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平泉の世界遺産入り政府の推薦決定に思う

平泉は本当に世界遺産に登録されるのか



中尊寺旧さや堂横に置かれた松尾芭蕉の銅像
(2004年7月21日 佐藤弘弥撮影)

我が夢は松尾芭蕉が夏草の句に祈念せし山河の守り   ひろや


2006年9月14日、平泉の世界遺産登録について、日本政府の推薦が正式に決まったようだ。岩手日報は、15日朝刊で以下のように伝えている。

政府は14日、 世界遺産条約関係省庁連絡会議を外務省で開き、平泉の文化遺産を「平泉−浄土思想を基調とする文化的景観」として国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界 遺産(文化遺産)に推薦することを正式に決めた。2008年の登録に向けた手続きは大きく進み、「平泉」の評価の場は国内から世界に移る。

これまで日本政府の推薦候補地が落選した試しはないということで、平泉の世界遺産入りは、いよいよ秒読みに入ったという見方が強くなった。

しかし落選への不安は、私の中で暗雲のように膨らむばかりだ。今年の6月平泉の世界遺産入りに向けて国際専門家会議が現地で開催された。各国のイコモス (国際記念物遺跡会議)委員がやってきて、コアゾーンの中の限られた地域を駆け足で巡った。その時、たまたまオランダのロバート・デ・ヨング委員が、無量 光院の借景となっている金鶏山に鉄塔が立っているのを目の当たりにして、「あれは何かの間違いだと思った。」と強い違和感を口にされた。それからというも の、以前からあった「広告看板問題」に加え、新たに「鉄塔問題」が持ち上がり、これを何とかしようとの声が各方面から上がり始めた。

ただ平泉の世界遺産登録に向けての差し迫った問題は、実は広告看板問題や鉄塔問題などではない。最大のネックは、ふたつの公共工事による歴史的文化的眺望 の変化である。ふたつとは言うまでもなく、「平泉バイパス」と「衣川堤防」のことだ。あの俳聖松尾芭蕉が、今から300年ほど前、平泉を訪れると、真っ先 に英雄源義経終焉の地と信じられていた高館山に登った。そこで涙を流しつつ、「夏草や兵どもが夢の跡・・・」と詠じたことは、ひとつの風景美(景観)の発 見であった。芭蕉の発見以降、高館からの景観は、文字通り「平泉第一の眺望」と言われるようになった。しかし今、この歴史的景観は、高館直下周辺のふたつ の公共工事によってズタズタになってしまっている。来年6月に予定されているイコモス委員会による現地調査までに、この問題が解消されるはずもなく、これ が障害となって、登録猶予などという処置が取られないという保証はどこにもない。

要は自分たちの目ではなく、旅人(来訪者)の目、外国人の目に、平泉の現在がどのように映るかということが問題なのだ。今年の6月の各巡視はコアゾーン中 心で、しかも地元が選んだポイントであった。来年の6月は、こんな訳には行かないのである。

私たちは、6年ほど前から、平泉という場所が本来の美しい町になるようにバイパス問題をどのように解決できるかと思案している過程で「平泉を世界遺産する 会」というものを立ち上げて、ささやかな運動を展開してきた。会の最終目標は、平泉を美しい姿のまま未来の人々に託すことであって、平泉を世界遺産にする ことではない。あえて言えば、「世界遺産」は、ひとつの「方便」に過ぎないのだ。誤解されるといけないので方便について記して置きたい。

むかしブッダが、ある弟子にこう言った。
「私が説いた教えは、彼岸(対岸)に渡るための筏に過ぎない。ひとたび川を渡って対岸に着いたならば、筏はいらないであろう。そうだ。教えとは方便に過ぎ ないのだ。」

つまりブッダが説いた教えとは、人が真実の自己に目覚めるためのものであって、教えのために人が存在するのではない。だから川を渡る筏のようなもので、そ んなに堅苦しく考えなくてもいいよ、ということになる。しかし人はいつしか教えに縛られこれに従属して生きるようになった。これと同じで、私たちにとっ て、世界遺産は、平泉が平泉で在り続けるための「方便」に過ぎないのである。しかし今や平泉に限らず「世界遺産」は幻想化して、地域起しの活性剤と考えら れるようになり、いつの間にかブランド化してしまった感すらある。中高年者による百名山の登山ブーム同様、世界遺産は観光資源のためのブランドなどでは断 じてない。この辺り日本中で大いなる誤解が生じている。「世界遺産になれば、なにか御利益がある」というのは幻想に過ぎない。言葉は悪いが猫も杓子もと 言った具合に「世界遺産誘致運動」が全国各地で巻き起こっている。私からすればネコやシャクシが踊っているような実に滑稽で情けない姿に見えてしまう。そ れが最後には涙が出るほど悲しくなってくる。地方が疲弊してしまっていることはよく分かっている。それで余計に悲しいのだ。

