平家物語と日本人

 

桜と滅びと日本人

日本人の美学の中に、滅びの美というものがあると言われる・・。 

サクラは、この滅びの美の極致の花あるいは、象徴と言ってもいいかもしれない。ではこの滅びの美とは、いったい何であろう。 

この滅びの美の起源は、何と言っても壇ノ浦の戦いで滅びた平家一族の滅亡を描いた平家物語である。その悲惨な物語は、琵琶法師という当時の語りべ達によって、全国に伝えられた。当時京都だけで、500人近い琵琶法師がいたというから、その庶民の間における平家物語の人気のほどが伺える。 

何故、これほど平家の滅びの物語が、大衆に受け入れられていったのか。原因は、かわいそうだ、という哀れみ半分、絶頂を極めた他人の悲惨さを見たい、という下世話な興味半分という所かもしれない。しかしともかくこの平家の滅びの物語は、その後の日本文化に強烈なインパクトを与えていった。その後の能や歌舞伎など、その多くの題材は、この物語から借りているものが実に多い。 

 平家物語は単なる、平家の滅亡のドラマににとどまらない。つまり勝利した方の源氏の滅亡も予感させる下りがある。それが「盛者必衰の理」である。「盛者」とは、もちろん今まさに栄えて絶頂を極めている者であり、「必衰の理」とは、必ず衰退するという法則の意味である。この法則の通り、源氏の世は、頼朝の死後十数年足らずで、あっけなく終わってしまうことになる。平家に起こることは、源氏にも起こるのである。そして、ロ−マに起きることは、アメリカにも起きるのである。 

平家物語の中には、もう一つ「諸行無常」というキーワードがある。これはもちろん仏教の言葉で、「この世のあらゆるものは変化してやまない」という意味である。この時代、中国から日本に禅仏教というものがもたらされ、この禅的なものの考え方と平家物語の生々しい現実が結びついて、日本人特有の人生観は出来上がっていったのである。つまりものの哀れで(滅び行くものの風情)あり、侘び(わび)とか、寂び(さび)などの分かったような分からないような一連の言葉である。 

日本人は、外国人を見ると、決まってこのように言う。 

「詫びや寂びということを、分かりますか」

私からすれば、自分も分かっていないくせに、相手の外国人が知らないと思ってこのように言って、日本人特有の優越意識に浸っているに過ぎない。私は逆にその日本人に聞いてみたい。 

「じゃー侘びとは、なにか?寂びとは、なにか?」 

この質問に答えられる日本人は、まずいないであろう。実は私自身もよく分からない。私が敢えて答えるとすれば、「滅び行く者や自然に対する限りない思いやりの念」とでも言っておこう。日本人のサクラ好きは、平家の滅亡や、源氏の滅亡の歴史の中で徐々に形成されていった固有の心情である。そしていつしか、平家の悲劇のことは置き忘れられて、花見の習 慣だけが、後に残ったことになる。日本人のサクラ下の一種異様なまでの享楽は、このような深いイワレがあるのである。 

 事実、散りゆくサクラに、ものの哀れを感じるのは、世界で日本人だけである。西洋の人間も、他のアジアの人間も、綺麗とは感じるらしいが、けっして侘びや寂びを感じることはないと言う。大げさな言い方が許されるならば、

”日本人は、潜在意識の中で、サクラの中に過去の平家一門の滅びの見事さを見ているのである”

あっけなく聞こえるかもしれないが、これが滅びの美の正体ということになるのではあるまいか。佐藤

    


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1998.03.23