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飯坂町史跡保存会副会長遠藤保吉先生より

歓迎のごあいさつ

 

「義経ロマン五〇〇キロの旅」を歩んでおられる菅原次男様ならびにその行脚を支援しておられる皆様を、飯坂町の住民は心から歓迎申し上げます。

飯坂は美しい自然に恵まれた歴史のまちです。八百四十年ほど前に、佐藤基治公の子としてこの地に生をうけた佐藤嗣信・忠信の兄弟は、誉れ高き武将として世に知られております。この嗣信・忠信が、飯坂の誇りとする武将として歴史に名をとどめることになるのは、源義経公の出会いがあったからといっていいでしょう。その出会いは、運命的な巡り合わせといいますか、ただ単なる偶然ではなく、歴史的な必然なのでしょう。

治承四年(一一八〇)に、源頼朝が平家追討の兵を挙げるや、義経は直ちに平泉を発って兄の元へ馳せ参じます。その途上、嗣信・忠信兄弟は、義経と主従の約に結ばれ、平家追討の戦に臨みます。

兄の嗣信は、『平家物語』に描かれているように、屋島の合戦において奮戦、主君義経の楯となり、敵の放った矢を受けてたおれます。

弟の忠信は、頼朝と不仲になって追われる義経を守り、吉野にのがした後に、義経の身代わりとなって京都で散ってしまいます。『義経記』が、その様子を見事に描いています。

主君のために命を捧げ、散っていく者の姿に美しさを感ずるのは、日本人の血が流れている者に共通の感情なのでしょう。滅びゆく者の散り際の美しさに感動を覚えます。

 振り返れば、昭和三十二年は、大島城築城八百年の記念の年でした。この年を中心に、飯坂町では、嗣信・忠信を顕彰する大きな事業に取り組みました。

一、 いしぶみ「大島城跡」の建設

      昭和三十三年十一月に竣工

一、「大島城の歌」と舞踊の制作

      昭和三十四年に完成

一、「詠嗣信忠信之忠誠」と剣舞の制作

      昭和三十四年に完成

です。この事業には、飯坂温泉の活性化の願いも込められておりました。

 今回「義経ロマン五〇〇キロの旅」の途上、菅原様はじめ支援される皆様方が、飯坂に寄せられたのをきっかけに、私たちは、義経公のために散った嗣信・忠信兄弟の事績を改めて見直すとともに、飯坂町が四十年前に行った事業の意味を問い直し、先人の描いた飯坂温泉活性化の夢を現実のものとしなければならないと思いました。

皆様方は、義経公の優しさに触れておいでです。私は『義経記』巻第八の冒頭部分「嗣信兄弟御弔の事」を引用して、義経公の優しさをかみしめ、ごあいさつのまとめといたします。

 さる程に判官殿高館にうつらせ給ひて後、佐藤庄司が後家のもとへも折々御使つかわされ憐み給ふ。人々奇異の思ひをなす。或る時、武蔵を召して仰せられるは、嗣信忠信兄弟が跡を弔はせ給ふべきよし仰せられける。

「その次に四国西国にて討死したる者ども、忠の浅深にはよるべからず。死後なれば名帳に入れて弔へ。」と仰せくださる。

 強さと優しさとを兼ねそなえた武将義経公の心に強い感動を覚えずにはおられません。

このような義経公にひかれる菅原様のこの度の「五〇〇キロ行脚」に敬意を表し心から応援するものです。これからの旅のつつがなきことを祈念して歓迎のことばといたします。

 

  平成十一年七月十一日

  飯坂町史跡保存会副会長 遠藤 保吉