平治物語



 
 
 
 
 
 

凡例

1. 本文は、「平治物語」の中巻から、源義経に関わる章の抜粋である。

2.中巻から、「常葉註進并に信西子息各遠流に處せらるる事」。下巻から「頼朝生捕らるる事附たり常葉落ちらるる事」、「常葉六波羅へ参る事」、「牛若奥州下りの事」、「頼朝義兵を挙げらるゝ事並びに平家退治の事」をそれぞれ抜粋した。

3. 底本には、岩波文庫版「平治物語」岸谷誠一氏校訂の1934年11月刊を使用した。

4. 本書(岩波版)は、渡邊文庫本(東京文理大学所蔵)を底本としている。

5. 本文に添って句読点、振り仮名をつけたが、その際かな使い送り仮名もまた現代のやり方に従った。

佐藤弘弥 記

 
巻中

常葉註進(ときはちゆうしん)并に信西子息各遠流(をんる)に處せらるる事

ここに左馬頭(のかみ)義朝の末子(はつし)ども、九條院雑仕(ざふし)常葉(ときは)が腹に三人あり。兄は今若とて七つに成(なり)、中は乙若(おとわか)とて五つ、末は牛若とて今年(ことし)むまれたり。義朝これらが事心ぐるしく思はれければ、金王丸(こんわうまる)を道より返して、「合戦にうちまけて、いづちともなく落ちゆけども、心は跡(あと)をかへり見て、行(ゆく)さき更におもほえず。いづくにありとも、心やすき事あらば、むかへ取(とる)べき也。其程は深山(みやま)にも身をかくして、我音(わがおと)づれをまち給へ」と申(まうし)つかはされければ、常葉(ときは)ききもあへず、引かづきて伏ししづめり。をさなき人々は聲々に、「父は何(いづ)くにましますぞ、頭殿(かうのとの)は」と問(とひ)給ふ。ややあて常葉(ときは)なくなく、「さてもいづ方(かた)へと聞きつる」と問ひければ、「譜代(ふだい)の御家人達(ごけにんたち)を御頼み候(さぶらひ)て、あづまの方(かた)へとぞ仰候(おほせさぶらひ)し。しばしも御行末おぼつかなく存(ぞんじ)候へば、いとま申て」とて出(いで)にけり。

少納言入道の子ども、僧俗(そうぞく)十二人流罪(るざい)せられけり。「君の御ため、あへて不義を存ぜざりし忠臣の子どもなれば、縦(たとひ)信頼、義朝に流されて配所(はいしよ)にありとも、今は赦免(しやめん)あて召しこそ返さるべきに、結句流罪(けつくるざい)に處せらるる科(とが)の條何事ぞ。心得がたし」といへば、「此人々もとのごとく召しつかはれば、信頼同心(どうしん)の時の事ども、天聴(てんちやう)にや達せんずらんと恐怖(きようふ)して、新大納言経宗(つねむね)、別当惟方(べつたうこれかた)の申(まうし)すすめなるを、天下の擾乱(ぜうらん)にまぎれて、君も臣もおぼしめしあやまてけり」と、心ある人は申(まうし)けるが、虚名(きよめい)は立(りふ)せぬものなれば、いくほどなくてめし返され、経宗(つねむね)、惟方(これかた)の謀計(ぼうけい)はあらはれけるにや、つひに左遷(させん)のうれへにしづみけり。

信西の子どもみな内外(ないげ)の智(ち)人にすぐれ、和漢(わかん)の才(さい)身にそなはりしかば、配所(はいしよ)におもむく其日までも、ここかしこに寄りあひ寄りあひ、歌をよみ詩を作て、互に名残(なごり)をぞをしまれける。西海におもむく人は、八重(やへ)の塩路(しほぢ)をわかれてゆき、東國へくだる輩(ともがら)は、千里(ちさと)の山川を隔(へだて)たる、心のうちぞ哀(あはれ)なる。中にも播磨(の)中将成憲(なりのり)は、老(おい)たる母とをさなき子とをふりすてて、遼遠(れうえん)の境(さかひ)におもむきける、せめての都の名残(なごり)をしさに、所々(ところどころ)にやすらひて、行きもやり給はざりけるが、粟田口(あはたぐち)の辺(ほとり)に馬をとどめて、

   道のべの草のあを葉に駒とめて猶古郷(ふるさと)をかへり見るかな

かくて近江の國をも過ぎゆけば、いかになるみの塩(しほ)ひがた、二(ふた)むら山(やま)、宮路山(みやぢやま)、高師山(たかしやま)、濱名の橋をうちわたり、小夜(さや)の中山、宇津(うつ)の山をもみてゆけば、都にて名にのみききしものをと、それに心をなぐさめて、富士の高根をうちながめ、足柄山をも越(こえ)ぬれば、いづく限(かぎり)ともしらぬ武蔵野や、堀兼(ほりかね)の井(い)も尋(たづね)みてゆけば、下野の國府(こふ)につきて、我(わが)すむべかなる室(むろ)の八島(やしま)とて見やり給へば、烟(けぶり)心ぼそくのぼりて、折から感涙留(かんるいとど)めがたく思はれしかば、なくなくかうぞきこえける。

   我ためにありけるものを下野やむろの八島(やしま)にたへぬ思ひは

ここをば夢にだに見んとは思はざりしかども、今はすみかと跡(あと)をしめ、ならはぬ草の庵(いほり)、たとへん方(かた)もさらになし。
 
 
 

