現代語訳・奥州後三年記

現代語訳奥州後三年記

 

凡例
  1. 底本には仙台叢書第一巻奥羽軍記所収(寛文二年の印本)を使用した。
  2. 読み辛いので原文にはない段落を付け、番号と小見出しを付した。
  3. 誤訳を発見した時には、ご一報願いたい。 

2012年6月吉日
佐藤弘弥



奥州後三年記序
  
わが国の朝廷に文官と武官の二つの道があり、互いに助け合って政治を行ってきた。仏教にも「顕教」と「密教」の両宗があり、それぞれの教えを護持している。

このことは優れた天子様の現れた明るい時代の大事業を発端として、神仏が姿を現したといえないこともないであろう。

わが国の神武天皇より五十六代に当たる清和天皇に御子貞純親王の六代目の子孫に伊予守源頼義殿が居られた。さてその長男が陸奥守義家殿である。通称八幡殿と言われた。

この八幡殿が、堀川院の御代である永保三年(1083)に、陸奥守として奥州に赴任された。ここには、陸奥の奧六郡を領するようになった鎭守府将軍清原武則の孫である武貞(荒河太郎)の息子真衡が居て、財産の豊かさに驕り高ぶった行状に及んでいた。そのため、一族ながら家来(郎従)と同じ立場に置かれてしまった秀武は、真衡に対し深い恨みを抱き、ついに合戦を仕掛けた。

その余波は奥羽各地に拡がって、ついに武衡家衡を攻めるようになり。双方の大軍が力を尽くし「我こそは」と雌雄を決する有様となった。戦いは各地で数え切れないほど起こった。

この間、大将軍陸奥守源義家殿の武徳と威勢は、上代に比べても勝るとも劣らないものがあった。

雪の中にあって人を暖める情けある心は、陽に和む気風を含み、雲の外に雁の気配を察知する智略は、天賦の才を潜めていた。時には、自らの将兵について剛勇の者と臆病の者を分けて座に就かせ、計略をもって両方の者を激励した。また時には凶徒が没落の最期を迎えた時、手のひらを差し出してその事を示した。

そのように、寛治五年(1092)十一月十日の夜、大敵は既に滅亡し、残党はことごとく討たれて地に伏していた。その後、戦を鎮めたという書状(解状)を朝廷に送ったが、その天子様への奏上に天子様はたいそう感動された。俗にこれを「八幡殿の後三年の軍」というのである。

歳月は、随分過ぎたけれども、その評判は朽ちることはないであろう。源家の一流は広く世に拡がって、今に至っても、いよいよ新である。

古来の義家殿の美談について、その威徳を仰ぎ見ない者がいるだろうか。世間の知るところ、時を越えて伝えたいと思う。後漢の二十八将は、その形を凌雲壹に写すといわれる。本朝の「賢聖障子(けんじょうしょうじ)」には、わが国の名士三十二人が、紫宸殿の母屋の北面に障子絵図となって飾られている。だから今、この絵を描かせているところである。

このことの由来については、この画図を東塔南谷の衆議としてその功を終えたものである。狂言や戯論の果てにできたものというものではけっしてない。児童や幼い者が歴史について学ぶ心を奨励する。時々窓の中を仰ぎ見てこの画図を開き、春の夜の寂しさを慰めとする。故郷を遠く離れている時、これを取り出して。風月の歌を吟ずる時に添えたいと思う。その歌の背後に描かれた画図の精緻な麗しさは、丹精の彩色による永遠の花の春である。表面に書かれた能筆の絶妙な姿は、古い金石の銘と比較してもそれに負けないものである。図も書も共に為になるものであることは、老いも若きも同じように感じるはずのものであろう。

時に貞和三年(1344)

法印權大僧都 玄慧。

一谷の主人のご命令により大網の小序を記した次第である。



奥州後三年記上

1 清原真衡のこと
永保(1081−1084)の頃、奧六郡に、清原真衡といふ者がいた。この人物は、荒河太郎武貞の息子にして鎭守府将軍武則の孫に当たる。真衡の清原家は、元来、出羽国山北の住人であった。それが康平(1058−1065)の頃、源ョ義が、貞任と宗任を討ち滅ぼした時、真衡の祖父武則は一万人を越える軍勢を率いて、出羽より陸奥国にやってきて頼義軍の味方に加わることにより、安倍軍(貞任宗任)を打ち破ることができたのである。この功によって武則の子孫は奥六郡の主となったものである。以前には、安倍氏の貞任、宗任が先祖より受け継いだ奥六郡の主人であったが、真衡の威勢は、父祖の代にも増して高まっていて、奥州、出羽国内には、もはや肩を並べる者はいなかった。

