源義経の幻想


プロローグ(桜と日本人)

花と言えば桜、それほど日本人にとって桜は特別な花である。何故、日本人が、桜という花を好きなのか?この疑問には、様々な説があるが、やはり答としてまず脳裏に浮ぶのは、「散り際の見事さ」ということに尽きる気がする。

確かに桜の花は、あっという間に咲き、そしてもう少し見ていたい、という人の心を余所に、儚く散ってしまうのである。その散り際の見事さはたとえようもなく艶やかで、比べるものがないほど妖しく美しい。おそらく日本人は、その桜の花そのものの美しさというよりは、桜という花が散る際に見せる風情にこそ、「もののあはれ」を感じているのであろう。

花咲けば心は急きて落ち着かず夜も日も飽かず眺めていたき

 

1 運命の子、義経

「永訣の月」という絵画に描かれた人物は、源義経という武将である。源義経は、日本人の中でもっとも人気のある人物で、平家物語や義経記などの文学、あるいは能や歌舞伎のような芸能の題材としても、繰り返し取り上げられてきた。彼の人気の秘密は、やはり桜と同じで、その散り際の見事さにあると言われている。

義経は、平治元年(1159)に、源義朝を父とし、常磐御前を母として、京都に生まれた。その中で源氏と平氏は、地方に荘園と呼ばれる所領を持ち急速に勢力を拡大しつつあった。父の義朝は、源氏の頭領として、平氏の平清盛という人物と共に、京都における貴族政治の中枢に食い込んでいた。ところが、利害の対立からライバル平清盛との間で「平治の乱」という戦が起こり、敗れてしまう。この時、幼名を牛若といった義経は僅か二才の乳飲み子であった。

義経の母は、常磐御前と呼ばれ、京の都でも絶世の美女として知られていた女性だった。彼女は、義朝との間になした三人の子を連れて、京都から奈良の国へと雪の中を逃亡するのである。末子の牛若は、母のか細き腕に抱かれての逃避行であった。しかし常磐の耳に、彼女の実母が、人質として、捕らえられたことが告げられた。すると彼女は、死を覚悟して、三人の幼子と共に、平清盛の許に向かう。

その後のことはよく分かっていない。美しい常磐の姿に恋した清盛が、常磐が愛妾となることで、三人の子らの命を救ったという話もあれば、いや清盛はそのような賤しい人物ではない。健気な常磐を哀れに思って、藤原長成という貴族の妻として世話をしたのだ、という考え方もある。

ともかく、世は平氏の時代となり、「平氏にあらずば人にあらず」という言葉が残されているほどとなった。その中で、義経は、京都という政権の中枢の地で、いつしか八才(あるいは十一才)になった。名のある武将の血は如何ともしがたく、母常磐は、日増しに逞しく成長する牛若のことを気遣った。何故なら、もしも牛若が、仇としての平清盛に打倒の存念を持つようになり、それが伝わってしまえば、おそらく牛若の命は風前の灯となってしまうのである。
 

2 義経と奥州平泉

牛若は鞍馬寺で寺の僧侶から学問と武芸を学ぶ。盛んに出家して僧侶になることを周囲から進められるが、それを拒み自らが反逆者となって亡くなった父義朝の無念を晴らそうとの思いが強く湧くようになる。そこで彼は、黄金の都と呼ばれた奥州平泉と京都の間を行き来していた金商人の金売吉次という人物に、奥州平泉の頭領の藤原秀衡の許に連れていくように懇願する。この時、義経は十五才となっていた。奥州の旅の途中で十六才になった牛若は、幼名の牛若のままでは恥ずかしいと、自分で名を「源九郎義経」と名乗る。この辺りに義経という人物の強靱な自意識というかアイデンティティのようなものを感じることができる。

奥州平泉において、義経は歓待を受ける。平泉という都は当時、人口二十万とも言われるような北方の大都市で、潤沢に出る黄金を経済的基盤として、中尊寺の金色堂に代表されるような黄金の文化を誇っていた。秀衡は、奥州藤原氏の三代目に当たる人物で、政治家として、京都の帝(みかど)や貴族からも一目を置かれる大人物であった。平泉には、そのようなこともあって、当代一流の建築家から彫刻家(仏師)などが集まっていた。秀衡には、源義経という貴種の人物を奥州政権中心に据えて、京都の政権に対抗する思いがあったとの噂もある。
 