巻下

頼朝生捕らるる事附たり常葉(ときは)落ちらるる事

同(おなじき)二月九日、義朝の三男前右(さきの)兵衛佐(のすけ)頼朝、尾張(の)守の手より生捕(いけどつ)て、六波羅につき給ふ。同(おなじき)次男中宮大夫進(ちゆうぐうのたいふのしん)朝長の首をも奉らる。その故は、彼(かの)尾張(の)守の家人(けにん)、彌平兵衛宗清尾州(やへいびやうえむねきよびしう)より上洛(じやうらく)しけるが、不破(ふは)の関のあなた、関が原といふ所にて、なまめいたる小冠者(こくわんじや)、宗清(むねきよ)が大勢におそれて藪(やぶ)の蔭(かげ)へ立(たち)しのびければ、怪(あやし)みてさがすほどに、かくれ所なくしてとらはれ給ふに、宗清(むねきよ)みれば、兵衛佐(ひやうえのすけ)殿也しかば、よろこぶ事かぎりなし。やがて具足(ぐそく)し奉てのぼるほどに、青墓(おをはか)の大炊(おほひ)がもとにぞ宿(しゆく)しける。いささか聞き及ぶ事ありければ、何となく後苑(こうえん)にいでて見まはすに、あたらしく壇築(だんつ)きたる所に、卒都婆(そとは)を一本たてたり。則(すなはち)其下をほらせければ、をさなき人の首と骸(むくろ)とをさしあはせて埋(うづ)みたり。是を取て、事の子細(しさい)をたづぬれば、力なく大炊(おほひ)ありのままにぞ申(まうし)ける。宗清(むねきよ)喜(よろこん)で同じく持参しける也。よて頼朝をば、先宗清(まづむねきよ)にぞあづけおきける。

其時、延寿腹(えんじゆはら)の姫君、兵衛佐(ひやうえのすけ)のめしとられ給て、都へ上(のぼ)られければ、「我も義朝の子なれば、女子なりとも、つひにはよも助けられじ。一人(ひとり)々々うしなはれんよりは、佐殿(すけどの)と同じ道にこそせめてならめ」とて、ふししづみ給ひけるを、大炊(おほひ)、延寿(えんじゆ)色々になぐさめてとりとどめ奉りけり。其瀬過(せすぎ)ければ、さりともと思ひて、心ゆるししけるにや、二月十一日の夜、夜叉御前(やしやごぜん)ただ一人青墓(ひとりあをはか)の宿(しゆく)を出(いで)、はるかにへだたりたる杭瀬河(くひぜがは)に、身をなげてこそうせ給へ、十一歳とぞきこえし。物(もの)の夫(ふ)の子は、などかをさなき女子もたけかるらんとて、哀(あはれ)をもよほさぬ者もなかりけり。母の延寿(えんじゆ)は、志ふかかりし頭殿(かうのとの)にもおくれ奉り、其かたみとも思ひなぐさみし姫君にも別(わかれ)にければ、一方(ひとかた)ならぬ物おもひに、同じ流(ながれ)に身をしづめんと歎きけるを、大炊(おほひ)様々にこしらへければ、母の心もやぶりがたくて、せめてのかなしさに尼(あま)になり、亡夫并(ならび)に姫君の後の世を、他事(たじ)なくとぶらひけると也。

六波羅より左馬頭(のかみ)の子ども尋(たづね)られけるに、すでに三人出来(いできた)り。兄二人は、はや首をかけられぬ。頼朝もやがて誅(ちゆう)せらるべし。此外(ほか)、九條院の雑仕(ざふし)、常葉(ときは)が腹に三人あり。みな男子にてあなりとて、尋(たづね)られければ、常葉(ときは)これをききて、「われ故頭殿(こかうのとの)におくれ奉てせんかたなきにも、此忘形見(わすれがたみ)にこそ、今日(けふ)までもなぐさむに、もし敵にもとられなば、片時(へんじ)もたへてあるべき心(ここ)ちもせず。さればとて、はかばかしく立忍(たちしの)ぶべき便(たより)もなし。身一つだにもかくしがたきに、三人の子を引具しては、誰かはしばしも宿(やど)すべき」と、なきかなしみけるが、あまりに思ひうる方(かた)もなきままに、「年来(としごろ)たのみ奉りたる観音にこそ、なげき申さめ」とて、二月九日の夜に入て、三人のをさない人を引具して、清水(きよみづ)へこそ参りけれ。母にもしらせじと思ひければ、女(め)の童(わらは)の一人(ひとり)をも具せずして、八(やつ)になる今若をばさきに立てて、六歳の乙若(おとわか)をば手をひき、牛若は二(ふたつ)になれば懐(ふところ)にいだきつつ、たそがれ時に宿(やど)をいで、足に任(まかせ)てたどりゆく、心の中こそ哀(あはれ)なれ。

仏前に参(まいり)ても、二人の子共をわきにすえ、只さめざめとなきいたり。夜(よ)もすがらの祈請(きせい)にも、「妾九(わらはここのつ)の歳(とし)より月詣(つきまうで)を始て、十五になるまでは、十八日ごとに卅三巻(ぐわん)の普門品(ふもんぼん)をよみ奉り、その年より毎月法華経(ほけきやう)三部、十九のとしより日ごとに此卅三体(たい)の聖容(せいよう)をうつし奉る。かくのごとき志、大慈大悲(だいじだいひ)の御誓(おんちかひ)にて照らし知(しろ)しめすならば、わらはが事はともかくも、ただ三人の子共のかひなき命を助(たすけ)させ給へ」と口説(くど)きけり。誠に三十三身(しん)の春の花、匂(にほ)はぬ袖もあらじかし。十九説法(せつぽふ)の秋の月、照(てら)さぬむねもなかるべければ、さすがに千手(じゆ)千眼(げん)も哀(あはれ)とはみそなはし給ふらん、とぞおぼえける。