真衡は、礼儀正しく、間違った行いをせず、院の命令を重く受け止めて、朝廷の威光を高めた。これによって、奥羽国内は、穏やかで戦も納まっていた。ところが真衡には、継ぐべき子がなかったので、海道小太郎成衡という者の子を養子とした。次ぎに真衡は、歳若い成衡の妻を探した。当国内の者は、一族も含めみな従者(家来)のような状態となっていたこともあり、真衡は隣国の常陸国の多気権守宗基といふ武者の娘に目を付けた。この娘は頼義朝臣がその昔、安倍貞任を討とうとして、陸奥に下ってきた時、旅の仮の宿で宗基の娘に生ませた女子であった。宗基は、この孫娘に傅(かしづ)くように大切に育てたのであった。

真衡は、この娘を迎えて養子成衡の妻とした。新しい嫁を饗応しようと、奥羽の国内はもとより、常陸国の多くの郎等たちが、毎日毎日やってきた。陸奥の習慣に、「地火鑪(ちかろ)」などというものがあった。これにより、さまざまな食物を持ち込んで食したり、金銀や絹布、馬や鞍などを持ち運んで上納するのである。

2 吉彦秀武の不満
出羽国の住人に吉彦秀武(きみこのひでたけ)という者があった。この男は、武則の母方の甥で婿でもあった。むかし、頼義が貞任を攻めた時、武則は一族郎等率いて当国へやってきて、栗原郡の営ヶ岡(たむろがおか)において、頼義軍の各陣の将を定めて軍を整えた。この時、秀武は三陣の頭(かしら)に任命された人物である。ところが、武則の孫の真衡が一族の長となってその威徳が父祖を越えるものとなって、清原氏の一族の同胞の多くが従者(家来)となってしまった。

秀武も同じように家人として催促されて、この饗応の席にやってきたのである。秀武は、この席で、朱色の盤に金をうず高く積んで、自ら目上に持ち、座にひざまづき、盤をそのまま頭上に掲げていた時、真衡のお側に仕える「五そうのきみ」という僧がいたのだが、この奈良と法師と秀武が囲碁の勝負に興じていて、やや時間が長くなり、老いた秀武は、疲れてきて、その座を保つのが苦しくなって、心に思ったことは「私は清原家の一族の者である。めぐり合わせ優劣によって、まるで主従の振るまいをすることになった。それでも老いの身を抱えて、庭にひざまづいているのを、しばらく無視され、情けなくなって、苦々しいことだと思い、ついに掲げていた金を庭に放り投げて、急に走り去って、門の外に出て、たくさん持参した飯や酒を、すべて従者に分けて、長櫃(ながびつ)などは、門の前にに捨てて、自ら大鎧を急ぎ着て、郎等どもにもみな武具を着けさせて、出羽国に逃亡して行ったのである。

3 後三年合戦の発端
真衡は、囲碁を打ち終えて、秀武を訪ねて見ると、家来から、秀武はこのようにして、退たということを聞いて、大いに怒り、たちまち、諸郡の兵を招集して秀武を攻めようとした。

直ぐに秀武追討の兵は、雲霞のように集ってきた。このところ、真衡の婿の結婚の儀もあって、穏やかで目出度いはずの奥六郡であったが、たちまちに、騒がしく状況となった。真衡は、すでに出羽国に向かった。ここで秀武は思った。「わが方の勢いは、真衡軍と比べれば、まったくもって劣っている。戦とならば、時も置かず攻め落とされてしまうに違いない。」と。計略をめぐらすとすれば、陸奥国に清衡、家衡という兄弟がいる。清衡は亘理の権太夫経清の息子である。その経清と貞任が揃って討たれた後、武則の子太郎武貞が経清しの妻呼んで家衡を生ませたものである。とすれば清衡と家衡は、父の違う兄弟である。

秀武は、このふたりのところに使者を送ってこのように告げた。真衡にこのように家来のようにしていることに不満はないのか。思いがけないようなことが起きて、真衡軍は勢いに任せて私の下に攻め込んできている。その後に立って、詐りを言って真衡の妻子を奪い、その家を焼き払ってはくれないか。そうしてこそようやく真衡の勢いは傾くであろう。その隙を突くことは、今まさに天が与えた時というものである。真衡は妻子を奪われ、住宅を焼き払われたと聞けば、私の雪まみれの首を真衡に取られたとしてもひとつの憂いもないというものだ。」と。

この言葉に清衡と家衡は、喜んで兵を集めて、真衡の館を襲撃したのであった。その途中では胆沢郡(伊澤郡)白鳥村の在家四百余りの家屋を合わせて焼払った。真衡は、この事実を聞いて慌てて帰ってきた。そしてまづは、清衡と家衡と合戦しようとして馬を走らせた。清衡、家衡が、又これを聞いて、真衡の軍勢と当たるべきではないと(豊田柵へ)引き返してしまった。

