改稿 速日神社の話

速日神社と桑畑種まき桜

桑畑種まき桜
(1998.4.28) 

かつて沼倉桑畑の地に速日神社という小社があった。明治政府の一村一社の政策により、大正元年十二月四日(1912年)に沼倉一ノ宮の駒形根神社と合祀され、「招魂社」称されるようになった。

封内風土記1772年/注1)は、速日神社について次のように記している。

林大明神。不詳何時勧請。傳云所祭速日大明神。
 本邑及近邑之産生(ママ土:ウブスナ)神(注2)

(訳:林大明神。何れの時の勧請かは不詳。伝わる所によれば速日大明神を祭る。本村及び近隣の村の産生神である。)

林は地名で沼倉の日照田と桑畑の中間地である。昔そこに速日神社の宮地があった。そのため、今でもそのある一角は、宮地という地名地番で呼ばれている。

又、幕府の命により、地元の肝入たちが書き上げた仙台藩の国勢調査とも言える安永風土記(1777年頃/注3)では次のように記載されている。

風土記御用書出(安永風土記)

 村鎮守

速日明神社

但千年御改之節近村産神ニ御座候由
御書上仕候段被仰渡候間此度吟味仕候所
其節行違茂御座候や何茂相心得不申候事

(訳:但し先年(千年は先年の誤り?)の調査の折りの「近村の産神社でございます」ということを書きましたが、この度、再考致しました所、行き違いもあったようです。何も知らずに申し上げてしまいました。)

一 小名 桑畑
一 勧請 誰勧請ト申儀並年付共ニ相知不申候事。
一 社地 南北拾七間 東西拾六間 一社 南向弐間作
一 鳥居 南向 △長床 △一額
一 地主 桑畑屋敷 彌右衛門(ヤエモン)
一 別当 峯雲院
一 祭日 九月九日

右拾ケ條之打ち印仕候分無御座候事 

先年の調査とは、もちろんこれより五年前に提出された「封内風土記」のことを指すと思われる。行き違いの内容については「本邑及近邑之産生(ママ土:ウブスナ)神(注2)。」のことであろうか。速日神の、桑畑周辺への勧請の時期が佐藤家系図の通り、天正年間(1573-1592)であったかどうかは容易に即断すべきではないが、江戸期に入り、平和な時代になるにつれて、この周辺にあった産土社といつの間にか合祀されたか、あるいは時代の変遷と共に戦勝祈願の「戦神」(いくさのかみ)の性格から「産土神」(うぶすなのかみ)的な性格を強めていったことが想定しうる。その辺りの時代考証を曖昧にしたまま、「産土神」と書いたことで、歴史に一家言を持っている人物が「単なる産土社ではないよ」と苦言を呈したので、このような「行き違い」という文章を添えた可能性がある。。

ともかく、角川の日本地名大辞典宮城県版にも、『「元禄郷帳(注4)神社は駒形根神社のほか村鎮守で産土神の速日明神社があり』と記されている。
 

1939年の「栗駒村誌」(注5)では、次のように記されている。

招魂社

大正十三年速日神社本殿を郷社境内に移築し創めて建立したり。狛犬も同社より移したり。
 

1962年の「栗駒町誌」では、次のように記されている。

無挌社 速日神社

栗原郡(栗駒大字)沼倉字下桑畑

1,祭神 正哉吾勝々速日尊

1,由緒 不詳一ニ林宮トモ云フ

1,社殿 前巾五尺奥行四尺

1,拝殿 間口三間奥行二間

1,境内 三百七十四坪民有地第一種佐藤弥八所有地

1,信徒 百四十二人

1,大正元年十二月四日指令第六百十七号ヲ以テ

  同村郷社駒形根神社に合祀許可同月十日合祀実行

今でも、大きな二基の石碑が桑畑のバス停留所のそばにあるが、それは土地改良によって、田んぼが整地されるまでは、そこから八十mほど離れた地点の中にあったものである。かつて桑畑の佐藤家では、その地点を「小鋭明神様(オドミョウジンサマ)」と呼んでいた。ただ実際の発音は「オドミョーンツアマ」であった。栗原郡誌の中の速日神社は、その地点のことを指していると思われる。

