「判官贔屓」の奥にあるもの 

-人は心に「悲劇センサー」を持つ?!- 


日本人は、他人の不幸を見るのが好きである。いや、日本人だけではない。、そもそも人間というものは、他人の不幸を見るのが大好きである。ギリシャ悲劇もシェークスピアの悲劇も、高貴な人物が、どうしようもない不幸を背負って、あてどもなく放浪したり、死んだりする。

このように考えてみると、何かしら人間の心の奥には、悲劇に強く反応するセンサーのような感覚が眠っているように感じる。日本の記紀神話の中にも、スサノオやヤマトタケルのように、拭いがたい悲劇的な不幸物語がちりばめられている。そもそも「悲劇」というジャンルが存在すること自体、人間の悲劇好きを物語っているということになる。

「人間というものは、他人の不幸を見るのが大好きである」と私は言った。但し、そこで誤解しないで頂きたいのは、人間の感情は、一方的に、他人の不幸や悲劇を見ることで満足しているということではない。そうではなく、悲劇における不幸好きという感情の裏側には、その不幸を背負った人間に対する憐れみの情というものが、常についてまわるということである。

卑近な例を持ち出せば、「おしん」というドラマが世界中で、人々の涙を誘ったのだが、この空前のヒットの裏には、この作品が、他人の不幸を好む人間の悲劇センサーに感応したからに他ならない。このドラマの視聴者には、「なんとかならないの。可哀想すぎる」という感情が芽生える。そして最後の最後に、主人公おしんがうち続く苦労を乗り越えて、素晴らしい成功を掴み、自分の身内のように心から喜ぶのである。

日本人の不幸好きの典型は、やはり源義経の悲劇的生涯にその極限をみることができる。乳飲み子の時に、源氏の頭領だった父源義朝は、宿敵平清盛によって殺されてしまう。物心も付かない内から、彼は母常磐御前の腕に抱かれて冬の吉野を彷徨うのである。

7才で、鞍馬に預けられ義経は、自分の出自を聞いて愕然とする。僧侶になれという周囲の声を頑として拒み、金売吉次という謎の人物の手引きで、奥州藤原氏の元に密かに下る。そこで、兄頼朝が、平家打倒の御旗を掲げて立ったことを知ると、矢も立てもたまらず、兄の元に駆けつける。そして、宇治川、一ノ谷、屋島、壇ノ浦と、輝かしい軍功をうち立てて、平家打倒の最大のヒーローとなる。しかしながら、運命はたちまちのうちに暗転し、その末路は、哀れの一語であった。

兄に疎まれ、何度も、逆らう気持ちはないとの、文を送りつけるも、受け入れられず、朝敵の汚名を着せられ、極寒の吉野を彷徨い、北陸道を北上して、奥州に辿りつく。しかしながら、父とも慕っていた藤原秀衡は、たちまち急逝してしまい、孤立無援となった義経は、秀衡の息子の泰衡の急襲を受けて自害を遂げる。

日本人は、義経の不幸を「義経記」として、まとめ上げる。およそ、この「義経記」が完成するためには、200年から250年ほどの歳月が掛かったものと見られている。義経記というものを不幸物語として創り上げたのは、日本人の不幸好きの感性そのものである。日本人は、義経の輝かしい軍功よりも、その軍神の如き天才が、背負った不幸の数々にこそ、興味を示したことになる。以来、中世以降の日本人は、記紀神話のヤマトタケルのような神話的ヒーローよりも、辿ればすぐに、その人物の生きていた痕跡を見つけることのできる悲劇の人源義経により強く惹き付けられ、憐憫(れんびん)の情を抱くようになったのである。

仮に、義経がたいした軍功も立てられない人物であったなら、日本人は、これほど判官贔屓と言われるようになるまで、不幸物語としての「義経記」を愛読しなかったに違いない。日本人は、貴種にして軍事の天才源義経の背負った不幸をこそ愛したのである。

佐藤

 


2004.4.2
 
 

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