やうやう暁(あかつき)にもなりゆけば、師の坊(ぼう)へ入(いり)けるに、日来(ひごろ)は左馬頭(のかみ)の最愛の妻なりしかば、参詣の折々(をりをり)には、供の人にいたるまで、清げにこそありしか。今は引かへて、身をやつせるのみならず、尽きせぬなげきに泣きしをれたる姿、目もあてられねば、師の僧あまりのかなしさに、「年来(としごろ)の御なさけ、いかでかわすれまいらせん。をさない人もいたはしければ、しばしはしのびてましませかし」と申せば、「御志はうれしく侍(はべ)れども六波羅ちかき所なれば、しばしもいかがさぶらはむ。まことに忘(わすれ)給はずば、仏神(ぶつしん)の御あはれみよりほかは、たのむ方(かた)も侍(はべ)らねば、観音に能々(よくよく)祈り申てたび給へ」とて、また夜の中に出(いで)ければ、坊主(ぼうず)なくなく、「唐の太宗は仏像を礼(らい)して、栄花(えいぐわ)を一生の春の風にひらき、漢の明帝は経典(きやうてん)を信じて、寿命(じゆみやう)を秋の月に延(のぶ)と申せば、三宝(さんぱう)の御助(おんたすけ)むなしかるまじく候」となぐさめけり。

宇多郡(うだのこほり)を心ざせば、大和大路(やまとおほぢ)を尋(たづね)つつ、南をさしてあゆめども、ならはぬ旅の朝立(あさだち)に、露とあらそふ我涙、袂(たもと)も裾(すそ)もしをれけり。衣更(きさらぎ)の十日の事なれば、余寒(よかん)猶はげしく、嵐(あらし)にこほる道芝(みちしば)の、氷(こほり)に足はやぶれつつ、血にそむ衣(きぬ)のすそご故、よその袖さへしをれけり。はふはふ伏見の叔母を尋(たづね)ゆきたれども、いにしへ源氏の大将軍の北方(きたのかた)などいひし時こそ、睦(むつ)びも親(したし)みしか。今は謀叛人(むほんにん)の妻子(さいし)となれば、うるさしとや思ひけん、物まうでしたりとて、情なかりしか共、もしやとしばしは待(まち)居つつ、待期(まつご)もすぎて立かへれば、日もはややがて暮(くれ)にけり。又立よるべき所もなければ、あやしげなる柴(しば)の戸にたたずみしに、内より女たち出(いで)て、情(なさけ)ありてぞやどしける。世にたたぬ身の旅寝(たびね)とて、うき節(ふし)しげき竹の柱、あるかひもなき命もて、ひとり歎(なげき)ぞ菅(すが)の七■(ななふ)と思ふ人はなし。されど今夜(こよひ)も三■(みふ)にただ、伏見の里に夜をあかし、出(いづ)ればやがて木幡山(こはたやま)、馬はあをばや、かちにても、君を思へばゆくぞとよと、をさなき人にかたりつつ、いざなひゆけば、此人々あゆみつかれて平(ひれ)ふし給ふ。常葉一人(ときはひとり)をいだきける上に、ふたりの人の手をひき、腰(こし)をおさへて、ゆきなやみたる有様(ありさま)、目もあてられず。玉鉾(たまぼこ)の道行(ゆく)人もあやしめば、是も敵(かたき)のかたざまの人にやと肝(きも)をけす所に、旅人(たびびと)も哀(あはれ)に思ひければ、見る者ごとに負ひいだきて助けゆくほどに、なくなく大和國宇多郡龍門(のうだのこほりりゆうもん)といふ所に尋(たづね)いたり、伯父をたのみてかくれいにけり。
 
 

常葉(ときは)六波羅へ参る事

さる程に、清盛は、義朝が子ども、常葉(ときは)が腹に三人ありときいて、しかも男子也、尋(たづね)よとありしかば、常葉(ときは)が母をめし出して問はれける程に、「左馬頭(のかみ)殿うたれ給ひぬときこえし日より、子ども引具していづちともなくまよひ出侍(いではべ)りぬ。いかでかしり侍(はべ)らん」と申(まうし)ければ、「何條(なんでう)、其母をからめ取て尋(たづね)よ」とて、六波羅へめし出して、様々にいましめ問はれけり。母なくなく申(まうし)けるは、「われ六十にあまる身の命、けふあすともしらぬ老(おい)の身ををしみて、未(いまだ)はるかなる孫どもの命をば、いかでかうしなひ侍(はべ)るべきなれば、しりたりとも申(まうす)まじ。ましてしらぬ行(ゆく)すえ、何とか申(まうし)さぶらはん」と口説(くど)きければ、水火(すいくわ)の責(せめ)にも及(およぶ)べかりしを、常葉宇多郡(ときはうだのこほり)にて此よし伝へきき、母のためにうきめにあはんはいかがせん、我故母の苦(くるしみ)を見給ふらんこそかなしけれ。仏神三宝(ぶつしんさんぽう)もさこそにくしとおぼしめすらめ。子どもは僻事(ひがごと)の人の子なれば、つひにはうしなはれこそせんずらめ。隠しもはてぬ子ども故、咎(とが)なき母の命をうしなはん事のかなしさよと思へば、三人の子ども引具して都へのぼり、もとのすみかに行てみれば人もなし。こはいかにとたづぬれば、あたりの人、「一人(ひとひ)六波羅へめされ給(たまひ)しが、いまだ帰り給はず」とぞ答へける。