真衡は、秀武方と清衡、家衡方との両方との戦いに挟まれて、ますます怒り心頭に達し、兵を集めて自分の本拠地を固め、もう一度秀武を攻めるために出羽に遠征しようと、幾度も出立しようと思ったが適わなかった。

4 源義家陸奥守として赴任
そこに永保三年(1083)の秋、源義家朝臣が陸奥守として赴任してきたのである。これにより真衡は当の戦のことなど忘れたように新国司を饗応することに専念することになった。「三日厨(みっかくりや)」という事があった。これは日ごとに乗馬五十匹を引いて、金や羽、アザラシの皮、絹布などを、数知れず献上する儀式である。真衡はやっと新国司を接待し終えて、奥六郡の本拠に帰り、秀武攻略の本意を遂げようとした。兵を二手に分けて、まずわが館を固め、自分は以前と同じように出羽国に遠征の途に就こうと向かった。

真衡が出羽へ出向したことを聞きつけて、清衡と家衡は、再び真衡の館を攻撃した。その時、国司の郎等に、三河国の住人兵藤太夫正経、伴次郎{仗(けんじょう)助兼(すけかね)という者がいた。この二人は婿と舅であったがそろって、奥六郡の検問をしていた。ここから真衡の館が近くにあるので、真衡の妻が、ここに使いをやってこのように言った。
「夫真衡は、秀武が館に向かっている間に、清衡、家衡が夫の留守を突いて襲ってきて戦うことになるかもしれません。しかしながら、わが方にも兵が多く控えているので、これを防いで戦うことに心配はありません。但し私は女人でもありますので、大将軍の器に相応しくない大将軍ではありますが、戦いの形勢を国司様に申し上げる次第です。」と。

正経と助兼らは、この話を聞いて、直ぐに真衡の館に向かった。すると、清衡と家衡軍が襲撃していて戦いは始まっていた。

5 清原武衡の参戦
武衡は、国司が追い返されたと聞いて、陸奥国から軍勢を率いて出羽国にやってきた。そこで武衡は家衡にこのように言った。「あなたは独身の身であって、仮にも真衡殿を敵として、たとえ一日と言えども、その兵を追い返して名を天下に示した事は、あなた一人の高名ではなく、すべては、この武衡の面目を施してくれたことになる。国司源義家殿であるが、古今に名を馳せる源氏平氏の名将を、このように攻め返した事。これ以上、誉める言葉もない。これからは、私もあなたと同じ心持ちを持って、死力を尽くして戦い、己の屍(しかばね)を野に曝す覚悟である。」と。

家衡は、これを聞いて大いに喜んだ。家来らと手を取り奮い立って喜びを爆発させた。武衡がそこで言ったのは、出羽に金澤の柵といふところがある。その場所は、沼の柵を上回る優れた館であるということだった。そして二人は、打ち揃って沼の柵を捨てて、金澤の柵に移動していった。

6 義家の弟義光の陸奥に下る
将軍義家の弟兵衛尉(さひょうえのじょう)源義光が、急に義家軍の陣に馳せ参じてきた。義光が兄の将軍義家に向かって言った。
「何となく戦の戦況を聞きいたところ『義家が夷に攻められて、形勢はよろしくない』と承って、矢も楯もたまらず、しばらくお役目の休暇を院に申し上げて、こうして陸奥国までやって参りました。兄義家は、これを聞いて、涙を抑えて言った。「今日、貴殿がやってきてくれたのは、故父頼義入道が生き返って来られたように思える。そなたはすでに副将軍となっている。この上は武衡と家衡の首を必ずや取って、思いを叶えようではないか」と。

前陣の軍は、すでに攻撃を始めて戦っていた。城中では暗闇の中で喚声が上がり兵たちは弓を振るって矢は空から雨のごとく降ってきた。さすがの将軍の兵士たちも、疵を負う者が甚だしくかった。

7 鎌倉權五郎景正の武者ぶり
相模国の住人に鎌倉權五郎景正という者がいた。先祖より名高い武者である。歳僅か十六歳で、初陣を飾り、大軍を前にして、命を捨てる覚悟で懸命に奮戦する間、征矢(そや)が右の目を貫いた。何とその矢は、首を射貫いて、冑の鉢付の板に達していた。その矢を折り、当たった矢を、また射て敵を射取った。

さてその後、陣に帰った景正は、冑を脱いで、「傷を負った」といってて、仰向けに倒れ伏してしまった。同国の武者に。三浦の平太郎為次といい者がいた。この者も相模国では名高き武者である。貫いた矢を取り出そうと。景正の顔を踏んで矢を抜こうとした。すると景正は、倒れ伏しながら、刀を抜き、為次の胴の下に付けた草摺(くさずり)を握って。刀で突こうとした。

