「葉隠」の説く武士道を考える
-「葉隠」武士道の犬死理論の陥穽-


はじめに

「武士道とは死ぬことことと見つけたり」
という言葉が、あたかも武士道の神髄であるかのように受け取られて久しい。

今から六十数年近くも前、悲惨な太平洋戦争の時に、日本の若者たちは、特攻隊としてゼロ戦に乗り、人間魚雷回 転に乗り、華々しく散って逝った。その背後に は、残念ながら、いつの間にか日本人の根本精神あるいは美風としての誤解された「武士道」があったと云わざるをえない。だからこそ、この言葉は、吟味され なければならない。新渡戸稲造を含め、もしかしたら、この武士道という呪縛の中で、日本人は様々な歴史的な間違いを犯してしまったのかもしれない。もう一 度この武士道という言葉の意味を問い直すことは意味のあることである。
 


「葉隠」という本。一般にこの本は、武士道の神髄を伝える本としての評価が定着しているようにみえる。でもその評価 は、本当に正しいのか。これを著した山 本常朝が、江戸の太平の享保年間に生きて、どれほど武士道に精通していたかは知らない。私の直感からすれば、彼は学校の先生のような文章を書いているよう にみえる。故にちっとも武士的ではない。第一、武士は、こんなに回りくどい説明的な文章は書かないはずだ。

武者の書くものとは、宮本武蔵の「五輪の書」のようなものではないか。五輪書は、実践の本である。直接的で、 剣術に興味もないものに、剣術を教えようとす るような甘いところは微塵もない。であるが故に、五輪の書の中には、実践で鍛え上げられた深い武者の哲学的洞察が潜在している。

一方、山本某の「葉隠」は、実に説教じみていて冗長な本である。そもそも佐賀藩内が、長い天下太平の江戸時代 のおいて、惰性的となり、武士本来の倫理観が 欠如してきたことを憂い、それを糺そうとして書いたものである。この書の説教臭さは、そんなところに起因しているのだ。ところが、これを名著だ、古典だと 崇める者が、現れて、そうだ、そうだ。となって、現在のような評価が定着した。三島由紀夫なども、このたぐいだが、私はこの著作をそもそも名著などとは思 わない。

そもそも武士とは何であったのか。歴史的にみれば、荘園領主のもとで、武器をとって領地を守る従者のことを云 う。ただその従者は、そこでは封建領主に無批 批判に従うものではない。そこにはある種の主君と臣下の契約がある。力のあるもの。天下を伺えるほどの領主の臣下に成るためには、当然競争があり、自分も それなりの力を備えていなければ、やとって貰うことなどありえない。「大リーグのヤンキースに入って俺もマツイのようになる」と云ったところで、誰もがマ ツイのようにスポットライトを浴びる訳ではない。武士、武者、侍、などと云われ、何か美化されているが、この武士道などという言葉が、当然のように出てく るのは、江戸の世からで、戦国の世ではそれどころではなかったはずだ。

結局、一般の武士たちが、平和の世になって、過去の武士の哲学(これとても実は、権力としての徳川幕府が意図 的に流したイデオロギーなのであり、相互の契 約という考えを抜いているのだが)というものが廃れてしまったということで、こんなお説教になってしまったことになる。義経と弁慶も義経記の中で(巻3) の中で、平家を討ち滅ぼしたいとの存念を伝えて君臣の契約を交わしているのである。何も臣下が盲目的に、従っているものではない。よく言われる「諫言」 (かんげん)も、武士道の忠義から来るのではなく契約の精神からくるのだ。もっと分かり易く云えば、主君が馬鹿な行動をとって、戦に負けるようなことにな れば、武士の将来もそれで終わりになってしまう。だからこそ、時には、命を賭けるような諫言にも及ぶことになる。臣下は、力がない主君に付いていれば、犬 死にをする危険が常にある。これは武士の世に限らず現代でも同じなのだが・・・。

武士道というと、得意になって、葉隠の言葉持ち出す人がいるが、多くの人は、この言葉を恐ろしい誤解に基づい て使用している場合がほとんどだ。まず武士道 という言葉は、後付けされた儒教精神に基づく誤解の産物にすぎない。しかも問題なのは、意図的になされた江戸幕府を守るある種の宗教的規範であるというこ とだ。いつも人間というものは、こうした言葉の曲解のもとで生きそして死ぬものなのか。
 