常葉(ときは)まづ御所へ参(まいつ)て申(まうし)けるは、「女の心のはかなさは、もし片時(へんじ)も身にそへて見ると、此をさなき者ども引具し、かた田舎(いなか)に立忍(たちしの)びて侍(はべり)つるが、妾(わらは)ゆえ行衛(ゆくえ)もしらぬ老(おい)たる母の六波羅へめされて、うきめにあひ給ふとうけ給はれば、余(あまり)にかなしくて、恥をも忘て参りたり。はやはやをさなき者ともろともに、六波羅へつかはさせおはしまして、母のくるしみをやめて給(たまは)りさぶらへ」と申せば、女院を始(はじめ)まいらせて、ありとある人々、「世のつねは、老(おい)たる母をばうしなふとも、後世(ごせ)をこそとぶらはめ。をさなき子どもをばいかが殺さんと思ふべきに、こどもをばうしなふとも、母をたすけんと思ふらむ有(あり)がたさよ。仏神(ぶつしん)もさだめてあはれみおぼしめすらん。年来(としごろ)此御所へ参るとは皆人しれり」とて、尋常(ぢんじやう)に出(いで)たたせて、親子四人きよげなる車にて、六波羅へぞつかはされける。

見なれし宮の中も、けふをかぎりと思ふには、涙もさらにとどまらず。名をのみききし六波羅へも近づけば、屠所(としよ)の羊のあゆみとは、我(わが)身一(ひとつ)にしられたり。常葉(ときは)すでにまいりしかば、伊勢守景綱申次(のかげつなまうしつぎ)にて、「女の心のはかなさは、しばしももしや身にそへ侍(はべる)と、をさなき者あひぐして、かた辺土(へんど)へ忍(しの)びて侍(はべり)つるに、行(ゆく)へもしらぬ母をめしおかせおはしますと承て、御尋(おんたづね)の子どもめしぐして参りさぶらふ。母をばとくとく助(たすけ)おはしませ」とかき口説(くど)けば、きく人まづ涙をぞながしける。清盛此よしきき給ひて、先(まづ)子ども相具して、参(まいつ)たる條神妙(でうしんべう)なりとて、やがて対面し給へば、二人の子は左右(さう)のわきにあり、をさなきをばいだきけり。涙をおさへて申(まうし)けるは、「母はもとよりとがなき身にてさぶらへば、御ゆるし侍(さぶらふ)べし。子どもの命をたすけ給はんとも申候はず。一樹(いちじゆ)のもとにすみ、同じ流(ながれ)をわたるも、此世一(ひとつ)の事ならず。たかきもいやしきも、親の子を思ふならひ、皆さこそさぶらへ。妾(わらは)此子どもをうしなひては、かひなき命、片時(へんじ)もたへて有(ある)べし共覚えさぶらはねば、まづ妾(わらは)をうしなはせ給ひて後、子どもをばともかくも御はからひさぶらはば、此世の御なさけ、後の世までの御利益(ごりやく)、これに過(すぎ)たる御事さぶらはじ。ながらへてよるひる歎き悲しまん事も、罪ふかくおぼえ侍(はべり)」と口説(くど)きければ、六子(むつご)、母の顔を見あげて、「なかでよく申させ給へ」といへば、母は彌(いよいよ)涙にぞむせびける。さしも心つよげにおはしつる清盛も、しきりに涙のすすみければ、おしのごひごひして、さらぬ体(てい)にもてなし給へば、さばかりたけき兵(つはもの)共、みな袖をぞしぼりける。しのびあへぬ輩(ともがら)は、おほく座席を立(たち)けるとかや。

常葉(ときは)は今年(ことし)廿三、こずえの花はかつちりて、すこし盛(さかり)はすぐれ共、中々見所(みどころ)あるにことならず。もとよりみめかたち人にすぐれたるのみならず、をさなきより宮づかへして物なれたるうへ、口ききなりしかば、理(ことわり)ただしう思ふ心をつづけたり。緑のまゆずみ、くれないの涙にみだれて、物思ふ日数(ひかず)へにければ、そのむかしにはあらねども、打しをれたるさま、なほ世のつねにはすぐれたりければ、「此事なくば、いかでかかかる美人をば見(みる)べき」と皆人申せば、或人語りけるは、「よきこそげにも理(ことわり)よ。伊通大臣(これみちのおとど)の、中宮の御かたへ、人のみめよからんをまいいらせんとて、九重(ここのへ)に名を得たる美人を、千人めされて百人えらび、百人が中より十人えらび、十人の中の一とて、此常葉(ときは)をまいらせられたりしかば、唐の楊貴妃(やうきひ)、漢の李夫人(りふじん)も、これにはすぎじものを」といへば、「見れども見れども、いや珍(めづら)かなるもことわりかな」とぞ申(まうし)ける。