為次は驚いて、「何をする。何故そんなことをするのだ。」と言うと、景正は答えて、「弓箭(きゅうせん)に当たって死ぬ事は、武者として望むところだ。しかし生き永らえて、他人の足でこの面を踏まれることは我慢ならんことだ。この上は、お前を仇として殺し、私もここにおいて死ぬつもりだ。」と言った。為次は、この覚悟に舌を巻いて、言葉を失ってしまった。そこで、為次は、景正に膝をかがめさせて頭を押さえて、何とか矢を抜いてやった。多くの者が、この話を見聞きして「景正のような武功は、とにかく前代未聞」と言い合った。

8 薄金が消える
義家軍が、総力を尽くして、攻め落とそうと戦ったのだが、城(金澤の柵)は一向に落城することはなかった。岸が高く壁を前に置いたような有様だった。この城からは、遠い敵に対しては、矢を放ってこれを射掛け、近き敵には、石弓を発してこれを打つ戦法であった。これによって、死んだ兵士は数知れないほどであった。

伴次郎{杖助兼(けんじょうすけかね)という者がいた。優れた武者で、常に軍の先頭に立って戦った。将軍義家は、この武功に感じて「薄金」という名の鎧を着せるほどであった。金澤の柵の岸の近くに攻め寄せた時、矢が飛んできて、助兼は首を振って身を前屈して、避けようとした。だが「薄金」の冑のみ打ち落とされてしまった。この冑が地に落ちた時、冑の本取りの紐が切れてしまって、どこかに消えてしまった。名品「薄金」の甲は、この時に消失したものである。助兼は、このことを、深く恥じ、悼(いた)みとしたのである。

9 義家大軍で金澤の柵を囲む
国司義家は、武衡が家衡軍に加わったことを聞いて、ますます怒り心頭に達した。国の政務に優先して、とにかく兵を調えて、武衡の加わった敵を攻略しようとした。春から夏に及んで休みなく出立し、秋九月に数万騎の軍勢を率いて、金澤の柵に終結した。

すでに軍勢が出立した日に、大三大夫(大宅)光任は、齢八十のために、この軍勢に加わらず、国府に止まった。すでに腰は、曲がって、将軍義家の手を取って涙を拭いながら、このように言った。歳を取るという事は、まったく哀しく情けないものだ。こうして生きているのに、今日お仕えする義家公が敵を平らげるために出立されるのに、見ることもできないのだ。」と言ったので、これを聞いた者は、みな「あの忠義の武者も寄る歳波には勝てないのだ」と哀れがって泣くのであった。

10 雁の乱れ
将軍の大軍勢は、すでに金澤の柵に到着した。その数は、雲霞(うんか)のように野山を覆い隠すほであった。そこに雁の一団が、斜めに雲の上を渡る様子が見られた。しかし雁は、陣をたちまちに崩して四方に散り散りに飛んだ。

将軍は、これを遠くにから見て、怪しく思い、かつ驚きてながら、兵たちを野に伏せさせた。案の定、草むらの中より、三十騎ばかりの敵兵が襲ってきたのであった。この敵兵たちは、あらかじめ、奇襲を仕掛けるべく隠れていた者たちであった。将軍の兵たちがこれに射掛けて敵兵を平らげてしまった。

義家朝臣が、以前に宇治殿に参じた時、安倍貞任を攻めた事など申し上げたことに、大江匡房卿が、これを聞いて「武者の器量はあるようだが、合戦の道(兵法)を知らぬようだな」と、一人言を仰ったのを、義家の家来たちがこれを聞いて、「我々の主人ほどの武者を、極端なことを言う老人だな」と思いながら、義家にそのことをそっと告げた。義家は、この話を聞いて「そんなこともあるだろう」と考えて、江師匡房卿の出るところに寄って行って、丁寧に会釈をした。その後、この卿に宛ててこんな文を送った。「この義家、もしもあなた様に、文の道を伺わなかったならば、きっと陸奥にて、武衡のために、戦に破らてしまったことでしょう。」と。これが「兵が野に伏している時には雁が面を破る(雁の乱れ)」という故事の由来である。

11 剛臆の座
義家は、「剛臆の座」というものを催した。ある日には、いかにも剛に見ゆる武者たちを一座に据え、臆病に見ゆる武者たちを一座に据えた。各自は何とかして臆病の座には着きたくないと励んで戦った。日ごとに剛の座に着く武者が多くなっていった。腰瀧口季方などは一度も「臆の座」に着くことはなかった。将軍義家は、片時ももこれを賞賛しないことはなかった。季方は、副大将義光が家来であった。将軍の家来たちの中に、特に臆病者と言われる者が五人あった。これを略頌(りゃくしょう:短詩形の詩歌)として作成した。鏑の音聞きたくないとして耳を塞ぐ剛の者は、「紀七」、「高七」、「宮藤王」、「腰瀧口」、「末史郎」の五人。末とは「末割惟弘」の事である。


