毛越寺は花の寺である。四季折々、季節の花が次々と咲き、奥州の黄金の古都平泉を訪れる人々を迎えてくれる。初秋の九月、毛越寺を彩るのが萩の花だ。薄紅
色の小さな花弁を持つ萩は、春のあやめや夏の蓮と比べ、地味な花だ。しかし古来より、日本人は、萩の花の間を秋風が吹き抜ける風情をそこはかとなく愛でて
来たのである。
万葉集に、
秋萩を散らす長雨の降る頃はひとり起き
居て恋ふる夜ぞ多き
萩の花咲けるを見れば君に逢
はずまことも久になりにけるかも
藤原の古(ふ)りにし里の秋
萩は咲きて散りにき君待ちかねて
という歌がある。すべて巻第十「秋相聞」にとられている歌だ。万葉集では、この他にも「萩」の花を題材にした歌は、何故か恋の歌が多い。どうやら日本人に
とって、萩の花は、「人恋しくさせる花」というイメージのようだ。古来より、日本人は、萩の咲く頃になると、どうにもロマンチックな気分になり、たまらな
く人恋しくなる心を持つ人々だったのである。
一方新古今集には、
明けぬとて野辺より山に入る鹿のあと吹
きおくる萩の下風
身にとまる思を萩のうは葉に
てこのごろかなし夕ぐれの空
秋はただものをこそ思へ露か
かる萩のうへ吹く風につけても
新古今は、平安時代から鎌倉時代に日本人が詠んだ歌を集めたものだ。この頃、秋の花である萩の花は、もの悲しさを誘う花になり、いっそう深い哀愁を帯びた
象徴になったように見える。第一首の「鹿」に象徴されているものは、未明に自分の許を去ってゆく恋人のことであり、作者の恋人との別れへの不安を思わせ
る。萩は散り際の切ない花である。地面に散った萩の小さな花びらを散らす秋風の冷たさが感じられ、別れの不安がいっそう助長されている。
奥州の花の寺毛越寺の池端を廻りながら、ふと自分のなかにある萩のイメージを詠ってみた。
ひとつ散りふたつ散りして萩の花秋風
清(すが)し大泉が池
みちのくの古寺咲く萩の散
り際の儚きを愛で故郷の花
夕暮れの茜の空に照り映ゑ
る浄土の池に萩の花咲く
*注 毛越寺の萩祭りは、毎年9月15日より30日に開催されます。