去(さる)ほどに、母はゆるされけるに、「此孫どもをうしなひて、あすをもしらぬ老(おい)の身の、たすかりてもなにかせん。うたての常葉(ときは)や。此老(おい)の命を助けんとてや、あの子どもをば何しにぐしてまいりけん。四人の子孫(こまご)の事を思はんより、ただ老(おい)の身をまづうしなはせ給へ」とて、なきかなしみけるもことわり也。足音のあららかなるをも、今やうしなはるる使なるらんと肝(きも)をけし、聲高(こわだか)に物いふをも、はや其事よと魂をうしなひけるに、大弐(だいに)のたまひけるは、「義朝が子共の事、清盛が私のはからひにあらず、君の仰(おほせ)をうけ給はてとりおこなふ計(はかり)也。うかがひ申て、朝議(てうぎ)にこそしたがはめ」との給へば、一門の人々并(ならび)に侍(さぶらひ)ども、「いかにか様(やう)に、御心よわき仰(おほせ)にて候やらん。此三四人成長候はんは只今の事なるべし。公達(きんだち)の御ため、末の世おそろしくこそ候へ」と申せば、清盛「誰もさこそ思へども、おとなしき頼朝を、池殿(いけどの)の仰(おほせ)によて助(たすけ)おくうへは、兄をばたすけ、をさなきを誅すべきならねば、力なき次第也」との給(たまひ)けり。

常葉(ときは)は子どもの命けふにのぶるも、ひとへに観音(くわんおん)の御はからひと思ひければ、彌信心(いよいよしんじん)をいたして、普門品(ふもんぼん)をよみ奉り、子どもには名號(みやうがう)をぞとなへさせ給(たまひ)ける。かくて露の命もきえやらで、春もなかばくれけるに、兵衛佐(ひやうえのすけ)殿は、伊豆(の)國へながさるときこえしかば、我(わが)子どもはいづくへかながされんと、肝(きも)をけし伏ししづみけるが、をさなければとて、さしおかれて、流罪(るざい)の儀にも及ばざりけり。
 
 

牛若奥州下りの事

さても常磐をば、清衡最愛して、ちかき所にとりすえて、通わせけるとぞきこえし。さればその腹の男子三人は流罪をものがれて、兄今若は、醍醐にのぼり、出家して、禅師公全済(ぜんじのきみぜんさい)とぞ申しける。希代の荒者にて悪禅師(あくぜんじ)のいいけり。中乙若は、八條の宮に候て、卿公円済(きょうのきみえんさい)と名乗って坊官法師(ぼうかんほうし)にてぞおわしける。弟牛若は、鞍馬寺の東光坊阿闍梨蓮忍(とうこうぼうあじゃりれんにん)が弟子、禅林坊阿闍梨覚日が弟子に成りて、遮那王(しゃなおう)とぞ申しける。

十一の年とかや、母の申しし事を思い出して、諸家の系図を見けるに、げにも清和天皇より、十代の御苗裔(ごびょうえい:末の血すじ)六孫王より八代、多田の満仲が末葉(まつよう:末孫)、伊予の入道頼義が子孫、八幡太郎義家が孫、六條判官為義が嫡男、前左馬頭(さきのさまのかみ)義朝が末子(ばっし)にて、侍けり。いかにもして平家をほろぼし、父の本望を達せんと思われけるこそおそろしけれ。昼は終日(ひねもす)に学問を事とし、夜は終夜(よもすがら)武芸を稽古されたり。僧正が谷にて、天狗と夜々(よなよな)兵法をならうと云々。されば早足、飛越(とびこえ)、人間のわざとは覚えず。

母の常磐は清衡に思われて、姫君一人もうけたりしが、すさめられて後は、一條の大蔵卿長成の北の方になりて、子どもあまた出で来たり。この遮那王をば、蓮忍も覚日も「出家し給へ」といえば、「兄二人が法師になりたるだに無念なるに、左右(そう)なくはならじ。兵衛佐(ひょうえのすけ)に申し合わせて」など申されけり。強いて言えば、つきころさん(突き殺さん)、さしちがえん(刺し違えん)など、内々もいわれければ、師匠も常磐も継父(ままちち)の大蔵卿も力及ばず、ただ平家の聞きをのみぞ嘆かれける。

ある時、奥州の金商人吉次という者、京上りの次いでに必ず鞍馬へまいりけるにあい給いて、「この童を陸奥へ具して下れ。ゆゆしき人をしりたれば、その悦(よろこび)には、金(こがね)を乞うて得させんずる」との給えば、「御供つかまつらん事はやすき事にて候えども、大衆の御とがめ候わんずらん」と申せば、「この童失せて候とも、誰か尋ね候べき、ただ土用の死人を、盗人のとりたるにこそ候わんずれ」との給えば、「その上は子細候わじ」と約束しけるが、「但し、定日(じょうじつ)には、同道のはからいにて候べし」と申す所に、その人また参詣せり。

遮那王かたらいよて、「御辺は何れの国の人、何氏(なにうじ)にてましますぞ」と、こまごまと問い給えば、「下総国の者にて候。深栖(ふかす)の三郎光重が子、陵助頼重(みささぎのすけよりしげ)と申して、源氏にて候」と答えければ、「さては左右なき人ござんなれ。誰にかむつび給う」。「源三位頼政(げんざんみよりまさ)とこそ申しむつび候え」と申せば「今は何をか、かくしまいらせ侍るべき前右馬頭義朝の末子にて候。母も師匠も法師になれと候えども、存ずる旨侍りて、今までまかり過ぎ候えども、始終都の栖居(すまい)難儀におぼえ候。御辺具して、まず下総まで下り給え。それより吉次を具して、奧へ通り侍らん」と、委細にかたり給えば、「子細なし」と約諾して、生年(しょうねん)十六と申す、承安四年三月三日の暁、鞍馬を出でて、東路はるかに思い立つ、心のほどこそかなしけれ。