奥州後三年記上 終



奥州後三年記中

1 秀武の申し出
吉彦秀武が、将軍義家にこのように申し述べた。「城中を固く防御し、義家殿の軍もすでに膠着状況に馴れてきているように拝見しております。この上は、かなりの力を尽くして攻撃されても、効果はありますまい。そこで、しばし戦いをせず、ただ遠巻きに守り通す覚悟でおります。食糧が尽きることがあれば、間違いなく、自らこの城は落ちるでしょう」と。

義家は、軍勢を遠巻きにして陣を張り、この金澤の柵(城)を取り巻いた。二方は将軍の兵たちがこれを取り巻いた。一方は弟の義光軍が取り巻いた。もう一方は清衡と重宗軍が取り巻いた。こうして日数を過ぎていって、武衡の配下に亀次、並次という二人の戦士(打手)がいた。配下の中でも抜群の兵(つわもの)であった。この者は「強打(こわうち)」と名付けられた。

武衡は使者を将軍の陣に送り、このように申し出た。
「戦いを休止して退屈で仕方ありません。わが方に亀次という「強打(こはうち)」という者がおります。どうぞ御覧ください。そちらからも、相応しい戦士(打手)を一人出して、戦わせたならば、退屈な時の慰めにもなると存じ上げますが、いかがでしょうか。」と。

2 戦士「鬼武」の強力
将軍は、戦いに出すべき戦士を探していると、次任の部下に「鬼武」という者があった。心は猛々しく身体の力量は危険なほどだ。この者を選んで出すことにした。

秀武方の亀次は、城中より、送り出されてきた。二人は、格闘場となる庭で向かい合った。敵味方双方の軍勢は、目を凝らしてこれを見守った。

双方の戦士の戦いは、すでに一時間が経過した。お互いに相手の隙を突こうとしたが、双方隙も見せず、この先にどちらかが隙を見せるようにも見えなかった。しばらくして、亀次が長刀の切っ先が、しきりに上がるように見えたが、その時、鬼武の長刀の切っ先が、甲冑を着ていた亀次を貫いて、崩れ落ちたのであった。

双方の軍勢から喚声が上がった。将軍は喜び勇んで、勝ち鬨の声は、天まで響くようであった。これを見て城内の兵士は、亀次の首を取られてはならないと、城内より、幾人かの騎馬武者が駈け出してきた。将軍方の兵士もまた、亀次の首を渡してはならないと言って、同じように駈け出して戦闘となった。両軍、右に左に交戦を続けた。

形勢は、将軍の兵士の数が多いこともあって、城内より下ってきた武衡軍の兵士は、ことごとく討ち取られてしまった。

末割惟弘は、臆病の「略頌」に記されたことを深く恥じ入り、「今日こそ私は臆病武者を返上する」と言って、大飯を喰らい酒を呑んで出陣し、言葉のように先を駈けて行ったのだが、かぶら矢が、首の骨に当たって即死した。射られた傷口から、食したはずの米が、姿も変わらず、辺りにこぼれ出していた。それを見た者は、みな「何と情けない最期か」と言い合った。

将軍は、この話を聞き、悲しんで言った。
「元来、切り通しではない人が、一度励んで先を駈けてみたところで、必ず死ぬということは、このようなことを言うのだ。そもそも喰らったものが、腹にまで達せず、喉に止まっているなど、臆病の者の証明だ」と。

3 千任の大演説
家衡の乳母に千任という者がいた。ある日、やぐらの上に立って、大声で城外の将軍にこのように言い放った。
「汝の父頼義が、どうしても安倍貞任、宗任を討ち果たすことができずに、名簿(みょうぶ=服属する時に目上の者に渡す名札のこと)をもって、故清原武則将軍と打ち合わせをして、はっきり言えば、その力によって、たまたま貞任を打ち破ることができたのである。恩を受け、徳を授かっているはずで、それをいづれの世にか、報いるべきではないか。ところが、汝は、すでに相伝の家人として、感謝に絶えない大恩のある主君を攻め立てているのである。この不忠不義の罪について、おそらく天道の責めを蒙るに違いあるまい。」と。

これに、義家方の多くの兵士が、各々唇を尖らせて、反論しようとするのを、将軍は制して言わせなかった。将軍が言うには、「もし千任を生捕にする者があれば、あのような者のために、命を捨てても惜しくないと、塵(ちり)や灰汁(あく)よりも自らの命を軽んじて生け捕りにせよ。」ということだった。

4 義光を叱る義家
城内では、食糧が尽きて、そこにいる男女は、みな嘆き悲しむことになった。武衡は、義光に使者を送って、降参の承諾を請い求めた。義光は、このことを兄の将軍義家に報告した。将軍は、これを敢えて許さなかった。武衡は、心遣いのある言葉をもって義光にこのように語った。
「わが君よ。申しわけありませんが、どうぞ城の中へ来てください。そのお供ができたならば、それでも助かります。」と。

