日本の世界遺産運動  平泉ショックからの再出発



平泉の秋 中尊寺金色堂
(05年11月5日 佐藤弘弥撮影)

 ◆ 平泉ショックとは何か

日本各地で地方財政が破綻寸前になっている。 07年3月、北海道の夕張市が「財政再建団体」に指定されたことは、日本中の地方住民に衝撃を与えた。そん な厳しい状況下で、ユネスコ世界遺産の誘致を通じて、これを財政再建の切り札とはいかないまでも「町おこし」のひとつのテコとして活用しようとする動きが 活発となっていた。

07年6月には、石見銀山がユネスコ世界遺産に登録され、日本各地で世界遺産を通じて地方活性化をするという期待は膨らんでいた。しかしこの石見銀山の世 界遺産登録においては、ユネスコに世界遺産を推薦する役割のイコモス(国際記念物会議)が、石見銀山の世界遺産入りについて、世界遺産としての証明が不十 分であるとして、登録延期を勧告していた。関係者は驚いた。なぜなら、それまで日本政府が推薦する世界遺産候補は、何の障害もなく、登録されるものとの空 気があった。それが突然否定されたのである。

そこで外務省、文化庁を中核とした日本側スタッフは、このイコモスの勧告に対し猛烈な反撃を開始する。その中心人物は、外務省出身のユネスコ日本政府代表 部近藤誠一大使だった。同大使は、自然との共生などを掲げ、21カ国のユネスコ委員会国に、石見銀山の世界史的価値と遺産が自然との共生という今日的価値 を持っていることを説明するなどして徹底的な攻勢をかけて、本委員会で逆転登録を果たした。この時、イコモスのメンツは正直潰された格好だった。

08年5月。イコモスは、石見銀山に続いて、平泉の世界遺産登録について、登録延期の勧告を下した。理由は、日本が提出した平泉について推薦書について、 世界遺産としての価値の証明が不十分であるとしたものだった。当然、1年前の石見銀山の登録についての苦節を噛みしめた上で、よもや平泉については、問題 はないだろうと思っていただけに、このイコモスのシビアな登録延期勧告は、日本中に衝撃をもたらした。


 ◆ イコモス「平泉登録延期勧告」の内容

具体的な勧告内容は、以下の7点である。
(1)全体の配置と浄土思想の関連をめぐる普遍的価値の証明が不十分
(2)平泉の景観が傑出した空間造形であるとする証明が不十分
(3)骨寺荘園遺跡の空間配置と浄土思想の関連についての証明が不十分
(4)平泉の浄土思想が世界的意義を有するものであるとする証明が不十分
(5)アジア地域においての平泉遺跡の普遍的価値の比較研究が不十分
(6)推薦資産の範囲について再検討すべきとの提言
(7)コアゾーンとバッファゾーンの整理が不十分

この7項目の中で最大の問題は「浄土思想」であるように思われた。何しろ平泉の世界遺産のタイトルは、「平泉−浄土思想を基調とした平泉の文化的景観」 で」ある。この遺産の基本コンセプトである「浄土思想」が否定されたことで、この推薦書の価値の証明そのものが、揺らぐ形となった。このことは、当初から 心配された問題だった。それは西洋の委員たちに、宗教的概念である「浄土思想」というものが、正しく理解されるだろうかという懸念である。


 ◆ 推薦書の重大な欠陥

またこの推薦書には、重大な欠陥が内在していた。それは9つに増やされたコア・ゾーンが、浄土思想という概念でどうしても説明しきれていないということ だった。この点をイコモスの勧告書はズバリと指摘した。例えば、達谷窟は、時代が平泉建都以前の遺跡であり浄土思想で説明しきれないこと。同じく長者原廃 寺遺跡や白鳥舘遺跡も時代が相違していること。また骨寺荘園遺跡も中尊寺の荘園ではあるが、浄土思想という概念で証明はできていないことなどだ。

またイコモス勧告書は、平泉の庭園都市というものに注目し、中国、韓国などとの比較研究があれば、世界遺産登録の評価基準2の「価値の交流」をもって、登録は可能であると示唆を行った。しかし提出済み推薦書においては、この点については、証明は不十分だった。

