判官びいきがいるし歴史に興味のある人ならば、首塚をみたい気持ちはわかる。藤沢の江戸時代の関係史料などを送りました。

伝説を伝説として理解できる人、良識のある人であることを望みながら、何度かお話を伺うと「首と胴体がいまだに別れたまま、是非合わせて供養したい。」との申し出に、こうした発想はだれもしていなかったことに気づきました。また、「この機会に合わせた霊を栗駒で供養するため、奥州路を歩いて500キロの旅をしたい。」この壮大な思いにいつしか感動をしておりました。

二月、梅が満開の季節に菅原次男さんとは暗黙の了解―静かに義経公の慰霊をしよう、マスコミや心ない人とは付き合いたくない、バカ騒ぎはしたくない。―多少自己満足的ですが純粋に御分霊を弔いたい気持ちでいっぱいでした。これが歴史のロマン、自己満足のどこが悪いと…!!
 

3.六月十三日の義経公鎮霊祭までの足取り

白旗神社の近藤宮司さん氏子総代の西山栄一さんに早速相談、四月十七日、十八日に私が栗駒町に出向き史跡関係史料の収集に平泉方面など調査旅行、もちろんくりこま荘で宿泊、一応の成果を得ましたので藤沢での受け入れの日程準備を藤沢の白旗神社「行事神賑委員会」の皆様とすすめました。日程も六月十三日首実検に因んだ日に決められ、立派な供養塔も建設されることになりました。

さて供養するのにシンボルとして何がよいのか、菅原さんは栗駒周辺に採取される「黄銅石」と御葬礼所の土を用意したいとのこと、宮司さんに相談すると「土や石は霊が一番宿るもの」とのお言葉、藤沢側もどうするか、菅原さんの希望は「腰越の海の砂」がよい蚪の意見、それならば首塚の土をもとスンナリ決まりました。藤沢側の用意は西山さんがすっかり手配してくれました。まあ俗に「首と胴体を合体する」という言い方もよくない、これも宮司さんに相談すると「御分霊供養」であると教えていただきました。神事についてはスッカリ近藤宮司さんのお世話になり、勉強するが多くありました。

六月十三日の「御鎮霊祭」は厳かに古式ゆかしい式典になったことは言うまでもありません。

以上
<追伸>

白旗神社の機関誌「ささりんどう」に藤原宿の首塚と栗駒町の御葬礼所についての紹介文があります。現在判明している史料を引用してあります。ご希望の方はご一報ください。

 

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