ギリシャの印象

−どうもピンとこない旅−


あこがれて行ったギリシャだったが、実際に見てみれば、なにか物足りなさが残る旅であった。確かにアクロポリスの丘にあるパルテノン神殿はすごかった。大理石をまるでバターでも切ったように寸分の狂いもなく合わせる技術はすばらしい。パルテノンを見ただけで、古代ギリシャが、建築技術にしても、彫刻にしても世界最高水準にあったことが一目で分かるほどだ。

しかし、もはやパルテノンは観光用の見世物であって、神々の宿る神聖な場所ではなくなってしまった。その昔、アテナイの神を祭ったこのパルテノンは、ペルシャとの戦争に勝利したことを記念して造られた神々の館だった。その為、たとえ最高指導者のペリクレスや貴族でも、簡単には足を踏み込めなかったほど神聖な場所であった。それが今は、観光客のために、夜は、黄色や赤色に照明を施されて、観光客の酒の肴(さかな)に供されている有様である。

古代ギリシャ人が見たら涙を流すかもしれない。いったい現在のギリシャ人は、何を考えているのだろう。例えば、我々の宿泊するホテル(デバニ・パレス・アクロポリス)に入れば、四星クラスのホテルであるにもかかわらず、押し入れが開かないような立てつけだったり、窓のデザインが張りの半分でどうにも変だったり、最悪である。それが現実のギリシャの姿だ。ギリシャ料理にしても、はっきりいってレベルは、かなり低い。とてもフランス料理やイタリア料理と張り合うことなど無理である。要するに古代ギリシャは、世界最高水準の国家だったが、現在のギリシャは、とるに足りないエーゲ海の小国に過ぎない。

救いは、エーゲ海であった。さすがにエーゲ海だけは素晴らしかった。ハワイの青さともオーストラリアのグレートバリアリーフの青さとも違うギリシャの青さがそこにはあった。ちょうど薄い絹のベールをまとったような青さである。

この海にはきっと神が宿っている…そんな気がして、目を瞑ると、海をやさしく吹き渡る風と感応(かんおう)した。感応とは、風と心が一体になって、心の眼が開くことである。

そうすると、人の声も波の音も、すべてが小鳥のさえずりのように心地よく響いてくる。あたかも風の中に自分が、溶け込んでいくような錯覚すら覚えた…。

残念ながら、”ソクラテスの本質に触れたい”というテーマを持って行った今回のギリシャは、私にとって、今一つ納得のできない旅となった。その原因は、ソクラテスにゆかりのある場所や物に出会えなかったからではない。それは、おそらく現在のギリシャの人間たちが、古代ギリシャの崇高な精神を、何一つ継承していないことに原因があるのである。つまりどこかで古代ギリシャの崇高な文化は、途切れてしまったということだ。

しかし何処かに存在しているであろうソクラテスの魂は、ギリシャの人々に向かって、そして世界の全ての人類に対して、次のように言い続けているはずだ。

”汝自身を知れ、さすればギリシャには来ずとも、私に出会うことができる!!”と。佐藤
 


義経伝説ホームへ

1998.6.15