「武士道とは死ぬことことと見つけたり」
この言葉に感応して、実際に死んでみせた男がいる。昭和の文豪三島由紀夫である。三島がこの葉隠の言葉に深く感応し た理由は、彼自身が、大戦において、桜 のように自分の命も散ってしまうと覚悟していたところが、体が弱いために軍隊には入れず、結局生き残ってしまったという、ある種のコンプレックスから来て いるように思われる。

人はこのコンプレックスから、偉大な発見や創造的な仕事を為したりするものである。三島の場合も、やはり彼の 芸術の根底には、このような心理が働いていた ことは明白である。つまり三島の中には、死に損ねたという強烈なコンプレックスがあった。この心理を刺激した本が、山本常朝の「葉隠」だった。考えてみれ ば、山本と三島には、どこかしら心理の上で、共通する何かの意識が働いていたように思われる。

山本は、1659年(万治元年)というから、鎖国(1635)が始まり、島原の乱(1637−1638)も終 わり、武士が命を賭けて戦う戦争がこの世から 消えて、太平の世になる時に生まれた。もはや武士の弓や刀は無用の長物となり形骸化していった。山本の祖父や父は島原の乱にも出兵した。常朝は、父が七十 歳の時になした子で、幼少の頃から体が虚弱で、20歳までは生きられないだろうと云われていた。十一歳の時に、父を亡くした山本は、年は20才ほど年長だ が血筋では甥の山本常治に薫陶を受け、佐賀藩二代藩主の鍋島光茂に小姓として仕えた。これだけ考えても、山本は武の人ではない。文の人である。山本は、 きっと武士というものが輝いていた時期の生き様に対し、羨望の思いがあったのであろう。

山本が生まれる五十九年前に関ヶ原の戦があった。そこで佐賀藩は、急死に一生を得ている。藩主鍋島勝茂は、は じめ西軍に応援していたが、家康の東軍方が優 勢と見て、寝返って、領地を安堵されたことがあった。おそらくその時の、藩内の人間模様や武士たちの命を賭けたやり取り、決断の一切が、平和の時代に生き る山本には、胸を焦がすような思いで、祖父や父、古老たちの話を聞いていたのだろう。

こうして元々武士としての資質に欠ける山本には、憧れにも似た「武士道」への思いが生まれたはずだ。そして自 然と「武士道とは死ぬことことと見つけたり」 という言葉が山本の心の中でどこからともなく響いて来たのであろう。だからこの言葉は、山本自身の「武者への憧れ」をというか、「恋心」というか、そんな 思いを含んだものなのである。別の言い方をすれば、遅れて生まれた武士として、強烈なコンプレックスを抱える山本の武士観を表す言葉とも云える。

それを示すように、葉隠の中には、山本のジレンマが感じられるこんな下りがある。
「時代の風潮というものは、変えられぬものだ。次第に風潮が低俗になってゆくのは、世も末に感じられる。・・・だか らといって、世の中を百年前の良い風潮 に戻すというのはできない相談だ。」(葉隠聞書二の十八)

又「恋というものの究極は忍ぶ恋である。こんな歌がある。『恋ひ死なむ後の煙にそれと知れ終にもらさぬ中の思 ひは』これが恋というものだ。生きている内に 恋していると告げるのは本当の恋ではない。恋い焦がれ、思いに思って死ぬような恋が本物だ。相手より『私を好きですか?』などと問われても、『まったくそ んなことはありません』などと云って、思って死ぬような恋が究極なのだ。恋とはかくも面倒なものなのだ。・・・主従の間の関係もこのようにありたいものだ 云々」(葉隠聞書二の三三)と。

山本常朝は、江戸の元禄時代に生きた遅れてきた武士である。山本の仕えた藩主鍋島光茂は、名君として知られ、 朱子学を学び、幕府より早く追腹(臣下が主君 の跡を追って切腹すること。殉死とも云う)を禁止した人物である。この光茂が亡くなった時(1700)、山本は42歳の壮年であったが、図らずも君主の発 布した追腹の禁止令によって、彼の考える武士としての名誉ある死を遂げることは叶わなかった。

時代の風は、明らかに町人の世になりつつあった。もちろん武士階級が、士農工商の頂点に立ってはいるが、山本 の書く文章は、すこぶる爺臭くお説教じみたも のだ。彼は完全に時代錯誤の自分を感じながら、文化の波にお押し流される己を情けなく思いつつ、祖父や父の時代に武士たちが、華々しくも命のやり取りをし た時代を懐かしんでいるかにみえる。

