寓話 泣き虫源太

 
 
 
今日は、一つの寓話を通して、人間の弱さについて考えてみようと思う。
                                                                 
昔、あるところに、泣き虫源太という子供がいた。余りにも泣き虫なものだから、学校にもいけない。両親が困ってしまい、それではお寺の僧侶にでも預けては、ということになった。寺にでも入れば、何とか普通の生活ができるようになるのではとの、両親の願いを聞いた住職は、これも何かの縁と、泣き虫源太を引き受けることにした。

案の定、両親に手を引かれて来ると、既に源太は、目を真っ赤にして泣きはらしている。住職の前では、両親の後ろに隠れて、挨拶しようとしない。きっと両親が自分をこの寺に捨てて帰ってしまうのだろう、と考えると、悲しくて悲しくて涙が止まらないのである。

そこで住職は、「これ源太、何がそんなに悲しいのだ」と聞いた。

すると源太は「ええーん」と大きな鳴き声で答えた。

あわてた両親は、「これ源太、お坊さまの前で、そのように泣くものではないぞ」といさめた。すると源太は、ますます大声で「ええーん」とやった。

その鳴き声の大きさに、住職は思わず、「いい声だね。この子はいい教を読むようになるぞ。実にいい」と笑顔で云った。

これまで泣き声でほめられたことなどない源太は、きょとんとした。源太にとって泣くことは、ニワトリが、朝になって、コケコッコーとやるようなものだった。泣くなと言われれば、ますます大声で泣いてしまう自分をどうしようもなく思っていた。

 「ええーん」と散々泣いた源太だったが、誰も止める者がいない。普通なら、優しい母親が、

「これ源ちゃん、もういいでしょう。何が欲しいの?」と聞いてくれるところだが、今日に限っては、一向に泣いている自分を止めてくれる様子はない。それもそのはず、両親が、恥ずかしそうに、源太に何かを云おうとするのを、住職が笑みを浮かべながら制止しているのである。その不思議な雰囲気を感じ取った源太が、恐る恐る両親の肩越しに、住職の方をのぞくと、住職は、ただただ柔和な顔で笑っているばかりであった。もう住職はさっきの「何故泣くのだ」という質問を
忘れているようだった。泣くことの無意味を感じながら、源太の心の中で「何故この人は、笑っているのだろう」という素朴な疑問が浮かんできた。

すると住職は「あれ、源太よ、もう泣くのは、飽きたのか、エエーンは終わりか?聞きたいのう、もっと聞きたいのう…」とやった。聞きたいのは源太の方だった。「何故この人は、笑っているばかりで、ちっとも自分が泣いていることに反応してくれないのだろう」そして思わず源太が大きな声でこう云った。

「坊さん何が可笑しいの?」

しかし住職は、その源太の質問に答えるでもなく、ますます大きな声で笑い始めた。

「何がそんなに可笑しいの?」源太は、半分意地になっていた。

住職は、散々笑い通した後、「源太よ、お前はいい坊主になるぞ、お前のような坊主を待っていた。よく来たのう」と云った。

それから寺に預けられた源太は、まるっきり人が変わったようになって仏道に励んだ。源太は、朝の掃き掃除から、座禅修業まで、とにかく一身で勤め上げた。源太の朝の読経は、評判となり、界隈から多くの人が源太の声を聞きに集まるようになった。そして恩人である住職から源宣(げんせん)という法名もいただいた。こうして泣き虫源太は、住職の信任を得て、この住職より寺を引き継ぐこととなった。

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さてこの話をあなたはどのように考えるであろう。泣き虫の源太の人間性を変えたのは、両親か、住職か、自分自身か?私が考えるに、自分を変えたのは源太自身である。住職との出会いは、きっかけに過ぎない。誰にもこれと似たきっかけは、何度か訪れる。それをものにするか、しないかは、あくまで個人の問題だ。住職がやったこととは、泣き虫源太の心の中に光輝く部分があることを、源太に悟らせてやったことだけである。弱い自分に克ったのは、源太自身の強き心ではないか。

人間には、精神的に、強い人間と弱い人間というものがいる。少なくても世間は、このように人を大別しがちだ。しかしこの考え方は、間違いかもしれない。人生に対する目標を明確化し、自分を弱いと決めつける早合点から解放されれば、人は、誰も源太のように強くなれるはずである。佐藤
 



 

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1999.2.15