その夜、鏡の宿につき、夜ふけて後、手ずから鬢(もとどり)取り上げて、懐より烏帽子取り出し、ひたときて、暁打ち出で給えば、陵助(みささぎのすけ)「はや御元服候けるや、御名はいかに」と問い奉れば、「烏帽子親もなければ、手ずから源九郎義経とこそ名乗り侍れ」と答えて、うちつれ給いて、黄瀬川につきて、北條え寄らんとの給いしを、「父にて、候深栖は、見参に入りて候えども、頼重はいまだ御目にかかり候わず。後日に御文にて仰せ候わん」と申せば、すぐに通り給いけり。

ここに一年ばかりしのびておわしけるが、武勇すぐれて、山立(やまだち)、強盗を縛(いまし)め給う事、凡夫の業共見えざりしかば、「錐(きり)ふくろに達すといえば、始終は平家にやきこえなん」と深栖も申せば、「さらば奥へとお(通)らん」とて、まず伊豆にこえて、兵衛佐殿(ひょうえのすけどの)に対面し、この由を申して、「もし平家聞きなば、御ため然るべからず。されば奥へ下り侍らん」との給うに、佐殿「上野国、大窪太郎が女(むすめ)、十三の年、熊野詣りのついでに、故殿の見参に入り下りしが、父におくれて後、人の妻とならば、平氏の者には契らじ。同じくは秀衡が妻(め)とならん」とて、女夜逃げにして奥へ下りける程に、秀衡が郎等信夫小大夫(しのぶのこだいふ)という者、道にて行きあい横取りして、二人の子をもうけたなり。今も後家分を得て、ともしからであなるぞ。それを尋ねて行き給え」とて、文を書いて参らせらる。

すなわち奥へ通り給うて、御文をつけ給えば、夜に入りて対面申し、「尼は佐藤三郎次信、佐藤四郎忠信とて二人の子を持て侍る。次信は御用には立ちまいらすべき者なれ共、上戸(じょうご)にて、酒に酔いぬれば少し口荒(くちあら)なる者なり。忠信は下戸(げこ)にて、天性極信の者なり」とて奉りけり。多賀の国府に越えて、吉次に尋ね合い、「秀衡がもとへ具してゆけ」との給えば、平泉に越えて、女房に付いて申したりければ、すなわち入れ奉りて、「もしなしかしづき奉らば、平家に聞こえて責めあるべし。出し奉らば、弓矢のながき疵(きず)なるべし。惜しみまいらせば、天下の乱れなるべし。両国の間には、国司、目代(もくだい)の外(ほか)、みな秀衡が進退なり。しばらくしのびておわしませ。眉目(みめ)よき冠者殿(かんじゃどの)なれば、姫持たらん者は婿にも取り奉り、子なからん人は、子にもしまいらすべし」と申せば、「義経もこうこそ存じ候え。但し金商人(かねあきんど)をすかして、めし具して下り侍り。何にてもたびたく候」との給いければ、金三十両取り出して、商人にこそとらせりけれ。

その時、上野国松井田という所に一宿せられたりけるに、家主の男を見給うに、大剛(だいごう)の者と覚えければ、平家を攻めに上られける時、かたらい具し給えり。伊勢国の目代につれて、上野へ下りけるが、女に付いてとどまれる者なれば、伊勢三郎とめされ、「我が烏帽子子(えぼしご)の始めなれば、義の字をさかり(盛)にせん」とて、義盛とは付け給えり。堀彌太郎と申すは、金商人なり。
 
 
 

頼朝義兵を挙げらるゝ事並びに平家退治の事
 

兵衛佐殿は、配所にて廿一年の春秋を送られけるが、文覚上人の勧によて、後白河法皇の院宣をたまはり、治承四年八月十七日に、和泉判官兼高を夜うちにしてより後、石橋山、小坪、絹笠、所々の合戦に身を全して、安房、上総の勢をもて、下総國をうちなびけ、武蔵國へ出給ひぬれば、八ヶ國になびかぬ草木もなかりけり。

醍醐の悪禅師全済、八條卿公円済も、此よしききて、関かためぬ前にと、いそぎはせ下られければ、平家やがて土佐へながしし希義うてと、当國の住人、蓮池次郎権守家光に仰付られしかば、家光参て、「兵衛佐殿、坂東にて謀反おこさせ給ふとて、君を打まいらせよと、飛脚下着候」と申せば、「いしう告げたり。我毎日父のために法華経を読誦す、今日いまだよみをはらず、しばらく相まて」とて、持仏堂に入、御経二巻よみ終て、腹かき切てうせ給ふ。

九郎御曹司は、秀衡がもとおはしけるが、佐殿すでに義兵をあげ給ふときこえしかば、打立給ふに、秀衡、紺地の錦の直垂に、紅下濃の鎧、金作の太刀をそへて奉る。「馬は御用にしたがてめさるべし」とぞ申ける。やがて信夫に越給へば、佐藤三郎は、「公私取したためてまいらん」とてとどまり、弟の四郎は即御供す。はや白川の関かためてければ、那須の湯詣の料とてとほり給ひ、兵衛佐殿は大庭野に十萬騎にて陣取ておはしける所へ、究竟の兵百騎ばかりにて参り給ふ。佐殿「何者ぞ」と問給へば、「源九郎義経」と名乗ましませば、「むかし八幡殿後三年の合戦のとき、弟の義光、刑部丞にておはしけるが、弦袋を陣の座にとどめて、金澤の城へはせ下り給ひけるをこそ、『故入道殿のふたたびいきかへり給ひたるやうにおぼゆる』とて、鎧の袖をぬらされけるとこそ承れ」と、しきりに喜給ひけり。

