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冬の高館山遠望
毛越寺を出て、その高館(たかだて)に向かった。高館は別名「判官館」(はんがんだて)とも呼ばれ、柳の御所の北に位置し、高さにして100m
にも満たな
い丘陵である。しかしこの地は長く源義経の居城と言われ、大切にされてきた。この南麓付近に、世界遺産入りで問題視された東北電力の変電所がある。最近、
その前から真っ直ぐに参道が造られた。この参道を登り、200円の拝観料を払って、わずか三十段ばかりの階段を駆け上がると、眼下に芭蕉が涙を流したとい
う「兵どもが夢の跡」の風景が広がっている。
1998年より、この丸10年間ほど、私はこの景色が移り変わるのを、ずっと見続けてきた。かつて、ここは風景において平泉随一と言われ続けて
きたところ
だ。ところが今、その景色は、近代文明の塵のようなものが、侵入してきて、いっぺんに駄目になった・・・。同時代を生きた者として、この塵の侵入を防げな
かったという罪を免れることはできないと思うことがある。そして近代文明が持つ「業」や「驕り」のようなものを見る気がして、最近では高館に登るのが、少
し億劫(おっくう)になってきている。
この高館の西の端の一際小高いところに「義経堂」がある。この御堂は天和三年(1683)伊達家三代当主綱村によって建立されたものだ。この御
堂には、凛々しい若武者の義経の木像が安置されている。私もこの木像に手を合わせ、ひたすら新年の平穏と安寧を祈った。
芭蕉がここを訪れたのは、元禄二年(1689)の五月だった。その年は、丁度義経没後五百年と奥州藤原氏滅亡五百年の年だった。その意味で芭蕉
の「おくの
細道」の旅は、義経と奥州藤原氏への追善の思いが昂じて行われたものと考えられる。したがって芭蕉は、義経堂建立から5年目で訪れたことになり、真新し
かったこの御堂を見ているはずであるが、一言も触れていない。
芭蕉はただひたすら夏草の生い茂る古城の原風景だけを筆記したのみだった。芭蕉にしてみれば、時の殿様が造営させた真新しい義経の木像と御堂な
どを己の紀
行文として書き連ねる気など更々なかったのだろう。分かる気がする。芭蕉の志向する表現とは、自分が大切と観ずるものに心を置き、そこに鋭く焦点を合わ
せ、余剰な感覚を一切捨て去って、虚ろなほど短い17文字にすべてを託すことであった。芭蕉は、源義経とその家来たちの不遇の最後を哀れみ、時を忘れてひ
たすら涙を零したのであった。
北上川を遡った箱石橋
から高館と中尊寺方向を遠望
3 平泉、世界遺産入りへの不安材料
高館からの冬景色を見ながら、平泉の世界遺産登録が迫っていることを思った。今年の7月、カナダのケベックで世界遺産会議が開催され、平泉の世
界遺産入りが審議される。そこで、平泉は晴れて世界遺産として登録されるのだろうか・・・。
平泉の世界遺産登録には、景観に関してさまざまな不安材料がある。
第一に「平泉バイパス」の高い路面がコアゾーンの柳の御所の景観を著しく傷つけている。そして第二に「衣川堤防」のかさ上げ工事が、川床と川岸
の三面をコンクリートによって覆って要塞か、あるいは「ベルリンの壁」のような様相を呈するまでになっている。
また第三に、昨年訪れたイコモス(国際記念物・遺産会議)のオランダ委員から指摘された「鉄塔問題」がある。これは平泉のランドマークとも言う
べき金鶏山
の山から東北電力の鉄塔がニョキッと顔を出しているのを見た委員が、「コアゾーンの中にあのような鉄塔があるのはいかがなものか?」と素直に疑問を語った
ものだ。
更に第四には、冒頭で指摘した通り、高館の麓にある東京電力の変電所のことがある。この場所は、世界遺産のコア・ゾーンの柳の御所(平泉館)と
隣接する位
置に当たり、単なるバッファ・ゾーンというものではない。それに源義経の居館であり、日本文学史上の最高傑作のひとつ「おくの細道」で、松尾芭蕉が「夏草
や兵どもが夢の跡」と詠嘆した地でもある。
