平泉のIさんへのメール 

−平泉景観問題に寄せて−


 
私の主宰するHP「平泉景観問題」に昨日、平泉に住むIT氏より実名でこのようなメールをいただいた。
「水害常襲地帯では、文化遺産も絵にはならない」
地元住民として、一言意見を申し上げます。
平成10年の洪水は、我家の周囲の水田が全て水没し、増水があと1mも高くなれば、20数戸 の家屋水没は免れず、国道4号線も不通になる事態でした。しかし、暫定的に鉄道線路の高さの 半分ぐらいに盛土をすれば、当面は中尊寺周辺、衣川橋付近は洪水から免れます。
地域関係者は全員地権者会に入会し、事業推進に全面協力し20数年経ってようやく待ちに待っ た堤防工事が始まったが、工事の完成はまだ先のようであり、腹立たしくおもっている。
中尊寺を中心として世界文化遺産登録運動をしているものの、堤防が完成せず水害常襲地帯の状 況が続けば、絵にもならない。住民協力のもと、一日も早い衣川堤防の完成を切に願うものである。


そこで私はこのような返事を書いた。

I さん
微妙なお立場で、なかなか発言し難い中を、しかも実名をもって貴重な書き込みをいただき感謝いたします。
仰せの通り、その場所で日々暮らしている住民の皆さまにとって、平泉という町は、単なる文化というような概念で括られるべきものではなく、守るべき家族が住まい、そしてまた祖先たちが苦労して切り開き守ってきた父祖伝来の土地そのものであると思います。私の母も、一ノ関の生まれで、叔父叔母たちも彼の地に根を張って暮らしております。ですから治水ということの大切さは身にしみて存じ上げているつもりです。

このホームページを読んでいただければ、お分かりかと思いますが、我々は治水と堤防の必要性については、これを否定している立場はとっておりません。我々の主張は、”治水問題と掛け替えのない平泉の原風景を共存させる道はないものか?”という一点であります。少しの氾濫で、国道4号線の方に水が流れ込む現状は、当然解消されなければなりませんし、これは議論の余地のない話です。ところがここにバイパスの問題が介入してくると問題は少し違って参ります。

私としては、高館から国道4号にそって自然工法によって、盛土をして、夢の跡と言われる高館直下の夏草生い茂る風景を保存していって欲しいと考えております。高館からの眺望は、誰に聞いても素晴らしいもので、それを台無しにしてしまう巨大な平泉バイパスが目前を通るのはいかがなものでしょうか。元々この場所は、日本人が古来から持つ治水の技術をもって、高館直下は遊水の地でした。北上川が自然に溢れれば、ここに水が溜まり、自然に水が排出するような機能を果たしていたと思われます。その機能をもう一度復活させることをやってはどうでしょうか。欧米でも最近は、無理矢理にコンクリートで岸辺と都市を分けるような考え方ではなく、自然な形での治水の考え方が、主流を占めつつあるとも聞きます。ですからそのような考え方で、バイパスルートを考え直して貰いたいのです。

周知のようにこの議論は、10年前の柳の御所の上をバイパスが通り、学者の先生たちが中心になって、文化財保存を訴えた時から継続している問題であります。思い起こして見ますと、その時にはまだ柳の御所がいかに大切な文化財であるか、大方の人は分かっていませんでした。何故なら、昔ここには館や御所のようなものがあったらしいが、地元の人々にとっては単なる原野に過ぎませんでした。そこに長年古都平泉の発掘と研究に携わってくださった藤島藤島亥治郎先生のような方々が、その保存の意味を説明してくださり、そこは単なる荒地ではなく、かつて奥州政治の中心をなした政庁であった、との一声で保存の気運が一気にたかまったのでした。

それから柳の御所の発掘は一挙に進み、その結果中世の古代史が塗り変わるほどのめざましい成果が次々と発表されて参りました。もしもこれがあのまま柳の御所の上をバイパスが通っていたら、確かに便利にはなっていたとは思いますが、文化都市としての平泉の価値も魅力も半減していたと思います。柳の御所の発掘とその研究により平泉という町の文化的価値は、飛躍的増しました。そして今単に平泉という一地方の狭い枠組みを越えて東北全体のアイデンティティを形成する力を有しているようにも思えるほどです。地元では10年前に、あのような計画変更を通したのだから、これ以上国や県に対してワガママは言えないという雰囲気があると聞いています。しかしそれで本当にいいのでしょうか。次の世代の子供たちに私のは、便利な道路か、それともどこにもないような高館からの景色でしょうか。私は間違いなく、景色をとります。何故ならバイパスというものは予算があれば、いつでも造れますが、一度消え失せた原風景というものは、それを復元するのには多くの時間が掛かってしまいます。