3 鎌倉の兄頼朝

義経には腹違いの兄がいた。名を源頼朝という。歳は義経より十二年長で、熱田神宮の宮司藤原季範の娘が母であった。父義朝が亡くなった時、十二才であり、本来ならば平清盛によって、殺害されるところであったが、清盛の母の懇願により、伊東に配流されることになり難を逃れていた。これも清盛という人物の心の広さということを示すエピソードかもしれない。伊東は関東の目と鼻の先である。関東には、当時都から土着した平氏や源氏の嫡流を名乗る武将たちが、荘園を拡大して一大勢力を為していた。源義朝の嫡男としての頼朝は、まさに貴種であり、関東の武将たちの束ねる上で格好の旗印となり得る存在であった。そこで政治的手腕を発揮した頼朝は、関東の武将たちの利害を束ねることで、父の宿敵打倒平清盛を掲げてに立ち上がったのである。時に治承四年(1180)八月十七日のことであった。

「頼朝立つ」の知らせは、義経がいる奥州平泉にも届けられた。幼い頃から、父の無念の思いを濯(すす)ごうと考えていた義経の心は、一瞬にして異様な興奮状態に陥った。奥州の頭領藤原秀衡は、義経をして京都や関東に勝る政治国家の樹立を夢見ていたので、兄の許に馳せ参じようとする義経を何とかして引き留めようとした。しかし兄を助けたいとの義経の決意は動かない。その思いの深さに打たれた秀衡は、佐藤継信、忠信という優れた武将ら八十騎ばかりをつけて、頼朝の許に送り出すのである。この時、義経は、二十二才の若者であったが、既に女子の父親となっていた。
 

4 義経の天才と天才の運命

治承四年(1180)十月二十一日。奥州を旅立った義経は兄の頼朝に会う。黄瀬川(現在の静岡県沼津市)という場所である。その後、義経は鎌倉に三年ほど滞在した後、戦の天才としての本領を発揮し、寿永三(1185)一月二十一日木曽義仲を破り京都に入ると、馬に乗って崖を一気に下り敵の背後を攻めるという奇襲によって、平家軍を打ち破ると、翌年二月十七日には、四国の八島に逃げた平氏の一門を追って、暴風の波に乗り、百騎にも満たない僅かな兵と共に阿波に向かい、奇策を用いて、二月十九日には、これを打ち破ってしまう。いよいよとなった平氏は、壇ノ浦に活路を見出すべき、背水の陣で戦うのであるが、義経の八艘飛びと言われるような活躍もあって、あっさりと南海の藻くずとなって滅びてしまうのである。

余りの勢いである。僅か二年の間に、「平氏にあらねば人にあらず」と言われるほどの隆盛を極めた平氏は滅んでしまった。この義経の軍事的成功は、隆盛の時の、ナポレオンも叶わないほどの勢いがった。しかし時は皮肉である。義経の成功は、周囲の人間に別の不安をもたらした。もちろんやっかみもあろう。天才というものは往々にして、凡庸な人間の心を読めずに、足を引っ張られたりするものであるが、彼の場合も同じであった。彼の下に付いた頼朝の家臣の梶原景時という人物が、「義経の行動の数々に問題あり」と鎌倉にあって指示を出す平氏打倒の総大将である頼朝に書き送っていたのである。また義経の鬼神の如き活躍も頼朝にとっては脅威だったかもしれない。

その義経の軍事的天才に目を付けた中に、後白河法皇という傑物がいた。非常に政治的手腕に長けた人物で、この義経の強さをもって、これを鎌倉の頼朝の作ろうとしている権力を牽制しようと計ったのである。しかしながら、義経は極めて政治的には純朴な人物で、後白河法皇が与えるという官位(「左衛門少尉検非違使」)を兄頼朝の許可なく受けてしまう。怒った頼朝は、平氏追討の最大の功労者義経を鎌倉に入れないのである。それどころか徹底的に排斥し、彼が謀反を起こせというばかりにいたぶるのである。
 

