判官贔屓における民衆心理


義経贔屓の芭蕉vs頼朝贔屓の家康の構図

義経と頼朝という兄弟をみる時、民衆に愛される義経に対して権力者に愛される頼朝という図式がある。例えば、江戸時代で云えば、義経を愛した人間の代表格として松尾芭蕉を、頼朝の方は徳川家康を上げて見たい。芭蕉の奥の細道の旅を私は、義経への鎮魂の旅と考えているが、6年前菅原次男氏が、神奈川の藤沢白旗神社から宮城の栗駒判官森までを歩き通した旅に同行し、余りにも義経が歩いた事蹟と一致するのでびっくりしたことがある。平泉は義経の第二の故郷と言われるが、そこで芭蕉が最初に訪れた場所は、義経終焉の地とされる平泉の高館であった。そこから芭蕉は、踵(きびす)を返し、山形の最上川を下り、出羽三山を抜け、やがて北国街道に至る。この道筋は、頼朝に追われた義経主従が、奥州に向かった道と符合する。芭蕉は、義経のことをあれこれと思いながら、街道を往復し、これを「奥の細道への旅」としたのである。

一方、徳川家康は、日頃から、吾妻鏡を愛読し、頼朝がどのような局面で、どんな行動を取ったのかを研究したと云われる。性格的にも、家康は頼朝の冷静沈着さに惹かれていたと思われる。頼朝の失敗は、義経のような有力な一族を皆葬りさってしまったことである。その頼朝の行動を反面教師として、家康は御三家や新三家と云われるような同族支配体制を確立し、自らを武門の棟梁(征夷大将軍)とし位置づけた。

家康が敷いたこの徳川260年の封建体制は、「平和の徳川」と言えば聞こえは良いが、日本人のアイデンティティの確立という見地から云えば、「停滞」の時期であり、日本人が世界史から大きく遅れを取る精神の暗黒時代であった。下克上の戦国時代、誰もが、槍を持ち、刀を持って立ち上がれば、天下を目指すことができた。徳川時代のイデオロギーは、「ミザル・イワザル。キカザル」の風潮を民衆に強いる民衆愚民化政策が根底にあった。戦国時代の武家的気風を奪われた民衆は、士農工商という封建的身分制度に甘んじてはいたものの、その時代への郷愁が、義経への思慕となって、判官贔屓が出来上がって行ったものと推測される。

頼朝を嫌いだというのは、ある種の反権力的な志向であり、義経を好きだという思想の背景には、軍事的天才という異常なほどの能力を発揮して時代の寵児となった義経に、動かぬ時代への抵抗感が透けて見える。それは現代でも同じかも知れない。一方で頼朝贔屓の人間はどうか。おそらくは、その人達も頼朝が好きだというよりは、頼朝の方が、現実に対する対応力があるということで、彼の冷徹な現実主義的感覚を消極的に受け入れているのであろう。

義経の天才性こそが、現代の日本がもっとも必要とする資質だ。徳川家康の敷いた封建的イデオロギーは、出る杭は打つ式のやり方で異能な人物を受けつけなかった。その結果、ロボットの如き平準化された人間が大量生産されてきた。その典型が日本の官僚制度なのかもしれない。大学時代あれほど有能だったものが、省庁に入った途端に口を貝のように閉じて無能になる。いや無能のフリを装っているのか。今でも、何も言わないことが美徳だという誤った風潮が、日本中にある。もう民衆の愚民化時代は去ったのである。だから私は、「今こそ現れ出でよ。21世紀の義経さん!!」と言いたいのである。


2005.6.30 Hsato

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