「武士道とは死ぬことことと見つけたり」という山本の言葉は、まさに死ぬことを忘れて、時代の風潮に流されゆ く世代と時代に対し、「古き良き美風を忘れる な」と発した時代錯誤と化したひとりの老人の叫びのようなもので、どこか哀愁が漂う。しかしこれを肯定し、武士道とはこんなものであるという山本常朝の 「葉隠武士道」を肯定する気持にはとうていなれない。
 


葉隠は、武士の心得として「死」の覚悟を置き、主君に対しては、絶対の奉公の道を説く。江戸の太平の世で、この思想 はどのような波紋を投げかけるのか。遅 れて来た武者としての山本常朝は、主君に殉死することも叶わず、あれこれと武士のあり方を論評しながら、出家し坊主となって果てた。人には「狂死」とか 「忍恋」などと云いながら、彼は仏道に入って生きながら死んだことになる。実に哀れなで惨めな人生という他はない。結局、彼は文の人であって、武に生きる 人ではなかったのだ。

葉隠の文章全体を、通して読めば、すぐに気づくことだが、時には狂死を語り、積極的な死を肯定したかと思え ば、中庸を説く孔子のようにすこぶる道徳的な言 辞を弄したりしている。要は矛盾だらけで、例の「武士道とは死ぬこと云々」という刺激的な言辞だけが頭に残る書である。山本常朝という人物が著した書の評 価が、今では実際の到達点よりも、とんでもなく評価されているが、もっと葉隠というものの存在意義と価値を再評価すべき時期に来ていると思うのである。

同じ佐賀藩の出身である大隈重信(1838−1922)は、この「葉隠」に対し「奇異なる書」との評価を下し た。このことの意味は大きい。佐賀藩出身の大 隈であったが、彼の発想は、既に佐賀藩や武士階級の狭い領域を越えて、一市民のレベルに達していた。彼は葉隠の「とにかく佐賀藩主のために尽くせ」、とい う佐賀藩ナショナリズムというか、盲目的な滅私奉公的な言説が、時代になじまないものであることを看破していたのである。

さて今、もし武士というものの姿が、どのようなものであったかということを知りたければ、「平家物語」を読め ば事足りる。そこには武の時代に、激しく命を 燃焼させている武者たちの生き様が生き生きと描かれている。時代評論でもなければ泣き言でもない。同時代に生きた者達が、目の前で命を燃やし尽くしたもの たちをあるがままに活写しているのである。もちろんそこには多分に美化し過ぎている箇所もあるが、太平の世に昔を懐かしんで書いているのとは違う。

人は何のために死ねるか。それは武士道があるから死ねるのではない。止むに止まれぬ様々な葛藤を心に持ちなが ら、命より大切な何かが見つかった時に、人は 逍遥として死の旅路に就くのである。それは主君義経の楯となって亡くなった佐藤継信のように、主君のための時もあるだろうし、愛しい我が子や妻の時もあろ う。あるいはポトマック川で墜落した飛行機から、おぼれかけていた何人もの人を救出しながら、自分は疲労のために冷たい冬のポトマック川に沈んでいったア メリカ人男性のように自分とはまったく関係ない人でありながらも、人として黙って見過ごせないという強い思いが瞬間的に働いて、自分の命を投げ出していた ということもあろう。

この「葉隠」と比べれば、武の奉公が通用しない社会にあって、自らが武士として、生涯を貫いた最後の武者とも 云える宮本武蔵(1584−1645)が書い た五輪の書はまったく違う凄まじい本である。武蔵は、生涯において、誰を主君とすることもなく、ただ日々武者たらんと心に決めて、日本中を彷徨い歩き、つ いには主君はおろか妻も娶ることなく、ただ鎧に身を包み、日本のドン・キホーテとなって、ただ実践の書としての「五輪の書」一冊を遺して旅立って逝った。 実に見事な生涯である。自分は、安全な場所に一人居て、他人を狂死だ、忍恋だ、と駆り立てる山本常朝を私は評価しない。またすべきではない。
 