私は残念ながら平泉の出身ではありません。私も小学生になった時、父に連れられて、平泉に参りました。中尊寺に詣で、月見坂を登り、東物見から衣川を見ました。あの時の景色は忘れられません。高館にも行きました。ここが義経公が亡くなった場所だと知り、驚きました。そしてあの北上川と束稲山を一望する眺望です。父から芭蕉の「夏草」の句を聞き、そんな大変な土地なのか、とその時は、チンプンカンプンでしたが、夏草の句は父の発した言葉として心に残りました。

そして東北を離れて、何年も経ち、父が亡くなったので、ひとりで再び、この平泉に参りました。何という掛け替えのない景色だろうと、体が震えるような感動を受けました。その時、心に室生犀星のこんな詩が浮かびました。

「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土の乞食となるとても/帰るところにあるまじや/ひとり都のゆふぐれに/ふるさとおもひ涙ぐむ/そのこころもて/遠きみやこにかへらばや/遠きみやこにかへらばや」

やはり、「ふるさと」も「親」もその「かけがえのなさ」というものは、離れてみたり、失って、初めて実感できるものかもしれません。よくよく自分の心の在り方というものを考えてみると、これまでの人生の中で、意識はしていなかったのですが、意識の奥底には、常にこの景色と今は消え去ってないように見える奥州文化というものが存在していて、自分を守ってくれているとさえ感じます。これは不思議ですが、私が物事を考えるときには、必ず自分の背景にある東北の歴史というものを意識しているのです。

平泉の風景というものは、単に東北人のアイデンティティの中核としての原風景だけではなく、「遠野物語」が、単なる田舎としての「遠野」の「物語」というよりは、かつての「日本人」の誰の心にもあった「物語」として、愛されるように、日本人の原風景になりつつあります。だからこそ今、平泉は世界遺産に登録されるべき価値があるのだと思います。

都市で言えば、奈良と京都は、世界遺産に登録されましたが、それぞれの文化的価値は違います。違うからこそ、奈良も京都もユネスコは、登録を認めたとも言えるでしょう。さて次に登録されるべきは鎌倉や我が平泉ですが、平泉が世界遺産に登録されるのは、他のどことも違う文化的歴史的価値として認められなければ、たとえ鎌倉であれ、平泉であれ、地元や観光業者がどんなに騒ごうと、観光資源としての道路が整備されていたり、首都から近いなどという単純な理由で、世界遺産に登録されることはありえません。飛騨高山の合掌造りの家が世界遺産に登録されたことを考えてみても、むしろ何もせずそのままが一番価値があることだってあります。世界遺産は、人類の歴史において、これは本当に稀少で価値のあるものだと思われたものが、登録されることになっており、それが直ちに町おこしにつながり、町が活性化するというのは、すこし短絡的な考え方だと思います。奈良県のある先生が、いつかおっしゃっていたことが思い出されます。その先生は「世界遺産になったからといって、何かして貰えると思わないことだ。登録によって、地域が世界と繋がりを持ち、それを未来に伝えていく責任が発生することを忘れてはならない。登録がゴールではなく、むしろ登録がスタートなのだ。」と。まさにしかりだと思います。

確かにIさんが言うように、「水害常襲地帯では、文化遺産も絵にはならない」という意見納得です。ですから何とか、何とかかけがえのない平泉の原風景を残しながら、同時に治水を考える道をともに探して参りたいと思います。いかがでしょうか。Iさん。

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このメールを書きながら、ずっと脳裏に浮かんでいたイメージがある。それは幼い頃に父と行って見た平泉の懐かしい情景であった。私にとって、平泉の景色といいものは、どんなことがあっても失われてはならない「ふるさと」の原風景そのものである。平泉よ永遠なれ。佐藤 

 


2001.6.20

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