するとそこから宮地までの距離は、凡そ100m近くの距離があるが、宮地からその地点まで転地したことになる。

その辺りの事情について、沼倉桑畑の旧家佐藤家の家系図の解読から明らかにしていこう。(尚、佐藤家には現在も速日明神の御本尊が木箱に納められて保存されている。木箱には正一位速日大明神と書かれており、この正一位が、どうして正一位なのかは謎である。このことについては、別の紙面で言及する予定である。)
 

佐藤 弥四郎  

葛西壱岐守、平晴信公に使える武将として、桃生郡中野城で主人の元に暮らした。天正年間において、晴信公が大崎義隆と三迫において、戦をした時、私(信広)は、戦に出る前に速日の神に勝利を祈願し出陣した。その戦に見事勝利を納め、褒美として、田を三町ばかり又三迫内の沼倉村に住まいとして三十余町の加増を賜ったのであった。そこで宮地の場所に転居して、邸内に林の宮を建てて、速日大明神を、益々信仰した次第であった。その後、水利が不便だったので、桑畑の地に住まいを移した。

慶長13年(1608年)5月6日没。享年78歳。

戒名は、大切院殿戦勝如嶽大居士。(佐藤訳)
 

以上のことから、弥四郎は、桃生郡の中野城に葛西晴信の家臣として中野城にいたことは明らかであり。この城のそばには、川を挟んで、(賀茂)小鋭神社(おどのあるいはことの)という社がある。この社の所在地は、桃生郡河北町福地字加茂崎。延喜式桃生郡六座のひとつに数えられる古社である。賀茂(加茂、鴨)系の旧郷社で、祭神は賀茂建角見命(かもたけつぬのみこと)玉依姫命(たまよりひこのみこと)、賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)、小田神等である。

尚、祭神の賀茂建角見命と玉依姫命は京都の下鴨神社の祭神で親子にあたり、賀茂別雷神は、玉依姫命と大山咋神(おおやまくいのかみ)の子息で上賀茂神社に奉られている。賀茂建角見命は、神武天皇東征の折、八咫烏(やたがらす)となって日向に舞い降り、大和まで導き賀茂県主(かものあがたぬし)の祖となった神である。この賀茂一族は、渡来系の一族で、有名な秦一族であり、もしかすると桑畑という地名も、この秦からの転化とも考えられる。

弥四郎は、戦勝の褒美として、栗駒沼倉の地を賜り、その子孫たちは縁あって沼倉の里に定住することとなった。そしておそらくは桃生郡小鋭神社(おどの)を林(地名)の邸内に勧請し、宮社(みやしろ)を建てたのであろう。速日神社という名称については、林の地名と速日の神をかけたものとも考えられる。

「速日」という言葉について、栗原郡誌は、速日神社の祭神を、正哉吾勝々速日忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)としている。この神様は通称天忍穂耳尊(あめのほしほみみのみこと)で大日霊女尊(天照大神)が素戔嗚尊との子生みの争いの時に、5人を生んだ天照大神が、「吾は勝った」と嬉しくて叫んだ所から付けられた名である。この神が設けた子が天日明命(あめのほあかりのみこと)通称、饒速日尊(にぎはやひのみこと)とされる。

記紀によれば、この饒速日の尊は、神武天皇が東征する以前に大和に君臨していた王とされ、この臣下として長髄彦(ながすねひこ)がいる。神武天皇が東征したおり、長髄彦は、饒速日をたてて「天子が二人あってはならない」と最後まで抵抗し、滅ぼされる。饒速日は恭順を示したので、神武の臣下となって、国の発展に尽くし、その子、宇麻志麻治命(うましまじのみこと)は物部氏の祖となったのである。

佐藤家の祖先達がこの正哉吾勝々速日忍穂耳尊ないし饒速日命を祭った理由ははっきりとは分からない。桃生郡で御利益のあった小鋭神社を、深く信仰するようになったことも考えられるし、単純に縁起のよい名の響き(「正哉吾勝勝(あかつわれかつかつ」)ということにあったかもしれない。