「武士道とは死ぬことことと見つけたり」という言葉が、これほど誤解されながらも持て囃されている理由はいったい何 か。それはおそらくこの言葉には、どこ かで日本人の琴線に触れる何ものかがあるのかもしれない。つまり美しい死を求めるという死生観(無意識)が日本人の心の奥底には潜んでいて、たまたま発せ られた山本の一言に共振を起こしているのである。それは前後の文章の脈絡も時代の制約も越えて、働きかけてくる。おそらく武士道だけではなく日本人の紡ぎ 出す文化の中には、死というものを美化しつつ、それと同化し、花のように散ってみたいという願望があるのだ。この死に対する考え方は、まさに日本人の中に ある死生観の原型(プロトタイプ)ともいうことができると思う。

ところで、この「葉隠」という本の題は、どうして付けられたか知っているだろうか。これは西行法師(1118 −1190)の「山家集」の「恋」の章にある 次の歌に由来するものと云われている。それはこんな恋の歌だ。

寄残花恋(のこりのはなによするこい)
葉隠れに散りとどまれる花のみぞ忍びし人に逢ふ心地する
(解釈:葉の陰に散り残っている花を見つけた時にはずっとお逢いしたいと恋心を忍んできた貴方に会ったような気持ち がいたします)

周知のように西行法師は、元々藤原秀郷に連なる武家の出で、弓馬の道では、あの源頼朝さえも一目置いていた人 物で、サムライの時代は佐藤義清(のりきよ) と呼ばれていた。院の御所を警護する北面の武士だった西行は、道ならぬ恋に溺れたのか(?)、23才で突然妻子を捨てて出家をした男である。その西行が晩 年、たまたま焼失した東大寺の再建のの勧進で奥州の藤原秀衡に逢いに行く途中、たまたま鎌倉に立ち寄った。頼朝は、西行を手厚くもてなし鎌倉の御所で朝が 来るのも忘れて、流鏑馬のやり方などを聞いている。西行には、あの有名な「願わくば花の下にて春死なぬその如月の望月の頃」という歌がある。桜を特に愛 し、その桜の下にて春死のうというのだから、まさに「葉隠」という題は、西行の死生観に添って付けられたというべきだろう。しかも歌は忍ぶ恋を謳ったもの である。

私が思うに、この「葉隠」という題は、作者山本常朝が付けたものではない。山本の話を聞き書きした田代陣基と いう人物が付した題であろう。当時、田代は 33才の男盛り、山本は52才初老の武士であった。おそらく田代は、すっかり廃れてしまっていると思われた武士道精神が、実はまだ散り残った桜のように 残っていることを山本常朝という人物会い話を聞くうちに、段々強く感じるようになったのだ。何か探していた花に巡り会えたような気持ちになり、西行の恋歌 にある「葉隠の花」というタイトルを付したのである。しかもこの本を残すことによって、自らが考える武士道精神というものが永遠に失われることなく残ると どこかで田代は確信しているように感じられる。

「葉隠」の冒頭にはこんな言葉が添えられている。
「この十一巻の本は、(読んだならば)ただちに火の中に捨ててしまうことだ。後の世に批判を受けたり、邪悪に解釈さ れたり、妙な推量をされかねない。風俗 など、ただ後進の者に話のまま書き付けて貰ったものだ。余所の人からみれば、不満や悪事となりかねない。必ずや火の中に捨てるように。何度も云うが申し添 えて置く」

この緒言は、この本が完成した時に、作者の山本が編集者役の田代に語った言葉そのままであろう。この言葉は、 逆説的表現で、私には「多くの人の目に触れさ せろよ」とのまったく持って日本人の回りくどい婉曲な表現としか思われない。

さて冒頭には、二人のこんな句も添えられている。(古丸は、山本の俳号。期酔は田代の俳号)

浮き世から何里あらうか山桜 古丸
(解釈:世の中が移り変わってしまって武士道という山桜は何里も離れた遠い処に咲いていることであるよ)
白雲や只今花に尋ね会ひ   期酔
(解釈:花ではなく白雲とばかり思っておりましたら、たった今見事な花に尋ねあたりました。山本翁よあなたこそその 武士道という桜の花なのですよ)

まあ、いささか褒めすぎ。芝居がかり過ぎだ。決定的なことを云えば、田代は編集者であるのだから、もう少し著 者に媚びを売らずに、内容を統一性のあるもの にするべきだった。田代は、余りに著者にのめり込み過ぎだった。この時、田代の心の中では、廃れつつある世にあって、それでも散ってしまったと思われる桜 の葉の陰に、一枚ばかりそっと散り残った花を見つけたように、山本との出会いを感じていた。彼の中では山本こそが武士道という花そのものに見えていたはず だ。そして「葉に隠れた花」という題で「葉隠」と付けたものであろう。

