ユネスコ世界遺産登録目前?!
平泉の変貌に泣く




 
平 泉遠望
(2004年5月15日 佐藤弘弥撮影)

開発の短慮にまみれ 奥州の都はまたも滅び去るのか
 
上の写真は二年前の平泉の中心地を東の駒形山の展望台から撮ったものである。奥には、屏風のようにして奥羽山脈に 連なる栗駒山が聳え、手前には北上川が流れている。中央には、かつて義経が居館であったとされる高館山がある。そこは芭蕉が、「夏草や兵どもが夢の跡」と 詠んでしばらく茫然と立ちつくした平泉一の景勝地である。その背後には、奥州藤原氏四代の遺骸の眠る金色堂が凛として立つ関山がある。つまり私たちは、芭 蕉の感嘆した地を神の視点で一望していることになる。

何と畏れ多いことだろう。右手の端の切れ込みのように見えるのは衣川だ。川に沿って左から右に建設中の堤防のように見える赤土は、堤防の役目を果たしなが ら、平泉から衣川の交通渋滞を緩和する目的で計画された「平泉バイパス」である。この時の工事の先端部は、衣川の手前付近まで迫っていたが、今は衣川を遙 かに越えて伸びている。

この景色を見てあなたは何を感じるだろう・・・。私は失われて行く「美」というものを観じる。この景色に見えるのは、不易な価値をもつ景色が無神経な開発 の思想によって陵辱されている無惨な姿である。今や、平泉の風景は、風前の灯火のような有様になってしまった。

写真の田んぼの妙に整った形状に、私は戦後日本の農業政策が凝縮していることを実感する。少し前まで、ここには不揃いな形の田んぼがわずかな集落が点在し ていた。人家には「いぐね」と呼ばれる屋敷林がぐるりと取り囲んで東北の田舎特有の美しい風情を醸し出していた。しかし戦後の度重なる水害によって、「遊 水地」計画が立てられ民家は移動させられた。そこにあった様々な形状をしていた田畑は、農地改善事業の推進によって、全てが真っ直ぐな一反歩ほどの規格に 統一され、現在に至っている。

世は効率の時代となり、日本の農業にもそれが求められたのである。しかしよくよく考えると、農水省の目論見はことごとく外れて、農業の官による統制は、少 しも農村を潤わすことはなかった。田んぼの所有には、現在農地の改善費が借金として重くのし掛かっている現状がある。

かつて田んぼの周辺には、黄金文化を誇った平泉の武家屋敷が並んでいたと考えられている。発掘調査によって、寺の跡と思われる区画も見つかったが、埋め戻 されたと聞いた。往時、北上川は、この上流部でふたつに分かれていて、麓の付近を流れていたらしい。平泉の人々は、ここを桜川と呼んで親しんでいたのであ る。春になれば、桜川の両岸に丹誠込めて植えられた桜並木が美しく咲き乱れ、その花びらは、花いかだとなって、流れていたことだろう。花の歌人と呼ばれる 西行法師も、二度この平泉にやってきて、「聞きもせじ束稲山の桜花吉野のほかにかかるべしとは」と詠った。西行は奥州にも吉野山にも負けない桜が植えられ ていることの驚きを隠さず、ただ素直に気持に歌に込めたのである。

往時、ここには10数万の人々が、平和のうちに暮らしていた。奥州平泉は、30年に及ぶ前九年、後三年の役と呼ばれる悲惨極まりない戦争が終結した後、奥 州の覇者となった藤原秀衡が、二度と戦争のない国を建設しようとの誓いをもって開かれた非戦の都市であった。それがために、建都からわずか百年後にして、 奥州藤原氏四代泰衡は、非戦の都市平泉を戦禍から守るために、北方へ逃亡したと考える向きがある。真意は分からない。しかしこの傷だらけの風景の中に、未 来に遺し伝えるべき何かがあることは、何人たりとも否定できまい。

滅びても黄金(こがね)の都市と呼ばれ来 し水の都に二度目の滅び


2006.5,20 佐藤弘弥

義経伝説

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