甲斐源氏、武田、一條、小笠原、逸見、板垣、賀々美次郎、秋山、浅利、伊澤等、駿河目代廣政を討てければ、平家の大将小松権亮少将維盛、其勢五萬余騎にて、富士川のはたに陣をとる。頼朝は足柄、箱根をうちこえて、黄瀬河につき給ふ。其勢廿萬騎也。平家の兵の中に、齋藤別当実盛「源氏夜討にやし候はんずらん」と申ける夜、富士川の沼におりいける水鳥ども、軍勢におそれて飛立ける羽音におどろきて、矢の一も射ずして、都へにげて上りけり。

養和元年三月に、平家又墨俣にてささへたり。卿公円済、義円と改名したりけるが、深入してうたれてけり。醍醐悪禅師は、後に有職に任て駿河阿闍梨といひしが、僧綱に転じて阿野法橋とぞ呼ばれける。

寿永二年七月廿五日、北陸道をせめのぼりける木曾義仲、まづ都へ入と聞えしかば、平家は西海におもむき給ふ。されども池殿のきんだちは、みな都にとどまり給ふ。其ゆえは、兵衛佐鎌倉より、「故尼御前を見奉ると存じ候べし」と、度々申されければ、落とどまり給ひけり。本領すこしも相違なく安堵せられければ、むかしの芳志を報じ給ふとぞおぼえし。

さるほどに、長田の四郎忠致は、平家の侍どもにもにくまれしかば、西國へもまいらず。かくてはやがて國人どもにうたれんとや思ひけん、父子十騎ばかり、羽をたれて鎌倉殿へぞまいりける。「いしう参じたり」とて、土肥次郎にあづけられけるが、範頼、義経の二人の舎弟を指のぼせられけるとき、長田父子をも相そへ給ふとて、「身を全して合戦の忠節をいたせ。毒薬変じて甘露となる、といふ事あれば、勲功あらば大なる恩賞を行ふべし」とぞ約束し給ける。しかれば木曾を対治し、平家の城、摂州一の谷をせめぎおとす、注進の度ごとに、「忠致、景致は軍するか」と問給ふに又なき剛の者にて候。向敵をうち、あたる所を破らずといふ事なし」と申せば、八島城落たりと聞えしとき、「今はしやつ親子に軍なせさせえそ。うたせんとて」との給ひけるが、軍果てて、土肥に具してかへりまいりければ、「今度の振舞神妙也ときく。約束の勤賞とらするぞ。あひかまへて頭殿の御孝養よくよく申せ。成綱に仰ふくめたるぞ」とありしかば、悦でまかり出たるを、彌三小次郎おしよせて、長田父子をからめとり、八付にこそせられけれ。八付にもただにはあらず、頭殿の御墓の前に、左右の手足をもて、竿をひろがせ、土に板をしきて、土八付といふ物にして、なぶりごろしにぞせられける。「平家の方へも落ゆかず、さらば城にも引こもり、矢の一をも射ずして、身命をすてて軍して、ほしからぬ恩賞かな。是も只不義のいたす所、業報の果すゆえ也」とぞ人々申ける。又何者かしたりけん。

きらへども命の程は壹岐のかみ美濃尾張をば今ぞ給はる

かりとりし鎌田が首のむくいにやかかるうきめを今は見るらん

とよみて、作者に鎌田政家と書たる高札をこそ立たりけれ。是をみる者ごとに、哀とはいはずして、唇を返してにくまぬ者ぞなかりける。されば武の道に、血気の勇者、仁義の勇者と云事あり、いかにも仁義の勇者を本とす。忠致、景致も随分血気の勇者にて、抜群の者なりしかど共、仁義なきがゆえに、譜代の主君を討奉て、つひにわが身をほろぼしけり。

ここに池殿の侍、丹波藤三國弘と名乗て鎌倉へまいりたりしかば、「我も尋たく思つれども、公私の■(そう:公+心)劇に思ひわすれ今に無沙汰なり」とて、則対面し、「只今納殿にあらん物、みな取出よ」と下知し給ひければ、金銀絹布、色々の物どもを、山のごとくに積みあげたり。「是は先時にとての引出物。訴訟はなきか」と問たまへば、丹波國細野と申所は、相伝の私領にて侍るよし申せば、やがて御下文給てけり。「財宝を宿次におくれ」とて、都までぞ持おくりける。其時、かかる運をひらくべき人とは思はざりしかども、あまりにいたはしくて、情ありて奉公しけるゆえ也。兵衛佐のたまひけるは、「首は故池殿につがれ奉る。某報謝には、大納言殿を世にあらせ申侍り。本どりは纐纈源五につがれたり。但盛安は双六の上手にて、院中の御局の双六につねにめされ、院も御覧ぜらるるなれば、君の召つかはせ給はん者をば、いかでか呼下すべきと思て、斟酌する也」と語り給へば、此由源五につげたりしか共、天性双六にすきたるうへ、院中の参入を思出とや存じけん、つひに鎌倉へは下らざりけり。

九郎判官は、梶原平三が讒言によて、都の住居難儀なりしかば、又奥州に下り、秀衡をたのみてすごされけるが、秀衡一期の後、鎌倉殿より泰衡をすかして、判官をうたせ、後に泰衡をもほろぼされけるこそおそろしけれ。かくて日本國のこる所なく打したがへ給うて、建久元年十一月七日、始て京のぼりせられけるに、近江國千の松原といふ所につかせ給、浅井の北郡の老翁を尋らるるに、二人の老者を率てまいる。土瓶二を持参せり。「あれはいかに」と問給へば、「君のむかし、きこしめされし濁酒なり」と申せば、「まことにさる事あり」とて、三度かたぶけて、「汝、子はなきか」と仰ければ、「候」とて奉る。則めし具せられけるが、足立が子になされて、足立新三郎清恒とて、近習の者にてありけるなり。「さて此翁に引出物せよ」と仰ありしかば、白鞍おきたる馬二疋、色々の重宝入たる長持二合ぞたうだりける。又むかしの鵜飼をめし出して、小平をやがて給てけり。