ものは考え様で、ひとまず世界遺産に登録された後に、近代文明の塵の侵入によって、駄目になった風景の修復を、ひとつひとつ考えて行けば良い、
とする考え
がある。一見、妥協的とも思われるが、現時点では私もこの考えに同意する。世界遺産委員会の管理は厳密で、高野山でも、石の階段の修復に、中国製の石材を
使おうとした時、「何を考えているのですか?」と窘(たしな)められたという話しを聞いたことがある。世界人類共通の普遍的価値を有する遺産を守るという
のは、登録される以上に大変な道程だということを地元関係者は理解する必要がある。
4 岩手経済の疲弊と平泉の世界遺産入りへの期待
高館山から北上川の西岸から束稲山の裾野一体に広がる広大な田んぼを望む。かつて、ここは京都のように碁盤目上に平泉庶民の暮らす町が広がって
いたかもしれない。
実は平泉の都市研究は、始まったばかりだ。平泉の往時の人口については、10万から15万と推定されてはいるものの、聖域とされる北上川西岸か
ら中尊寺、毛越寺にかけての区画以外で、都市平泉を支えていたはずの庶民たちの居住空間は、ほとんど発見されていないのだ。
現在、平泉のある岩手県の景気は最低だ。農家は米価が下がって、高齢者ばかりが田舎に残り、僅かな国民年金で生計を立てている。若い者は、ほと
んどが盛岡
や仙台などの近郊都市かあるいは東京に出てしまう傾向が強い。このように、岩手県は、都市と農村の格差の煽りを日本でもっとも受けている県のひとつだ。
ちなみに一人当たりの県民所得は、平成16年度(2004)の内閣府の「県民経済計算」では、236万円で47都道府県中39番目となってい
る。昨年度
は、さらに生産者米価が一段と下がっていることなどを考え合わせると、県民所得は、いっそう低下していることが予想される。また自殺率も平成17年
(2005)のワースト3位から18年(2006)は秋田県に次ぐワースト2位と極めて高い(岩手県環境保健研究センターの資料より)など、県民の生活は
不安だらけだ。
したがって、岩手県にとって、県南に位置する平泉が世界遺産に登録されることは、単なる観光誘致や町おこしというよりは、県全体の経済活性化の
意味合いがあるとみるべきだ。
私が平泉を訪れた1月3日、昨年知事に当選した達増(たっそ)拓也岩手県知事(43)は、平泉の中尊寺、毛越寺に初詣を行い、翌日県庁で記者会
見を行い次のように述べている。
「今年は、平泉がユネスコの世界遺産登録されるかどうかの結論が出る年でもあります。・・・平泉は、地方主権というものが実現していた、そうい
う記念碑的
な存在でありますし、私たちの先人がそういう偉業を既に800年前、900年前になし遂げていた。それをしっかり引き継いで、この岩手からそういう地方主
権というものを全国にもアピールしていければと思います。」(岩手県HPより抜粋)
また達増知事は、平泉が世界遺産に登録された場合には、「いわて平泉宣言」(仮称)として平泉の平和と自治の精神を、世界中に発信したいとの意
向を語っている。
しかし、今年の7月、たとえ平泉がスムーズに世界遺産に登録されたからと言って、これによって直ちに、平泉が活性化し、地元および岩手県が観光
収入で潤うというものではない。
第一、平泉には、絶対的に宿泊施設が不足している。また中尊寺、毛越寺を除いた景観に魅力が不足している。それは単にコアゾーンである平泉の政
庁「柳の御
所(平泉館)」や「無量光院跡」周辺の景観が長い発掘やバイパス工事で駄目になったというのではない。まして町に設置されている「鉄塔」や国道4号線沿い
で特に目につくどぎつい色合いの「看板」のことを言っているのではない。大事なことは、平泉のそこかしこの街並みそのものが、世界遺産の街並みというレベ
ルに達していないという現実だ。
平泉駅前から西に真っ直ぐ伸びる毛越寺通りも、ただ道を拡げただけで、味わい深さがない。また北に向かって伸びる中尊寺通りは、閑散としている
だけで、旅
行者がこの道を是非とも歩いて、平泉の中心街を散策してみたいと思う気持ちが湧かないほど寂れている。街並みの改善は、単に景観条例で規制すればできると