5 逃亡者義経と「静」との別れ

そしてついにこの源義経は、逃亡者となる。もはや誰も頼るものがなくなった時、義経の脳裏に映った人物がいた。それは奥州平泉の藤原秀衡であった。義経は、はっとした。父とも慕う秀衡が何故引き留めようとしたのか、彼の思いがはじめて分かるような気がした。

結局、すべてを捨て、義経は僅か十名足らずの手勢を引き連れて、雪の降る吉野の山を遙かに遠い奥州を目指して落ちのびて行くのである。その時に悲しい別れがあった。義経が生涯最も愛した女性「静」との別れである。「静」は、白拍子と呼ばれる舞を職業とする女性で、美しい女性として知られている。彼女は後に、追っ手に捕縛され、鎌倉に送られる。その時、妊娠していた「静」は、義経を逃亡を助けようと次々と虚言を吐く、挙げ句の果ては、頼朝の前で、舞を舞わせられるのであるが、義経を慕う歌を口ずさみながら、舞を舞うという気丈な女性であった。しかし彼女が生んだ義経の息子は、生んで間もなく、頼朝によって殺害され、近くの浜に捨てられたと伝えられている。
 

6 藤原秀衡の戦略と義経

義経一行は、極寒の北陸道を北へと向かう。奥州には、父とも慕う奥州の覇者藤原秀衡が待っている。兄頼朝が、異母弟の義経をこれほど執拗に排除しようと画策する理由は、様々に言われているが、やはり義経の背後に、奥州に二十万とも言われる平泉という大都をした人物藤原秀衡の政治力というものを見ているからに他ならない。おそらく秀衡が、一声を掛けたならば、奥州三十万の兵が、一挙に白河の関を越えて関東になだれ込んで来ることだって十分に考えられる。事実、秀衡が奥州を発したという噂が、当時からあったことは、正史「吾妻鏡」にも記載されている。

しかし元来が、秀衡の思想の根源には、頼朝の考えるような好戦的な奥州の侍のイメージではなく、仏教思想の根源にある生きとし生きる者を憐れみ、命を大切にするという平和の思想があったように思われる。彼の中で浮かんでいたことは、奥州を浄土とすることである。その中心が中尊寺の金色堂に象徴される平泉という都だった。

秀衡が、建てた寺に無量光院という御堂がある。今は焼失してしまっているが、宇治の平等院を少し大きくしたような建物であるが、これは祖父清衡の中尊寺や父基衡の毛越寺と比べると、いかにも慎ましい風情の御堂である。通常であれば、もっと祖父や父に対抗心を燃やして豪壮な大伽藍群を構想してもよさそうなものだが、彼はここに自らで、狩りをして鳥獣を殺傷する図を描いたと言われる。これは一種の戒めであったろう。四十年に及ぶような悲惨な奥州における戦争が終えてほど百年が経ち、秀衡は平和というものの尊さを、つくづくと感じていたに違いない。秀衡は、深く仏教の思想に帰依し、奥州に「楽土」といわれるような平和の国を造ろうとしていた。やがて日本に古代から続いた貴族政治が終りを告げて、武士の時代になることは大政治家だった秀衡ははっきりと感じていたはずだ。

奥州の平和をいかに保つか。それはおそらく帝を置く京都と関東の鎌倉そして奥州平泉の三つの都市が並び立つようなヴィジョンではなかったか。三国志の中の諸葛孔明(しょかつこうめい:181-234)の「天下三分の計」ではないが、平泉という政治都市が、京都、鎌倉と並び立つ為にも、その政治権力の中心に貴種としての「源義経」が必要だったのかもしれない。しかも義経には、平氏をあっという間に打ち破るほどの天才の閃きが宿っている。その義経は、今や頼朝の捕縛の標的となって、必死で奥州に向かっている。秀衡の心は、気が気ではなかっただろう。義経という人物の存在が、奥州が新しい武士の時代に生き残って行けるかどうか、その命運が掛かっているのだから・・・。