さて賀茂の神様と速日の神様の関係について当然言及しなければならないが、そのことについては、正一位の御神体の解明の時に機会を譲ることとする。ともかくこのようにして速日大明神は、地元にも深く根ざして、地元の村落の産土神(うぶすなしん)として祭られるようになったのである。

ところで沼倉桑畑にある佐藤家の門口には一本の桜の老木が聳えている。佐藤家では代々速日明神の化身と言い伝えられてきた。根本の周囲は5mをゆうに越え、樹木の高さは9mほど。地元の人々からは、「種まき桜」として、親しまれ、稲の種籾を蒔く自然暦の役割を果たしてきたようである。

樹齢は凡そ三百五十年から四百年と見られ、エドヒガン桜の古木である。またこの桜は佐藤家が宮地の地より、三迫川の度々氾濫する関係で、桑畑の地に移ったことを記念して弥四郎が植えたものと伝えられている。佐藤家累代の象徴として、大切にしていくことを、当主になる者は、家督相続の折、言い含められる決まりとなっている。
 
 

最後に、参考として、1999年、4月に建てた、この桜の縁起書きをここに掲載する。佐藤



桑畑種まき桜縁起書

この桜は、樹齢推定四百年に及ぶ吉野桜の老木である。

古来より、地元の人々には「種まき桜」として親しまれてきた。

家伝によれば、この桜を植樹した人物は、当家の先祖佐藤弥四郎信広(一五三一〜一六〇八年)と云われている。当時、弥四郎は、桃生郡中野城主、葛西晴信公に仕える者であった。

時に元亀二年(一五七一年)、主君晴信公が、宿敵大崎義隆公と三迫において、幾たびか戦にまみえし折、弥四郎は、出陣の度ごとに、速日大明神さまに戦勝を祈願し、抜群の戦功を納めることができた。その褒美として、主君晴信公は、弥四郎に沼倉の地をくださったのであった。それ以来、この地は、佐藤家安住の地となり、弥四郎は家屋の一角に、社(速日宮)を建てて、益々、大明神さまを、厚くお祀りするようになった。

 するとある夜、大明神さまが、夢枕に立って言われた。

「われを信じる者 さくらを 植えよ」

 弥四郎は、早速吉野桜の一枝を、桑畑の門口に植えた。すると桜は見る間に成長し、晴信公が、太閤秀吉により、小田原城攻め(一五九〇年)の不参陣を問われ、城を追われた折りにも、大明神さまの神意により難を逃れることができたのであった。以来当家では、この桜を大明神さまの化身として、大切にお守りしてきたのである。

願わくば、この桜が、この地に永遠にあれ。

その思いを歌に託して、この縁起書を建立する次第である。

陸奥の 栗駒山に春告げて 種まき桜 今日ぞ咲くらむ
平成十一年四月吉日(一九九九.四.)

願主 当主 佐藤晃弥


以上 佐藤
注1:「封内風土記
(仙台叢書別冊全三冊として収録)は、仙台藩の儒家、田辺希文が1772年に藩主伊達吉村の名により編纂した藩内の精緻な地誌である。宮城の地誌としてはもっとも信頼にたる著作である。全22巻。

注2:「産生(ウブスナ)神」産土とも表記。
産まれた土地の神のことを意味し、オボスナ、オボツナとも云う。氏神や鎮守とは概念を異にするが、それらとの混同もみられ、出産の守り神である産神(うぶがみ)とも関係があるらしい。参考柳田国男「氏神と氏子」(定本11巻)

注3:風土記御用書上(1777年頃俗に安永風土記と呼ばれる。安永年間(1772〜1782年)幕府の命により、仙台藩が調べ上げた一種の国勢調査。その正確性は、地元の肝入りが責任を持って書き上げているため群を抜いている。宮城縣史23〜28に所収。

注4:元禄郷帳。元禄14年(1701)に江戸幕府が、編纂した地誌。

注5:栗駒村誌。元栗駒村村長の菅原巳之吉(1867−1957)が1939年(昭和14年)に著した栗駒村の地誌。厳密な歴史観を持って書かれていて内容の信憑性が高い。


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