この本の内容が、先にも指摘したようにひどく前後の脈絡も取れず、一本筋の通ったものになっていないのは、編 集者の田代が作者にのめり込み過ぎのせいであ る。要は批判精神が、編集者田代に欠けていたのだ。余りに山本を絶対視し、敬愛しているために、前後の論述のバランスを取ることを忘れ、おそらくは聞いた ことを細大漏らさず書いたために、非常に完成度の低い著作となってしまったのである。

ここに山本常朝の書いた「葉隠」の限界がある。彼の武士道の限界もおそらく無批判な主君あるいは目上の者に対 する奉公心にある。その意味では個としての自 覚のなき「葉隠武士道」は、結局日本人の死生観を刺激すれども、根本において、個を否定し、批判精神を育てないという限界を孕む著作で終わったということ が云えるのではあるまいか。


旧来の武士道と区別する意味で「士道」という言葉がある。これは江戸時代になって、徳川幕府が、儒教精神を組み入れ て確立した幕藩体制維持の思想である。 ところが経済的にみれば、戦のなくなった武士たちの生活は、そんなに楽ではなかったようだ。士農工商でその一番上に位する武士たちだが、身分制度で一番下 の町人(商)たちに借金をしたりして、離散したりした武士もいたようである。「武士は食わねど高楊枝(たかようじ)」という言葉があるが、実際にこのよう なことが、日本中津々浦々であったのだろう。結局、太平の世にあっては、武士も武器も存在意義を失ってしまったのだ。

旧来の源平合戦以来の武士道とは、何とか生き延びて、仕えた君主のために功を上げて、立身出世をするというこ とに主眼が置かれた。これが旧来の武士道の伝 統であった。出世をして成り上がるためには、どうにかしてでも生存をしなかればならない。それで旧来の武士道は、どうにかして生き残る(サバイバル)とい うことが強い思想となった。そのためには、命を落とすことも厭(いと)わない。そこには強い自助の気概が漂っている。始めから死ぬつもりの滅私奉公するの ではない。江戸の幕藩体制維持の装置に変えられた江戸期の武士道とはその辺りが根本的に違ってしまったのかもしれない。士道の場合は、そこに儒教精神が 入ってきて、私欲・私情というものが極端な形で否定されて、滅私奉公となったのである。

その意味では、「葉隠」の著述が、どんなに奇異にみえようとも、大きな時代の流れで言えば、江戸時代の雰囲気 の中で出来上がった一人の地方武士の心に浮か んだあるべき武士の姿であった。山本常朝の仕事は、藩主の側に支え、祐筆(ゆうひつ:文書にたずさわる者)などをしていた。彼はけっして事務一般をこなす 官僚ではなかった。だからかどうか、藩の財政や仕事に携わった時の苦労話などは、書かれていない。ひたすら奉公の道に決死の覚悟で仕えろ、とただそればか りが愚痴のように延々と書かれていて辟易してしまうのである。

読みながら、これはまさしく年寄りの愚痴ではないかと思ってしまう。
「…浅野殿の浪人たち(赤穂浪士)の夜討ちも、泉岳寺で腹を切らなかったのが間違いだ。主君が討たれてから仇を討つ までの間が長すぎる。もしもその間に吉 良殿が病死でもしたら、どうしようもないではないか。都会の人間は、知恵が有りすぎるために世間を唸らせるのは上手だが、長崎の喧嘩のように無分別な行動 はとれないのだ。…武士道は…死の覚悟があればそれでよい。たとえその場では、反撃ができなかったとしても、すぐに仕返しをすることだ。それには知恵も技 もいらない。ただ曲者となって、なりふり構わずに死に狂うだけである。これで夢が覚めるというものだ。」(葉隠聞書一の五十五)

おそらくこれは、少しばかり山本の口が滑ってしまったのである。理由は簡単だ。本来は批判すべき編集者が感動 し過ぎなのだ。田代の目をランランと輝かせて うっとりと山本の断定的な喧嘩話に聞き入っている姿が目に浮かぶ。もっと編集者である田代に批判精神があれば山本も、これほどの幼稚性を露呈することはな かったはずだ。余りの編集者の喜びようについ乗せられて、本音がポロリと顔を出てしまったのである。
 