いうものではない。それにはやはり、地元の町民が、世界遺産の都市平泉に住んでいるという自覚を持つことが前提となる。その上で、町や県が、魅力ある街並
みつくりの支援を行うことが必要となる。
中尊寺通りの街並み
5
平泉とグリーンツーリズム
前節で、平泉の宿泊施設の絶対的不足を指摘した。岩手県では、前知事の増田寛也知事の時代からグリーンツーリズムという手段で、都市部の観光客
を地元の農
家などに滞在させる計画が進んできた。平泉町や奥州市(特に旧衣川村地区)でもこれを活用し、観光に結びつける動きがある。現在、平泉町では、「ひらいず
み型農業実践協議会」が15戸の受入農家を、奥州市では、「おうしゅうグリーン・ツーリズム推進協議会」が約125戸の受入農家を確保していることを、岩
手日報が2008年1月5日の一面トップで報道している。この記事によると、「07年度は、首都圏や関西、仙台などの十八校、二千人(予定を含む)が奥州
市を訪問。08年度分は三千人を超す申し込みがあるという。」(同記事)
この記事で気になるのは、この地域のグリーン・ツーリズムでの顧客層が、ほとんど学校単位での集客であることだ。やはり中学生・高校生では限界
がある。グ
リーン・ツーリズム運動は、本来やはり都市の住民個人が、農家に泊まって、田舎生活を楽しむということにある。つまり本来の意味での「グリーン・ツーリズ
ム運動」でなければ、今後の運動の展開は期待できないのではないだろうか。学生が大人になって、リピーターとして再来訪するのを期待するのは一向に構わな
いが、日本人のライフスタイルそのものに、グリーン・ツーリズムというものが馴染んでいかなければ、結局この計画だって、絵に描いた餅になってしまいかね
ないのである。
したがって、岩手県が、関東のテレビコマーシャルなどの時間枠を買って、岩手県の観光資源である平泉周辺へのグリーン・ツーリズムプランを積極
的に提案し
てみてはどうか。もちろんそのためには、受け入れる側の地元と県や町の関係者が、外国人を含む多様な旅行者を受け入れるための勉強会などを開催するなどの
努力が前提となる。
無量光院跡 借景の金鶏山に鉄塔が見える
6
中尊寺非戦の祈り
高館から、中尊寺通りを過ぎて、中尊寺に向かった。中尊寺の金色堂に初詣するためには、月見坂という急坂を登らなければならない。冬には、ここ
に雪が降り
積もり、滑るために、結構辛いものがある。まして栗駒山からやってくる須川下ろしという雪交じりの風雪が吹いている時には、大変な初詣となる。幸い
2008年度は、温暖化のためか、大した雪もなく、比較的穏やかな正月であった。金色堂の入り、奥州藤原四代の御遺骸に向かい、深く頭を下げ、心の中でこ
のように祈った。
「藤
原清衡公・基衡公・秀衡公・泰衡公、新年おめでとうございます。ご存じの通り、本年平泉がユネスコ世界遺産に登録されようとしています。誠にめでたいこと
だと思います。清衡公が『中尊寺供養願文』(※注)で900年前に祈られた非戦と平和の誓いが、世界の人々に人類普遍の遺産として認められようとしている
のです。」と。了
(08年1月10日記)
<※注>
中尊寺落慶供養願文
奥州藤原氏初代藤原清衡(1056-1128)が天治3年(1126)に起草させた願文。都市平泉の宗教的中心として中尊寺を建
てる思いを綴ったもの。この願文には、奥州全土を巻き込んで起こった「前九年後三年の役」という戦争で亡くなったあらゆる生きとし生ける生命(人間だけで
はなく草木鳥獣魚虫を含む)の魂を浄土に送ろうとする祈りが込められている。つまり平泉は、清衡の非戦と平和の誓いを持って建設された都市であった。また
この願文の考え方は、ユネスコ世界遺産条約の前提であるユネスコ憲章の「戦争は人の心の中で生まれるものであるから,人の心の中に平和のとりでを築かなけ
ればならない」の先取と考えられる。
平泉
世界遺産のコア・ゾーン
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