「世界遺産登録」は、登録地にバラ色の未来を約束するような甘いものではない。一足先に世界遺産登録された高野山では、登録にも拘わらず、観光客は、高野 山を素通りするばかりで、地元の荒野町が世界遺産の恩恵にあずかっているとは言えない状況だ。それどころか、人口が激減していることもあり、町の財政も大 変厳しい状況にある。周知のように高野山は、空海が開いた真言密教の根本道場である。明治以降女人禁制が解かれ、一時は人口も1万人以上に増加した頃も あった。しかし直近では4千人をきるまで激減している。観光で訪れる人にとっては、高野山の壇上伽藍に聳える根本大塔を見上げながら、「何て空海は凄い宗 教都市をこんな高いところに造ったのか。美しい。」と思うであろう。しかし高野山を取り巻く現実はまったく別のところにある。格差拡大の現実がこんなとこ ろにも現れているのだ。こうなると世界遺産登録とは、いったい何だったのか、と言う住民も現れている。この例ひとつをとっても、世界遺産登録が、その町の 再生の切り札となって、多大な恩恵をもたらすとは間違っても言えないのである。

平泉はどうか。平泉の人口も高野山ほどではないが、減少の一途(直近でほぼ9千人)を辿り続けている。世界遺産に登録されたとして、これまでの例で言え ば、観光バスでやってきた観光客は、中尊寺、毛越寺や無量光院、衣川の長者が原廃寺跡などを廻った後、北に行けば花巻温泉、南に行けば松島に宿を取ってし まう可能性が高い。そうなると平泉は、これまで通り単なるみちのく観光の通過点でしかなくなってしまうのである。

さて日本中ほとんどの地方の地域経済がそうであるように、平泉周辺の市町村も、色々とタテマエとホンネが入り交じって見極め難いが、依然として公共事業頼 りの状況にあることだけは確かだ。平泉バイパスが建設されたのも、このような状況の中で、立案されたものだ。しかしながらこのバイパス計画や堤防工事に よって、芭蕉が「夏草や兵どもが夢の跡」と詠った歴史的文化的景観は、完膚なきほどに台無となってしまったのである。

今回政府の推薦が決定し、来年(2007年)2月には、世界遺産委員会への推薦書の提出、続いて6月にはイコモス委員会の現地調査が待っている。そして2 年後の2008年7月には、世界遺産委員会の会議で、登録されるかどうかの決定が下るというシナリオになる。これまで日本政府の推薦した候補地が落選した ことはないので、平泉が世界遺産になる可能性は高まったことは確かだ。

しかし私たちは、「松尾芭蕉が発見した歴史的景観の修復なくしては、世界遺産の価値は平泉にはない」と、日本や現地の関係者だけではなく全世界の人々に向 けて言いたい。もちろん一目で判別できる景観だけではない。目には見えぬが、景観の背後にある精神性はもっと重要だ。周知のように平泉は、戦争によって亡 くなったあらゆる命を極楽浄土へ送ろう。二度と戦争の惨禍によって、命がなくならないようにしよう。そんな恒久平和の理念に基づいて、初代藤原清衡公 (1056−1128)が建都した平和の都市である。今日、無差別テロが横行し戦争の火種が世界各地でくすぶっている時、「中尊寺落慶供養願文」(重文) に遺された平泉の平和都市の理念は、これからますます一筋の光明を暴力によって疲弊した世界に向けて放っていくだろう。これこそが、平泉が世界遺産に登録 されるべき本領だと私は信じる。

何故ならば、世界人類は、第一次、第二次世界大戦という戦争の過ちを二度と繰り返してはならないとして、「ユネスコ憲章」(1946年)を成立させたので あったが、その前文には、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。(後略)」と明記されている。 よくよく考えてみれば、ここに示されている恒久平和の思想は、「中尊寺落慶供養願文」(1126年)に盛られている精神と同質のものだ。つまり、ユネスコ 世界遺産条約の前提となるユネスコ憲章の成立する遙か八百年以上も前に、平泉を建都した初代藤原清衡公は、恒久平和を祈念しつつ「平泉」という平和都市を 建設したのである。

平泉を世界遺産にしようと思うすべての人々は、もう一度、安易な楽観論を排し、現在の平泉の根本問題について、その歴史的文化的視点という原点に立ち返っ て整理検討し、腹を据えて行動に移さなければならないのである。((2006.9.15 平泉景観問題HP 代表世話人 佐藤弘弥記) 


2006.9.15  Hsato

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