大体、赤穂浪士の敵討ちと、長崎喧嘩を同列で比べるなど、まあ常識のある男のすることではない。こうしてこの段で は、単なる喧嘩の自慢話に、話のレベルが落ちてしまっている。長崎喧嘩というのは、元禄13年(1700)、長崎で佐賀藩の武士2名が長崎の町年寄高木某 の家臣を相手に起こした私闘(喧嘩)のことである。事の発端は、泥がかかったというような些細なものであったが、高木の家来を殴ったことから、高木方の仲 間が大挙してやって来て鍋島の二人を袋だたきにした。納まらない2名は、我が子ら二人を加勢に呼び寄せて4名で高木邸に討ち入り、さらに仲間の者が8人加 勢にやってきて、罪もない主人の高木当の家来やその他の人間を含めて10名ほど殺害に及んだのである。その場で、鍋島の2人は、腹を切って自害。その後、 沙汰によって、討ち入ったもの全員が切腹となった。これが葉隠武士の美談として語られるとしたら、どこよりも早く殉死禁止令を出した佐賀藩としての先取の 精神はいったいどこにあるのか。

これはまさに私闘(喧嘩)の末の犬死である。何よりもこれで鍋島藩主は、天下に恥を晒したことになる。いや恥 だけでは済まない。場合によっては、それこそ この時期の徳川幕府は、藩を取り潰して、子飼いの家来に領地を分けて、幕藩体制を確立したいのであるから、何やら理由をつけて佐賀藩断絶ということだって あり得たのではあるまいか。これを忠孝の士を気取る山本が、知らぬはずもあるまいに、武士道の美談として語り継がれる「赤穂事件」の赤穂浪士と対置して、 心意気としては、長崎喧嘩の時の自藩の武士のかっとなって犯した喧嘩をより評価する旨の弁は、それこそまさに暴言としか思われない。山本には、おそらくこ の時の藩主の苦悩が分かっていない。いつ喧嘩の挙げ句に腹を切るかも死ねないそんな者を自分の臣下として、雇っておく藩主などあるものか。

「葉隠」の冒頭の「武士道とは死ぬことと見つけたり」という一見もっともらしい言葉に騙されては駄目だ。「葉 隠」を全体で見れば、非常に論理性に欠け、し かもその取り上げているエピソードの多くが先の長崎喧嘩に見られるような狭隘な鍋島ナショナリズムとも言うべきものに終始している。結局それらの言辞は、 山本の屈折した視点から世を傍観した初老男の愚痴に過ぎないのである。これも戦国の武者たちに対する羨望や郷愁というような山本のコンプレックスがそうさ せたのであろう。

「葉隠」は、「死」の観念を武士の心構えの中心に据えることで、たまたま日本という文化圏の中に育った日本人 の琴線に触れるということの一点によって、あ る時、異常なほどの賞賛を浴びた時期があった。それは犬死も恥ではないとする極論を孕んだ思想であり、あの忌まわしい第二次大戦時では、この「葉隠武士 道」の精神を汲んだ数百万の若者が尊い命を散らしてのである。こうして地方に住む一人の偏屈な男のコンプレックスは死を乗り越える哲学となって、暗い時代 の闇夜に一瞬の閃光を放った。

最後に言うならば、「葉隠」という著作は、どんなに異様な姿に見えようとも、徳川の時代が生んだ思想である。 本来であれば、徳川の為政者たちは、太平の世 になった時、身分制度を徐々に撤廃し、とりわけ武士たちを武装解除させて、武士階級を他の職業に転換しなければならなかったはずだ。しかし徳川幕府は、士 農工商の身分を固定化し、もはや無用の長物となりつつあった武士階級の身分を最上位に置いてしまった。ここに、「葉隠」のような極端な思想が生まれる素地 があったことになる。明らかに武士たちの精神にも変化が生じていた。そこで幕府は、林羅山(1583-1657)を登用して、朱子学を幕府の官学として日 本の歴史から兵学に及ぶ膨大な支配の思想体系を作り上げさせた。林は旧来の武士道に、最新の儒教的精神としての朱子学を取り入れることによって、徳川幕府 を支える強力なイデオロギーを完成させた。その林羅山に薫陶をうけたのが、山鹿素行(1622-1685)であった。彼はもっとも徳川においても有能な兵 学者のひとりであった。彼の「山鹿語類」や「武家事紀」など一連の兵学書は、単なる精神論である「葉隠」とはまるで違う深い人生哲学を潜ませていて他の者 の追随を許さない。一時、朱子学を批判したことで、赤穂の浅野家に預けられたが、そこで後に赤穂浪士を率いた大石内蔵助(1659-1703:くらのす け)を門下として山鹿流の武士道(兵学)を伝授したことは有名な話だ。葉隠という書もまた一見奇異には見えるが、この著作の本質が 実は、武士道というよりは無批判に体制に従う奉公人道を説くことであったという、その一点において、やはり 最終的に徳川政権を支える思想というべきであろう。

