峠三吉の原爆詩をブッシュに


また8月6日が来た。57回目の原爆の日だ。あの日、真っ青に晴れ渡っていた広島の空に、閃光が走り、人類は原爆というものの威力の凄まじさをまざまざと知った。あの日、生まれたての赤ん坊は、何も知らずに、劫火に焼かれて死んだ。あの日、まだ学校も行けない小さな子は、焼けただれた皮膚を押さえて泣きながら、倒れた母の乳房にすがって出ないお乳を必死で吸おうとした。瞬時に亡くなった人の数はいったいどれほどなのか、いまでも正確には分からないという。いったい幼い子たちが、どんな罪を犯したというのか。その日、1945年8月6日のこの惨劇を誰が忘れようか。そんなことを思っていると、私の心の中に、再びあの惨劇の中で、現れたひとりの原爆詩人の姿が浮かんだ。

その人の名は、峠三吉。爆心地から3キロの地点で被爆した彼は、辛うじて命を取り留め、国立療養所に入院した。別に彼は、初めから詩人になろうとした人物ではない。自分の中にある止むに止まれる思いを綴った時、それが詩となり、人々の心を激しく揺り動かしたのである。

彼が詩を書くきっかけは、昭和26年のある日、アメリカのトルーマン大統領が、朝鮮戦争において、再び原爆の使用を示唆する発言をしたことだった。突如として病棟のベットから起きあがった彼は、原爆の悲惨を全世界に知らせようと、一念発起した。すると熱にうなされるように彼は、身の毛もよだつような凄まじい詩を次々と発表していった。彼のことをまるで劫火に焼かれて亡くなった人々の声が彼を後押ししたようだと語った人もいる。でも彼は原爆という究極の兵器がもたらした悲劇を包み隠さず綴っただけだ。原爆という兵器が、これほどの威力を持ち、人間の尊厳を奪い去る恐怖の大王であることを世界のどれほどの人が知っているだろうか。峠三吉は、まるで自らの良心の声を絞り出すようにして、ただ黙々と詩を書いたのだ。その中にこんな詩がある。
 
 

呼びかけ」 峠三吉

いまでもおそくはない
あなたのほんとうの力をふるい起すのはおそくはない
あの日、網膜を灼く閃光につらぬかれた心の痛手から
したたりやまぬ涙をあなたがもつなら
いまもその裂目から、どくどくと戦争を呪う血膿をしたたらせる
ひろしまの体臭をあなたがもつなら
焔の迫ったおも屋の下から
両手を出してもがく妹を捨て
焦げた衣服のきれはしで恥部をおおうこともなく
赤むけの両腕をむねにたらし
火をふくんだ裸足でよろよろと
照り返す瓦礫の沙漠を
なぐさめられることのない旅にさまよい出た
ほんとうのあなたが

その異形の腕をたかくさしのべ
おなじ多くの腕とともに
また墜ちかかろうとする
呪いの太陽を支えるのは
いまからでもおそくはない

戦争を厭いながらたたずむ
すべての優しい人々の涙腺を
死の烙印をせおうあなたの背中で塞ぎ
おずおずとたれたその手を
あなたの赤むけの両掌で
しっかりと握りあわせるのは
さあ
いまでもおそくはない

峠三吉の偉さは、敬服に値する。何故ならば、彼ら被爆者にとっては、もう遅いのである。一家が亡くなったケースもある。それでも彼は「いまでもおそくはない」と言い切った。それは被爆者としての自分の私憤を越えて、このような悲惨な惨劇を二度と繰り返してはならない、という強烈な願いであった。この詩を書く時点で、もうとっくに峠三吉は、自分のことなんて捨てている。そんな気がする。そんなことより、今生きている人々、そしてこれから生まれて来るであろう人々が、戦争というものに善良に暮らすべき権利を奪われて、生きることにならないようにしたい、との願いが、詩の端々からひしひしと伝わってくる。きっとこれは彼の魂の奥底から湧いて来るものであろう。この感覚は、人間の精神の最も崇高な理念であると思う。カソリックには多くの聖人が時代を超えて出現しているが、彼らに共通する崇高な精神性が、この詩を書く峠三吉にも働いているのを感じて、読む度に目頭がどうしても熱くなってしまうのだ。

さて今また、アメリカのブッシュ大統領は、軍拡路線をまっしぐらに突き進んで、核なき核戦争とも言われる近代兵器を駆使しながら、近々既に経済封鎖によって、赤子同然となった国家のイラクを攻撃するとの噂が流されている。是非、峠三吉の詩を彼に送りたいものだ。ブッシュ大統領。けっして「いまでもおそくはない」のだ。戦争を止める術はある。何故って、それは戦争で最後に泣くのは、善良な何も知らない市民とりわけ、幼気(いたいけ)な子供ではないか・・・。佐藤
 

いまでもおそくない、という峠三吉の詩、核ボタンつまむブッシュに送る

 


2002.8.6
 

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