義光が行くべきだと言うのを聞いて、将軍は弟義光を呼んで言った。
「昔から現在に至るまで、大将や次将が、敵に呼ばれて敵の中に入って行くことは、今以て聞いたことがない。お前が、もし武衡や家衡に取り込められるようなことがあれば、、私は、百回や千回悔いることになるかもしれない。何の意味もないことだ。そのことは、世の誹(そし)りを末代まで残し、きっと源氏の家名は、日本中であざけり笑われることを招いてしまうかもしれない。」と義光の提案をまったく受け付けなかった。

これによって義光は行かないでいると、武衡は、更に言ってきた。
「あなた様が来て下さらないのであれば、どなたか代理の方をお一人寄こしてはくださりませんか。その方に、こちらが考えていることを申し上げましょう。」と。

5 義光の代理人「季方」
そこで義光は、家来の中から、誰か行きたい者はないかと人選をした。すると、大方の者が季方こそその任に就くべきではないかなどの議論があって、季方を交渉に行かせることになった。その装束は、赤色の狩衣に、青に紋のない袴を履き、太刀を着けたものだった。城戸が、そっと開いて。季方ひとりが入ると、その周囲を敵の兵がまるで垣根のように立ち並び、弓や太刀や刀が、林のようにずらりと道を挟んで立て掛けてあった。

季方は、少し背筋を伸ばしてゆっくり中に入って行った。家の中に上がり待っていると、武衡は出迎えて大いに喜んだ。季方が近くに居るにもかかわらず、家衡は隠れて現れなかった。武衡は、「色々事情はあるとは思いますが、そこを曲げて助けて下さりませんか。兵衛殿(義光)にくれぐれも申し上げてください。」と言うと、金を沢山取ってきて渡した。

これに季方が言った。
「城中の財物は、今日戴かなくても、あなた方が落城されたならば、わが方の物になるのではありませんか。」
そう言って、季方は、受け取らなかった。
武衡は、奥より、大きな矢を持ってきて言った。
「これは誰の矢だと思いますか。この矢が来たように、必ず当たるのです。射られた者はみな息絶えてしまった。」と。

季方は、矢を見て言った。
「これは、私の矢です」と。
また立上がって言った。
「もし私を捕虜に取ろうと思うのであれば、只今、ここでどのようにもして下さい。城内を出る時に、たくさんの兵の中で、ともかく捕縛されることは、極めて悪いことだと思います。」と。

武衡は、それに答えて、「まさか、そんなことはあろうはずもありません。私が請い願うことは、ただただあなた様が、陣にお帰りになったならば、私の真意をよくよく義光殿に伝えていただくことだけです。」と申し添えるのであった。

季方は、入る時と同じように、兵の中を分け入って帰る時、太刀の束に手をかけて、少し笑みを浮かべ、何もなかったように、ゆっくり歩を進めたのであった。これ以後、季方の世間の評判は、ますます高くなった。

6 寒さに泣く義家軍
義家軍が、城を兵糧攻めに包囲して、ついに秋から冬となった。凍えるような寒さと冷気のため、みな凍えていた。各自が、悲しんで言った。
「去年のように大雪が降るのも、今日か明日のことだろう。もしも雪が降ったならば、凍え死んでしまうことは疑いない事実だ。自分の妻子たちは、国府に住んでいる。これから各自、どのようにして、京の都へ上る日がくるだろう。」と。

そして、兵らは、泣く泣く、手紙などをしたためた。
「われらは一丈の雪に埋もれて死のうとしている。これを使って路銀として。どうにかして、京に帰りなさい。」などと。そして自分が、着けていた大鎧を脱いで、乗っていた馬なども国府に送った。

7 義家城戸を出て来た女と子どもを惨殺す
武衡、家衡の立て籠もる城中では、飢が酷くなって、まず女性や子どもなどを、城戸を開いて出てきた。義家軍も、これをみな道を開けて通してやった。この様子を見て、城中の者は、喜んで、更に多くの者たちが、続々と城戸を出てきた。

ここで、秀武が将軍に、このように申し上げた。
「城戸から出てくる女、子どもの首を切りましょう。」と。
「何故、そのようなことを?」と義家が理由を問うと、
秀武が言うには、「目の前で殺されるのを見れば、残りの女、子どもも出てくることはでしょう。そうなれば、城中に残った食料もその分早く尽きることになります。すでに雪の季節になったので、夜となく昼となく、何があるか分からず、恐れているでしょう。

一時でも早く城が落ちることを願うのみです。今出てきている子や女子は、城中に籠城する兵士の愛妻や愛する子どもらです。この者たちが、城中にいたならば、自分ひとりが食事を取って、妻子に食わせぬ事はありますまい。だから、同じ時期にきっと餓死するはずです。そうすれば、城中の食糧は、随分早く尽きてなくなるはずです」と。