またイコモスの指摘で、いまだに日本側関係者が理解していないと思われるものは、最後の(7)の指摘のコアゾーンとバッファゾーンの整理の不十分という点 である。これは極端な例を取れば、コアゾーンである柳の御所の脇を平泉バイパスや高館橋が通っていること。コアゾーンを包括的に守るはずのバッファゾーン の中に普遍的価値を台無しにするような構築物が登録運動と同時並行的に構築されつつあった矛盾が、ズバリと指摘されたことになる。

これはイコモスが、本委員会で登録延期の説明を行った際にも、「バッファゾーンの中にコアゾーンがあるようなもの」と指摘された。もっと言えば、現時点 で、柳の御所は、コアゾーンたり得ないと言われたようなものである。現在、ユネスコは、ドレスデンのエルベ渓谷に橋脚を架ける計画に対し、もしもこの橋を 架けるのであれば、世界遺産登録から外すことを勧告しており、登録以前の平泉において行われている公共工事に対しても、厳しい目を向けていることを示して いる。


 ◆ イコモス勧告に対する日本側の猛反論の中身

このイコモス勧告に対し、文化庁、外務省のスタッフは、「浄土思想」を説明するために、源信の「往生要集」や「阿弥陀来迎図」などの資料を追加提出し、ま た9つのコアゾーンを象ったジオラマなどを近藤大使自身が持ち歩いて、委員会国に説明するなどの外交攻勢を展開したが、カナダのケベックでの本会議では、 議長国カナダから、最後にコアゾーンを再構成する気持ちはあるか、という問いに、9つのコアゾーンは全体として機能しているもので、その考えはないと答 え、結局登録延期が決まったものである。08年7月6日のことだった。

この時から、日本中を「平泉ショック」が駆け巡った。平泉は、中尊寺金色堂を抱える東北を代表する遺産群で、登録されて当然の空気があった。しかし5月の イコモスの登録延期勧告以降、空気は一変した。イコモスが、推薦書の厳密な講読を行い、ひとつひとつ価値の「真性性」や「完全性」について吟味しながら、 価値の証明が不十分としたものである。


 ◆ 結論 世界遺産の視点からわが町の遺産を観る

神奈川県の古都鎌倉や群馬県富岡に限らず、我が町に世界遺産を誕生させたいと運動を続けているものは、この平泉ショックの諸相を厳密に検証し、そこから再スタートをすべきだ。

独りよがりな証明では、イコモスの委員を納得させる推薦書は構築できないと知るべきだ。

ただ、視点を換えてみれば、平泉が持つ、絶対平和を希求する「中尊寺供願文」の思想は、ユネスコ世界遺産条約前文の先駆けであり、皆金色(かいこんじき)と言われる金色堂それひとつで世界遺産の価値を有するものと考えられる。

今回の平泉の推薦書には、「浄土思想」という宗教概念が遺産の中核思想として盛られた。さらにこの浄土思想では決して括れないコア・ゾーンが追加され、推 薦書は矛盾に満ちたものとなり、価値の証明は破綻した。イコモスは、厳しく推薦書の矛盾点を突き、「登録延期」が相当であると、ユネスコに諮問したのであ る。元々矛盾を承知で、コア・ゾーンを追加し、推薦書を作成した文化庁の責任は重いと言わなければならない。

今後、コア・ゾーンが、3市町にまたがる「平泉」のケースでは地域の利害調整も容易ではない。しかし、「コア・ゾーン」の削減はもちろん「浄土思想」を外 すことなども含め、ゼロベースで再考することが肝要と思われる。問題は、自分たちの独りよがりな論理を優先するのではなく、ユネスコ世界遺産条約の概念に 合わせることである。幸い日本を含むアジア諸国の努力によって、ユネスコ世界遺産条約自身、これまでの西洋の石の文化優先の遺産から、無形なもの、目に見 えないものの価値を認めつつあることは確かだ。

この点を踏まえながら、私たちは、わが町わが郷土の遺産遺跡を、世界遺産として再発見することから、これからの世界遺産運動を開始すべきだと思われる。

2008.10.15 佐藤弘弥

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