流行り言葉で 読む日本の世相(6)

「ミス・ユニバース」って何?!

アメリカ流美人コンテストはアンシャンレジューム(旧制度)!!



今年(07年)のミス・ユニバースで世界一の美女(?)に選ばれたという日本女性「MR(20)」さんを見て、「この人が世界一の美女なの?!」と思っ た。日本の若い女性が、アメリカ社会にとけ込んで堂々と張り合っているのは素晴らしいとは思うのだが、この人が「世界一の美女」と言われると、どうしても 首を傾げてしまう。同じことはきっと、現地でテレビを観ていたアメリカ人も思ったのではあるまいか。

昨年の大会で準ミスになったTKさんを見た時も、私は同様のことを思った。何も彼女たちが不美人というつもりはない。言いたいのは、彼女たちの醸し出す雰 囲気というものが、日常、私たちが”感じている日本人的美人”という概念から外れているような気がする。

そんなことを考えると、いったい「ミス・ユニバース」とは何か。何のために創設された美人コンテストなのか。これが美人の「世界標準」として、認めていい のか、アメリカにおいても美の基準は、揺れているのはではないか、ということを、感じたのである。

 1 「ミス・ユニバース」の歴史とアメリカ人気質

「ミス・ユニバース」は、イギリスで1951年開催されるようになった、「ミス・ワールド」に対抗する形で、翌年の1951年、アメリカのアパレルメー カーによって、カリフォルニア州ロングビーチで開催されるようになった美人コンテストである。1996年からは、不動産王のドナルド・トランプのトランプ 財団によって引き継がれている。

とかく、アメリカ人には、”世界一”というのが大好きな国民性がある。確か、イギリスから伝説的ロックバンド、「ビートルズ」(1962年デビュー)が登 場した時も、これに対抗するために、「モンキーズ」(1966デビュー)というロックバンドを作って、ソングライターも「キャロル・キング」や「ボイス& ハート」、「ニール・ダイヤモンド」などの超一流の連中を使い、現在のビデオクリップのはしりとも言えるような連続テレビドラマまで作って、これを世界的 なバンドに仕立て上げたことがあった。

もちろん、生まれ付いての天才であるジョンやポールの才能に対抗出来るはずもなく、作為的に作られたアメリカ産ビートルズとも言うべき「モンキーズ」は、 いつの間にか、忘れ去られることになった。

美人コンテストでも音楽の世界でも、第一次大戦、第二次大戦を経て、世界に冠たる大国となったアメリカ人は、とにかく、世界一の称号が大好きなのである。

ちなみにこれまでの「ミス・ユニバース」55年の歴史の中で、アメリカ人の優勝者が7名で一番多い。続いて、プエルトルコ(5名)、ベネズエラ(4名)、 スウェーデン(3名)となる。日本人は今回で2人目となり、アジアではインド、フィリピン、タイと受賞者2人で並んでいる。


 2 「ミス・ユニバース」は文化としてのグローバル主義?!

そもそも美人というものには、世界各国でそれぞれ違いがあって当然である。楚々として慎ましい女性を美しいと思う日本のような見方があっていいし、アメリ カ流で、自分の主張をどこまでもストレートに通して、「はじめから日本代表として優勝するつもりだった」という今回の優勝者Mさんのような思考もあってよ い。

今回の日本人Mさんの栄冠は、アメリカ的美意識に、自分をマッチアップした努力の成果ということになる。

今回の栄冠の影では、フランス人の女性エージェントが活躍したようだ。つまり「ミス・ユニバース」には、傾向(トレンド)というものがあり、選ばれるため には、傾向に則した訓練を受ける必要があるということになる。

聞くところによれば、Mさんが、このミスコンテストの最高峰(?)とも言うべき「ミス・ユニバース」に出場したきっかけは、昨年のTさんの準優勝に触発さ れて、私も受けて見たいと、応募をして、先のフランス人エージェントの目に留まったようだ。

エージェントの目から見れば、彼女には、好成績を残す資質があったことになる。確かに174cmの身長と、モダンバレーで鍛え上げた健康的で伸びやかな身 体。高校時代からカナダに留学し、英語力を身につけていること。アメリカ流の自己主張能力があることなど。つまり、彼女には、「ミス・ユニバース」を栄冠 を貰える可能性があったのだろう。

今後一年間、受賞者たちは、世界中を回って、世界平和やエ イズ撲滅キャンペーンなどを展開するのだそうだ。ミスたちの社会貢献である。でも、このコンテス ト自身が、女性に対して、過度なほど、セクシーさを要求している反面で、「エイズ撲滅キャンペーン」というのは、少し首を捻ってしまう。

数年前だったか、偶然東京のどこかのホテルで、授賞のたすき掛けをしたミス・ユニバースの連中に出くわしたことがある。「社会貢献」のキャンペーン中だっ たのだろう。背の高い女性がハイヒールを履いて、濃い化粧に、派手なドレスを着ている光景は、実に悪趣味で、異様な光景にしか見えなかった。

現在ヨーロッパでは、グローバル化への懸念が市民の間で高まってきて、「反グローバル派」ともいうような社会層がアメリカ流のグローバル主義に反対する活 動をするようになった。

考えてみれば、コンテストとしての「ミス・ユニバース」も、ひとつのアメリカ流の美の基準の押しつけであり、その意味では「美人の概念」の標準化(グロー バル化)の流れと言えないこともない。ハリウッド映画に登場するヒロインが、美人の世界標準でないように、「ミス・ユニバース」の受賞者もまたアメリカの 美人の価値基準でしかないのである。


 3 「ミス・ユニバース」は時代錯誤のアメリカ文化

さて最後に、「美人」あるいは「美」というものを、本質的に考えてみる・・・。考えれば考えるほど、とてもひとつの見方や価値観で、美の基準というもの は、簡単に決めれるものでもないし、そんな基準をあげつらうこと自体、大いにためらわれる。

この世には、ユネスコ世界遺産のように、「価値観の違い」を乗り越えても分かる人類普遍の「女性の美しさ」というものはあるのだろうか。また、そんな絶対 的な価 値基準を、若い女性に当てはめ、世界中のさまざまな「民族」と「民俗」の差異と「人種」や「宗教」の壁を乗り越えて、決めるべきだろうか。

今回、最初にこのニュースに移された彼女を見た時の私個人の感想は、大変失礼なのだが、正直に言えば”化粧の濃すぎる若い背伸びをした「オネエチャン」” 以上の感想がどうしても出て来なかった。

「ミス・ユニバース」という美人コンテスト自体、アメリカ流の美人コンテストであって、日本的価値観とは、はっきり言ってまったく接点のない代物でしかな い。またフェミニズム文化の浸透の流れの中にあって、時代の要請にも合致しているとも、到底思えない。

要はこのコンテストは、世界の多様な美の基準とも、ジェンダーの思想深化からも遠く外れた、時代錯誤のコンテストでしかない。もっと言えば
美人に世界標準などない。さまざまな価値観に基づく美の基準が元々存在しているのである。

文化の多様性が重要になりつつある21世紀の世界にあって、「ミス・ユニバース」のようなセクシャルなアメリカンヒロインを選ぶ美人コンテストは、新世界 であるはずのアメリカ文化の中に取り残された時代錯誤の「アンシャン・レジューム」(旧制度)であって、その存続も含めて再考されるべき時期が来ていると 思うのである。



2007.6.12 佐藤弘弥


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