入洛ありしかば、則院参し給たるに、法皇も往事おぼしめし出て、ことにあはれげにこそ見えさせおはしましけれ。髭切といふ太刀、清盛がもとにありしを、御まもりのためとて院にめしおかれたりしを、今度頼朝にたまはりけり。青地の綿の袋にいれられたり。三度拝して給はりけるとなん。

此太刀に付てあまたの説あり。頼朝の卿関が原にてとらはれ給ひし時、随身せられたりしかば、清盛の手にわたて、院へまいりけりと云々。又或説には、今のはまことの髭切にはあらず。まことの太刀は、已前より青墓の大炊がもとよりまいらせける也。其ゆえは、兵衛佐、大炊にあづけられけるを、頼朝囚人と成給ひし時、此太刀を尋られけるに、今はかくしても何かせんとや思はれけん、ありのままに申されけり。則大炊がもとへ尋られけるに、源氏の重代を、平家の方へ渡さんずる事こそ悲しけれ。兵衛佐こそきられ給ふとも、義朝の君だちおほければ、よも跡はたえ給はじ。まづかくして見んと思ひければ、泉水とて、同程なる太刀ありけるを、抜かへてまいらする。髭切は柄、鞘円作り也。定て佐殿にみせまいらせらるべし。佐殿、妾とひとつ心になりて、子細なしとの給はば、もとよりの事なり。もしこれにはあらずと申されば、女の事にてさぶらへば、取ちがへ候けりと申さんに、くるしからじと思案して、泉水をのぼせける也。難波六郎経家うけ取てのぼりけるを、やがて頼朝にみせ奉りて、これかと問はれけるに、あらぬ太刀とは思はれけれども、長者が心を推量して、そなるよしをぞ申されける。清盛大きに喜で秘蔵せられけるを、院へめされけるなり。まことの髭切は、先年大炊が方よりまいらせけると云々。

其京のぼりの度、盛安をめして、様々の重宝を給はり、「いかに今まで下らざりけるぞ。大庄をもたびたけれ共、折ふし闕所なし。然るべき所あらば給べし」とぞの給ける。「誠に今まで参ぜざる條、私ならぬ儀とは申ながら、不義のいたり、併微運の至極なり」とぞ、盛安も申ける。

建久三年三月十三日、後白河院崩御なりしかば、やがて盛安鎌倉へぞまいりける。頼朝対面し給て「最前も下向したりせば、然るべき所をもたばんずるに、今までの遅参こそ力なき次第なれ。小所なれ共先馬飼へ」とて、多記の庄半分をぞ給ける。由緒のよし申けるにや、美濃國上の中村といふ所をも、同じく給てけり。

建久九年十二月に、貢馬の次に、「明年正月十五日すぎば、いそぎくだるべし。多記の庄をば一円に給はるべし」と仰つかはされけるに、明る正治元年正月十三日、鎌倉殿御とし五十三にてうせ給ひけり。源五これをもしらず、十六日に京を立てはせ下るほどに、三河國にて、はや此事をききしかども、わざとも下るべき身なれば、鎌倉に下着して、身の不運なるよし語けるほどに、昔の夢想の不思議など申ければ、齋院次官親能「其鮑の尾を、則くふとだにみたらば、猶めでたからまし。給て懐中せしばかりなればにや、残る所ある」とぞ申されける。

さても清盛公、兵衛佐を助けおかれし時、よも只今当家をくつがへさん人とは思ひ給はじ。同じく九郎判官の二歳にて母のふところにいだかれけるを、わが子孫をほろぼすべきあだと思ひなば、いかでかなだめ給ふべき。是しかしながら、八幡大菩薩、伊勢大神宮の御はからひとぞおぼゆる。趙の孤児は、袴の中にかくれてなかず、秦の遺孫は、壷の内にやしなはれて人と成と申せば、人の子孫の絶まじきには、かかる不思議もありける也。

義朝は鳥羽院の御宇、保安四年癸卯のとし生れ、卅四歳にして、保元元年に忠節をいたし、勲功をかうぶり、朝恩に浴しける、今度の謀反に与して身をほろぼしき。然ども又、頼朝、義経二人の子あて、兵衛佐卅四、判官廿二歳にして、治承四年に義兵をあげ、会稽の恥をきよめ、ふたたび家をさかやかし給へり。

頼朝は近衛院久安三年丁卯のとし誕生す、義経は二條院平治元年己卯のとしむまれたれば、三人ともに単閼のとしの人なり。中にも頼朝、平家をほろぼし、天下を治めて、文治の始、諸國に守護をすえ、あらゆる所の庄園、郷保に地頭を補して、武士の輩をいさめ、すたれたる家をおこし、絶たる跡をつぎて、武家の棟梁となり、征夷将軍の院宣をかうぶれり。卯は是東方三支の中の正方として、仲春をつかさどる。柳は卯の木也。三春の陽気を得て、天道めぐみの眉をひらき、営しげくさかゆれば、柳営の職には、卯の歳の人は、げに便ありけるものかな。
 
 


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2001.9.6
2003.4.10Hsato