将軍は、この話を聞て、「なるほどもっともだ。」と言って、城から出て来た女性や子どもなどを、全員目の前で殺害してしまった。これを見て、武衡軍は、固く城戸を閉じ、続いて下ってくる者はなかった。


奥州後三年記中 終


奥州後三年記下

1 金澤の柵落城する
藤原資道は、将軍の特に親しい家来である。齢わずか十三歳にして、将軍の陣中にあって、夜昼と離れることはない。夜半に、将軍資道を起こして言った。
「武衡、家衡、喜んで落城するだろう。凍えている敵兵たちが、それぞれもぐり込んでいる仮屋に、火を付けて、凍えた手を炙(あぶ)ればよい。」と。

資道は、この作戦を執行した。人は、どうなることだろう、と怪しく思ったけれども、将軍の言い付けのままに、仮屋に、次々と火を付けて、各々手を炙っていると、事実、次の日の夜明けの頃、何と落城したのである。人は、これを神のなせる技と思った。確かに、すでに寒の入りの頃合いになったといえども、天が将軍の志しを助けたのではなかろうか。。その日に限って、雪は何故か降らず、武衡家衡の城内の食糧は。ことごとく無くなって、、寛治五年(1092)十一月十四日の夜。金澤の柵は、ついに落城したのである。

2 落城の地獄
城内の家屋にすべてに火を放ち、畑の中に呻き叫び合う声は、まさに阿鼻叫喚の地獄のようであった。城内の者たちは、四方八方に蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っていた。将軍の殺戮から逃れられる者は、千万に一人の有様。武衡も逃げたはいいが、城内の池があったところに飛込んで、水に沈んで顔を草むらに隠していたところを、兵士たちは、先を争ってこれを探した。ついに見つかり、池から引き出されて生け捕りにされた。

千任も同じように、生きたまま捕虜となった。家衡は、花柑子(はなこうじ)と呼ばれる馬を持っていた。この馬は奥六郡一の名馬であった。家衡がこの馬を愛でること、妻子を上回るほどであったが、逃げた後に、馬が敵に取られてしまうことを、妬ましいことだと思って、繋いでいるところを、自ら射殺してしまった。

その後、家衡は、下郎の格好に姿を変えて、少しの間ではあったが、逃げ伸びたのであった。城中の美しい女たちは、兵士たちが争って取って、陣内の奥で乱暴された。男の首は鉾に刺されて先を行けば、女たちは涙を流しながら、その後を続き歩いて行くのであった。

3 武衡の処分
将軍は、生け捕りにした武衡を御前に召し出し、自らで尋問に及んだ。
「戦において、軍の動勢を背景に敵軍を攻略するのは、今も昔もなく、当り前のことである。先の戦(前九年の役)で武則でも、太政官符の命令によって、あるいは将軍との談議によって、国府軍に加わったものである。

ところが、先日、そなたの家臣の千任丸にどなたが教えたのかは不明だか、名簿が存在するようなことを申したな。その名簿とやら、そなたの家に伝わっているのなら、速やかに、ここに取ってきて出してみよ。

先の武則は、夷(えびす)の賤しき名を持ちながら、ありがたくも鎮守府将軍を拝命した。それははっきり言えば、鎮守府将軍の名を汚す前代未聞の異例の人事であった。

それもこれも先の将軍わが父頼義の口添えにて実現したことである。これ以上の功労の報いなどあろうか。それをそなたたちは、少しも功労などない身の上でありながら、謀反を起こした。

いつどこで、この私が、そなたたちから助けを受けたというのか。ところが、千任丸は、先頃大声で「重恩の主」とそなたのことを名乗り、私をその「家人」と罵倒した。その思いはいったいどうなっているのか。しっかりと考えを説明してみよ。」と。

武衡は頭を地につけ、敢て目を上げず、涙声で、「一日だけ命の猶予をいただきたい」と言った。

義家は、兼仗大宅光房に命じて、その首を斬せた。武衡が斬首されようとする時。副将軍の義光が兄義家に向かって言った。
「兵衛殿(義家)どうか武衡を助けてください。」

義光は続けてこう言った。
「武士の道(兵の道)とは、降人(降参した者)を寛大に扱うのは、古今の例です。その中にあって、武衡一人を何の配慮もなく、首を斬ることは、いかがでしょうか。」

義家は、怒りを隠さす義光に向かって爪を弾きながら言った。
「降人とのは、いったん戦場を逃れて、追っ手の手に掛からず、その後、自分の罪科(つみとが)を悔い、自首してくることをいうのだ。いわゆる宗任らのような行為をいうのだ。ところが武衡は、戦場において生け捕りにされた者だ。その上、不作法にも、片時の命を惜しむとは、このような者を降人というべきではない。そなたは武士の礼法をまったくわきまえていないのだ。」と。

