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不思議な都市平泉

西行もこのような夕日に染まる平泉を束稲山から眺めたのであろうか
(佐藤2001.4.28撮影)

平泉という都市は実に不思議な都市である。八百年以上も前に、奥州藤原氏が滅亡した後は、政治都市としての機能は完全に失われたにも関わらず、それからは大乗仏教の根本理念を純粋な形で反映する宗教都市として生き続けてきた。そしてこの不思議な佇まいの宗教都市平泉は、八百年数十年前の黄金文化の一端を今日に伝えている。

政治的なるものは失われ、宗教的なるものが、残ったというこの事実の持つ意味は、深遠な哲学のようですらある。すなわち一見するところ、平泉という都市は、中尊寺金色堂の皆金色の豪奢イメージによって、あらぬ誤解を受けている部分もあるが、この都市を構築しようとした初代藤原清衡公のグランドデザインは、京都コンプレックスや単なるど派手な成金趣味の精神を背景として形成されたものではない。それは少し大げさに表現が許されるならば、「仏教に帰依し万人に平和をもたらしたい」という清衡公の、切なる念いが募って実現した一種の宗教心の都市的顕現そのものと言える。

しかしながら政治都市としての平泉はあっという間にこの地上から姿を消した。その時間は、僅か三代99年の歳月に過ぎなかった。ともかく清衡公の念いが中尊寺を創造する根本精神となり、さらにその嫡子基衡公がその父の精神を受け継ぎ発展させる形で毛越寺に民衆の前に仏の国を再現してみせ、最後には清衡の孫秀衡が無量光院に仏の心の何たるかを観相できる御堂を遺し、清衡公が建設した都市平泉は、奥州藤原氏の滅亡とともに滅びたのである。

確かに政治的都市平泉は滅びた。いや政治的な力と権謀術策によって滅ぼされた。ところが宗教的都市平泉、聖地としての平泉はけっして滅びることはなかった。その理由は明確である。それは清衡公の念いが、時の政治によって、滅ぼされるような類の精神ではなかったからである。そこにこそ平泉文化の奥の深さと本質が在るのである。

歴史において、政治的生命を絶たれた都市が、宗教都市として生き残るのは、もちろん平泉だけではない。例えば、島根県出雲という古代都市があるが、国譲りにおいて、一切の政治性を消失したことによって、出雲の神々は、出雲大社という巨大な神殿の中に永遠に生き続けることになった。これは政治的な側面から言えば、政治的妥協ではあったこもしれないが、文化史的に言えば、出雲の宗教的精神が、さらに大きな日本精神に昇華した瞬間でもあった。これを表して「一地域文化の文化的昇華」という表現することもできる。

平泉において、812年前に起こった悲劇もまた、文化史的に表現すれば「文化的昇華」そのものであり、単なる悲劇や滅亡ではなかった。それはまさに文化的宗教都市平泉の始まりでもあった。三代秀衡公が文治三年十月29日に卒去し、義経公が文治五年閏四月三十日に自刃し、最後に四代泰衡公が、文治五年九月三日、家臣の者に殺害された瞬間から、「奥州平泉文化の文化的昇華」が行われたことになる。

清衡公の念いはこうして平泉文化として結実し、奥州の一隅平泉にありながら、戦の無き世をひたすら念願する世界文化史の中でも稀有なる聖地平泉として、今日に至っているのである。平泉全体を覆っている独特なる神聖を、あなたはどのように感じるだろう。夏草の一本に至るまで、そこには平泉文化の匂いが充満しているはずだ。だからこそ平泉は、今世界遺産として登録されるべきであろうし、安易な道路計画は、再考されなければならないのである。佐藤
 

 


2001.5.17

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