林羅山や山鹿素行らが作り上げた徳川の武士道を、特に士道と呼ぶが、その特徴は、朱子学によって、旧来の戦国 形の武の武士道を、奉公形の武士道に意識的に 改変することだった。この士道について、丸山真男は、「武士階級の存在理由の根拠づけ」(講義録第五冊p221)と定義している。まさに武士道から士道へ の転回は、戦国の荒々しい武士道を儒教的精神によって、洗練醇化する道として考えられたのである。そこでは当然、戦国の武士のような、より強い主君との主 従関係を結ぶというような下克上的観念は消滅し、臣下の滅私奉公の道だけが強調されてゆく傾向となった。武の道から、奉公への道の転換である。それは武蔵 の五輪書にあるような、いかに敵と戦い、いかにしてそれを打ち破るか、あるいは勝ってのし上がるか、というようなぎりぎりの実践的武士道論ではなく、心構 えや、生活信条ということが、その論述の中心テーマとなって行くことになる。もちろんそれは幕府や大名や上級の武士にっては、都合が良かったかもしれない が、日本という国家にとって、市民精神というか個の確立という面では非常なマイナス効果をもたらした。その個の否定が、今日の日本人の自分の心情や信条を 他人に話さないということに通じているのかもしれない。

徳川の時代となって、太平の世は訪れた。ところが軍功を上げてのし上がってゆく武士にとって、これは己の存在 理由を否定されるに等しい時代の到来となっ た。そして無用の長物となった武士たちの中には、経済的に困窮するものまで現れた。それでも武士たちは、異様ななまでのプライドを持ち、高楊枝を加えなが ら、江戸の町を肩を切ってかっ歩していたのである。彼らの心には、戦国時代の武士の生き様の理想化や郷愁といった気持ちが生まれて行くのは当然の流れで あった。山本常朝という偏屈な男の中でも、武士というものに対する理想化の思考が生まれた。山本は、単純に「武士とは死ぬことだ」と考えた。考えれば考え るほど、彼の中では「死」という言葉のみが増幅した。そして犬死さえも合理化する我流の「精神論的武士道」が誕生したのである。到底この山本の武士道論に 普遍的な価値などはない。それが明治の終わりから大正期にかけて、急速に読者を増やし、大戦の最中には、異常なほどの熱気を持って受け入れられた背景に は、日清日露の戦争を勝利して、日の出の勢いで、アジアの覇者と して登り詰めようとした日本人の無意識を鼓吹するものが、この著作にはあると判断されたからに他ならない。すなわち無批判で国家に従う国民を養成する全体 主義的国民教育にとって、この「葉隠武士道」は実に有効なイデオロギーであったのだ。
 

最後に

最後に、山本常朝のこんな句を紹介しておこう。
「ひとみなが江戸へ行くらし秋の暮」

時代に取り残された老武者の悲しさがひしひしと伝わってくる。もしかしたら、主君の死を機に、武士の身分を捨 てて風狂の道に生涯をかけた芭蕉のように自由 に生きてみたいという心があったのかもしれない。そうでなけらば、これほど偏屈になって、「死ぬ」「死ぬ」などと言うはずはない。西行や芭蕉ももとは武者 であった。彼らにとっては、風狂の道を生き抜いて死ぬことは自然なことであった。だから彼らは、死を大げさに表現することはなかった。

芭蕉は、
「この道や行く人なしに秋の暮」、「旅に病んで夢は枯れ野を駆けめぐる」と、感慨を遺して死んだ。

西行は、「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」と、生涯を旅に明け暮れた挙げ句、
「願わくば花の下にて春しなむその如月の望月の頃」
の願いの通り、死は西行を優しく迎入れたのであった。山本常朝のように、何もことさら「死」を強調しなくても、死は いつでも自ずとよく人生を生きたものを 迎えてくれるものではあるまいか。了



2003.8.21 Hsato

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