京都の貴族は、頼朝に親しみを感じる者と、義経とその背後にいる秀衡に親しみを感じる二派に分かれていた。もちろんどちらにも付かずに、勢いを見定めてからというものもいた。でもどちらかといえば、地政学的に、京都に近い鎌倉が、優位にあることは明らかだった。それに好戦的な関東武者は、仮にも平氏を滅ぼして、勢いに乗っている。早い話が戦争馴れということである。皮肉なことだが、源平の戦も、戦の天才義経が存在しなければ、このように簡単に決着はついていなかったhずだ。その最大の殊勲者が追われているのだから、歴史というものは分からない。一方、秀衡率いる奥州では、父基衡の時代に、相続をめぐる内紛以外に奥州は戦というようなものは起こらなかった。兵力の数では、関東勢と遜色がないとしても、実戦経験の差というものは如何ともしがたい。その意味でも、秀衡は、義経の到着というものを一日千秋の思いで、待っていたに違いない。
 

7 西行と義経の接点

義経が吉野山中に静と別れ姿を消してからほぼ一年後の文治二年(1186)の十月から文治三年一月(1187)の頃に掛けて、義経は秀衡の待つ、平泉に入ったと思われる。この頃、盛んに義経奥州に下るとの噂が上り、鎌倉に居る頼朝が正式にこの噂を事実として確認したのは、同年三月五日であった。不思議なことであるが、この時期というものは、あの日本中を流浪の旅をしながら、人生の深い歌を詠んだ歌人西行の奥州行きと機を一にしている。それを以て西行は、頼朝の間者のような役割を担っていたと、根拠のない話を言う人がいるが、とんでも無い話だ。その時、西行の年齢は、七十才に手が届く年齢である。

西行は、名を佐藤義清(のりきよ:1118−1190)と言い、「将門の乱」(939年)を起こした「平将門」を打ち破った藤原秀郷(生没年未詳)の九代の後胤に当たる。奥州の覇者となった藤原秀衡も、また秀郷の流れをくむ人物である。二人は、歳格好も近く、人生観も似ていたと推測される。西行は、代々武勇の家に生まれ、弓馬(兵法)の道に長けた人物として京都の院の警護などをする将来を嘱望された武者(北面の武士という)であった。しかし二十三才の時に、突如として、妻子を捨てて出家する。原因は思うところがあって、と言われているが、詳にはなっていない。その後、西行は、秀衡の居る奥州に旅をした。そこでどのような暮らしをしたかは不明だが、平泉の奥の山里に草庵を結んだという跡が伝承として残されている。推測するに若い西行が、奥州に行った理由は、おそらく秀衡が、奥州藤原氏の御曹司として、京都に留学していた時代に、親戚筋の西行と面識があり、親しい関係にあったことが想定される。

最近になり、この説を裏付けるように、奥州藤原氏の京都大使館に当たる館(平泉第)を、現在の首途八幡神社や大報恩寺の周辺一帯ではないか、という角田文衛氏の研究もあり、奥州藤原氏が、京都の御所に近い所に、広大な土地を所有していたのではと言われるようになってきた。確かに、秀衡が建てた「無量光院」が「宇治の平等院」をベースにしているのも、若き秀衡が見た「鳳凰堂」のイメージを平泉にも建てたいと考えたのであれば、自然に受け入れられる。

この時の西行の奥州行は、焼失した東大寺の大仏を再建するための、砂金の調達と歴史では伝えられてきた。でも、そんな表の理由とは別に、竹馬の友としての秀衡率いる奥州の危機を何とかしたいと思い立ち、老い行く己の身上も考えずに、奥州に向かったという説も十二分に成り立つ種々の条件が整っている。そうすると頼朝と会った鎌倉でのエピソードが余計に現実味を帯びてくる。つまり西行が鎌倉に立ちより、頼朝と会ったのは、秀衡のために頼朝という人物の器と奥州に対する政治的野望を見抜くためにあったということである。

ともかく、西行はという人物が、義経と同じ時期にかけて、奥州平泉に居たことは事実であり、そうすると西行と義経が実は出会い、何かを語り合ったという限りない歴史のロマンが現実の事として浮かび上がってくるではないか。
 

8 西行の歌に込められた義経(?!)

