「白馬に乗った王子」のイメージと老い

−知恵の象徴としての白馬−


 
「白馬に乗った王子様」という言葉がある。若い女性は、いつか自分のことを迎えにこんな素敵な男の子が現れると信じて、いつもたいていの場合は夢に終わるものだ。

それはそうと、何故王子は、白馬なのか、栗毛や黒毛ではいけないのか?イメージの問題もあるだろうが、やはり女性は白馬がいいらしい。でもちょっとでも馬についてかじっている人ならば、白馬は老馬のことだと知っている。白馬の白い毛は、人間で言えば白髪にあたるのである。よく草原で白馬を先頭にして野生の馬が群れなしているような清々しい画を見かけるが、おそらくあれは長老にあたる白馬がリーダーとなって、若い馬たちを引率している姿なのであろう。

では我々がイメージする「白馬に乗った王子」というイメージについて少し考えてみよう。元々白という色は神聖なる存在を意味し、純白はけがれのないものの象徴と考えることが出来る。日本でも花嫁は白無垢を着ることに決まっているし、西洋においてもウエディングドレスにベールは純白が基本である。また日本においては、死装束という考え方があり、それは決まって白である。こんな具合に白には、生と死を越えたある種の神聖さのようなイメージが常に付きまとう。

万葉集の中に、このような恋の歌がある。

妹がため吾が玉求む沖辺なる白玉寄せ来沖つ白波(一六六七)
(訳:妻の為に私は玉を土産を探している。どうか寄せ来る白波よ、沖から真白い白玉(真珠)を運んで来てはくれないか)

紀伊国(和歌山)で天皇が詠んだ歌ということだが、日本人の白に対するイメージがよく出ている歌である。

また、坂上郎女(さかのうえのいらつめ)にこんな白髪の歌もある。

黒髪に白髪交り老ゆるまでかかる恋にはいまだ逢はなくに (五六三)
(訳:黒髪に白髪が交じるように老いてしまいましたが、こんなに切ない恋にいまだ出会ったことはありませんでしたのに)

同様に大伴旅人の歌。

ぬばたまの黒髪変り白けても痛き恋には逢ふ時ありけり(五七三)
(訳:すっかり黒髪が白くなっても心がきゅんと痛くなるような恋に逢うこともあるものだなあ)

時代はいっきに下って、江戸に入り芭蕉の俳句になると。

白炭やかの浦島が老の箱
(白い炭とは、まさか浦島太郎の玉手箱で白くなった訳ではあるまいに)

白髪ぬく枕の下やきりぎりす
(枕の下のコオロギよ。私は白髪を抜こうとしているのに、何故お前はそのように黒くいられるのか)

家はみな杖にしら髪の墓参
(この家には、若者は居ないのだろうか、皆家人は杖を付き白髪頭で墓参りをしているではないか)

卯の花に兼房見ゆる白毛かな
(卯の花の中に兼房がいるような気がする。まるで卯の花が兼房の白髪と見えるのだ。)

日本の古典の詩歌を訪ねて私が思うことは、どうも白には人間が生まれ出でて、黒髪から白髪という避けがたい外見上の変化から来る究極の色というイメージがある。つまり白馬に乗った王子のイメージは、老馬という知恵深き動物がある種の神聖さをもって若者である王子を支えているという構図と見受けられる。

だから結論から言えば、白馬に乗った王子のイメージは、知恵も財産もある若者が、自分をさらいに来てくれるという「玉の輿願望」と言ってもよいであろう。この心理構造から作られた物語に「白雪姫」などもあるが、まさに「白」が醸し出すイメージはいつの間にか「老いる」ということを脱して、ともかく神聖な色として定立してしまったかのようである。

おそらく、「白馬」の神聖さを、何を言っているの「白馬とは老馬のことよだよ」などと言えば野暮になるのだ。それで当然、馬のことを熟知している人も世間的に浸透している「白馬」のイメージを崩さないように「白馬に乗った王子」をむしろ馬の好イメージとしてむしろ積極的に承認しているのではあるまいか。このような肯定的な意味のタブー(?)例は、よくよく考えれば、世の中には、結構多いのではないかと思う。佐藤

 


2002.5.29
 

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