そして武衡はついに斬られた。

4 千任丸の舌
次ぎに、千任丸が召し出された。
義家は言った。
「先日、矢倉の上で言ったことを、今、もう一度言ってみろ。」

千任は、頭を垂れて何も言わなかった。
「その者の舌を切れ」と義家は命じた。

すると、源直という者が、千任に近寄って、手でその舌を引出そうとした。
義家は、激怒しながら、
「虎の口に手を入れるのは、愚かなことだ。」と言って、源直を追い払った。特に力自慢の兵を幾人か呼び寄せ、その中からとっておきの猛者を選んだ。その者に焼けた鉄を掴む金ばさみを取らせ、舌を挟んで抜くように命じた。ところが、千任は歯を食いしばって口を開こうとしない。猛者は、金ばさみで歯を突き破り、ついにその舌を引き出し、これを切ってしまった。

千任の舌を切り終わると、縛り上げて、木の枝につり下げ、足を地に着かない程にして、その足の下に、武衡の首を置いた。千任は、泣きながら足を縮めて、何とか主人の首を踏まないように我慢をした。しかししばらくして、力尽き、足を下げて、ついに主人武衡の首を踏んでしまったのであった。

5 家衡の最期
将軍義家は、この様子を見て、家来たちに言った。
「二年の愁眉(しゅうび)が、たった今開けた。それでも猶、心残りは、家衡の首をみないことだ。」と。

金澤の柵を見れば、城中の家屋という家屋は、一瞬にして焼け落ちて滅び去った。戦場となった城内を見れば、至るところに人や馬が麻布が解かれたように散乱している。

縣小次郎次任という者がいた。当国において名高い武者である。この者が、城中から逃れてようとする者を道を封鎖して固め、次々と捕まえた。その中に家衡もいた。家衡は、何とか逃げようとして下郎の格好に身を落としていたが、次任がこれを見破って討ち殺して、その首を斬って将軍の前に参上した。

6 義家の挫折
将軍義家は、これを聞いて、喜びが骨を徹(とお)して伝わるようであった。次任を近くに呼んで、自ら紅の絹を取って、これを次任に掛け、労をねぎらった。また上等の馬一疋に鞍を着けて与えた。

「家衡の首を持ってまいれ」と次任が大声で言った。
義家は、あまりの嬉しさに、「誰が持って来るのか?」と待ち遠し気に言った。

すると次任の家来が家衡が首を鋒(はち)に刺して持ってきて、義家の前に跪き言った。
「これはわが縣殿の手づくりでございます。」と。
義家は「大変すばらしい」と誉めた。

陸奥国では、自らで仕上げることを「手づくり」というのである。

次ぎに次任の家来たちは、武衡と家衡の家来の中で主だった兵四十八人の首を将軍の前に差し出したのであった。


さて将軍義家は、国解(こくげ=太政官への報告書)を次のように書いて都に送った。
「清原武衡及び同家衡の謀反は、すでに安倍貞任、同宗任の罪科を過ぎたものでございましたが、私と国府の総力をもって、この賊軍をたちまち平定することができました。この上は、いち早く、追討の官符(=太政官からの命令書)を賜って、その賊徒の首を京に持参いたしたいと申し上げます。」と。

ところが、この義家の願いも虚しく、太政官の間では「私の敵を倒した」に過ぎないとの認識が拡がっていると聞こえてきた。太政官の立場に立てば、もしも義家に官符を与えたならば、勧賞(かんしょう=官位や物品などの褒美)を要求されることになり、それによって官符は発行されなかったと思われる。義家は、官符が出されないとの決定が下ったことを聞いて、武衡と家衡の首を道に捨てて、むなしく上京するのであった・・・。
 

奥州後三年記下終

此記不知何人作也。備史君平宰相忠雄卿。所蔵本國記三巻。上巻土御門文殿寄人仲直。中巻持明院左少将保脩。 下巻世尊寺従三位行忠。各寫其詞為。圖則晝工飛騨守惟久筆也。予得偶見尤欣賞寫而留為。其間假字遣等一随其本。眞字以眞字寫假字以假字寫不更一字。而又一 梭了須為證本也。然彼以假字交艸行字。此以片假字交眞字。唯是之喚耳。

此記詞簡古而理較著。人僉曰平家物語下。出太平記上。予於此記亦云出平家上。然只讀至抜千任之舌蹈武衡之頭。暴刑有害道義。所不満于予心也。

此記巻首奮本己脱。惜矣史之關文也。而今欲補難獲它本。姑竢異日洽聞之士之為焉云爾。



2012年6月11日〜   佐藤弘弥

奥州デジタル文庫

義経伝説