西行の山家集の中に、長い詞書(ことばがき)が添えられた不思議な歌がある。
 

十月十二日、平泉にまかりつきたりけるに、雪ふり、嵐はげしく、ことの外に荒れたりけり。いつしか衣河見まほしくて、まかりむかひて見けり。河の岸に着きて、衣河の城しまはしたる、ことがらやうかはりて、ものを見るここちしけり。汀氷りてとりわきさびしければ

 とりわきて心もしみてさえぞ渡る衣河見にきたる今日しも

(訳:10月12日に、平泉に到着することができたのであったが、その日は、雪が降り、嵐は激しく、とんでもなく荒れた一日であった。さっそく衣河を見たくなって、行ってみたのであったが、岸辺に立ち、衣河の館を見渡して見れば、周囲の情景は大きく変わって、「もののあはれ」を見せられた心地がした。中でも岸辺は凍りつき、とりわけ寂しかったので、”ああ衣川よ。今日は心に沁みるほど冷える一日であることだなあ、でも私はこの衣川の情景が見たかったのだ”)


さてこの「衣河の城」と西行が表現したことに注目したい。一般に衣河の城と言えば、吾妻鏡で、「衣河館」と呼ばれていた藤原基成の居館指すと思われるが、そこは頼朝の執拗な捕縛の手を逃れて奥州平泉に着いた源義経が居を構えた場所である。異論が出るとすれば、「衣河の城」というのは、基成の居館ではなく、衣川の中州にある「泉ケ城」を指すのでないか、ということであろう。しかし西行が詞書の中で「まかり向かいて」と謙譲語を使った所をみると、やはりそこには「藤原基成」なり「源義経」が居るという前提を持って、このような言葉を使用したと考えられる。

何故、西行が、このように10月12日(文治二年:1186)と明確な日付を入れたかと言えば、この日が西行の生涯の中でもとりわけ忘れられない一日であったからに他ならないであろう。この日は、鎌倉で頼朝と別れてから、二ヶ月の後にあたる。西行は鎌倉の動勢と頼朝という人物の本質をまず秀衡に伝えたはずだ。そうしている内に、西行と秀衡の会話は、どのように奥州を鎌倉の頼朝の野望から守るかという話になり、軍事の天才義経の戦略と戦術を聞くということになり、衣川の館に居る義経の許に向かったのではなかったかと思われる。

この西行の歌には、奥州平泉の置かれた微妙な立場というものが、実に良く歌に込められている。

次に西行は、このように詠んでいる。
 

陸奥の国にて、年の暮れによめる

 常よりも心ぼそくぞおもほゆる旅の空にて年の暮れぬる


次にはこのような歌がある。
 

奈良の僧、科のことによりて、あまたみちのくにへ遣はされたりしに、中尊寺と申すところにまかりあひて、都のものがたりすれば、涙ながす、いとあはれなり。「かかる事  は(あり)がたきことなり。いのちあらばものがたりにもせん」と申して、遠国述懐、といふことを詠み侍りし

 涙をば衣川にぞ流しつる古き都を思ひいでつつ

(訳:奈良の僧侶が、罪科によって、多く陸奥に送られたのであるが、中尊寺という所で会って、都の話などをすれば、涙を流すのであった。とてもかわいそうな気がした。私は「このような話は、実に稀少な話であり、命を永らえるのであれば、物語にでもしたいものですね」と言って、遠国の述懐ということを歌にしてみた。”その人は、遠く離れた奥州の地にあって生まれ育った古い都を思い出しながら、涙を衣川にポロポロと流すのであった”)


もちろんこの歌は、一般的に中尊寺の罪科を負った僧侶のことと解釈されてきたが、私はこの部分は、奈良の僧侶という形でカモフラージュしているが、罪科を負って、陸奥に居た人物は、実は源義経その人ではないかという仮説が十分に成り立つと思われる。まず第一に「かかることは(あり)がたきことなり」と西行が言っているのであるが、極ありふれた苦労話であれば、そのようなことは言うはずがない。おそらく強烈に印象深い話を聞いたはずである。おそらくは義経の生涯の様々な苦労三昧の話を聞いた西行が、「是非ともこの人物の生涯を、自分の力で物語にでも、遺したいものだ。」と思ったのではあるまいか。もちろん当時は、実名など書けるはずもなく、「奈良の僧侶」という形にして、書き残したのではないだろうか。ともかく平泉に関する以上の三つの歌に、西行の奥州と源義経という人物への思いが込められているという私の考えは思い過ごしであろうか・・・。
 

9 義経の師「聖弘」と頼朝の対決

文治3年(1187)3月5日。ついに鎌倉にいる頼朝は、義経が奥州平泉にいる確かな情報を手にして愕然とする。

義経が奥州に下ったことを知った頼朝の心は、おそらく非常な不安感に襲われたに違いない。いや不安というよりは、恐怖心という表現がぴったり来る。何しろ、奥州の覇者藤原秀衡という後ろ盾を得て、戦にかけては鬼神の如き働きをする義経が奥州にいる。頼朝は、このことを直ちに院に報告。高野山では、直ぐさま義経追補のための祈祷が執り行われた。

3月8日、鎌倉では、義経を匿っていたという疑いによって、取り押さえられた奈良の興福寺の僧侶「周防得業聖弘」という僧侶が鎌倉に送られてきて、尋問された。頼朝は、この高僧に直々に会い、苦々しくこのように言い放った。

「義経は、この国を乱そうとする逆臣である。その為に、逃亡した後には、『義経を諸国の山河の至る所を探して見つけ出し成敗せよ』との命令が、度々帝の名をもって発せられておる。結局、この国の者は上下を問わず皆義経を捕らえようとしている所である。にもかかわらず、あなたという僧侶一人が、義経のために祈祷をし、事もあろうに義経の企みに同意する計画であるという噂すらある。その企みとは一体何であるか。答えよ」(吾妻鏡文治3年3月8日佐藤訳)

それに対して、この聖弘は、きっぱりとこのように直言した。

「義経殿より、頼朝君のお代官として平家と合戦を前にした折、『勝利を得るために、祈って欲しい』とのご丁寧なるお頼みがあり、その時以来、義経殿とは、真心のこもったお付き合いを続けて参りましたが、義経殿は、誠に報恩の志しを持ったお方と思って参りました。

今、その義経殿があなた様より、厳しいお叱りを受けて、逃亡されたおり、私としては兼ねてよりの僧侶と檀家という縁浅からぬ間柄から、奈良にお越し頂いたので、『頼朝君とは事を構えずに、一旦追跡を逃れて、しかる後にお詫びをなさったらどうでしょうか。』とお諫め申し上げた次第でございます。そこで寺の僧侶に命じて、伊賀の国までお送りした次第にございます。

その後は、音信を取って居りませんので、義経殿の動静は今はまったく分かりません。お祈りを致したのも、頼朝君に対する謀反を成就することを祈った訳ではなく、ただただ今、逆上しているお気持ちを和らげ、お諫めするためにしたことでございます。

それがどうして謀反に荷担する罪として責任を問われることになったのでしょうか。よくよく現在の関東の平安を思いますれば、今日までの事は、ひとえに義経殿の武功の賜物でございますれば、義経殿が陰口のようなものによって、一時、兄君に対し奉公の道理をお忘れなさり、恩賞として与えられた領地を召し上げられることになれば、逆上する気持になるのも無理からぬことでございましょう。

どうか頼朝君、速やかに義経殿にお会いになってください。そして互いにこれまでの怒りを静めて平和の心をもって、義経殿を晴れてもう一度お迎えなさってください。お二人のご兄弟が、水魚の如き、離れがたい心で結ばれたならば、これは実にもって、国が治まる計略と申すものでございましょう。以上この愚僧が申したことは、けっして義経殿を弁護するつもりの意見ではございません。私はただただこの国が平和で静謐な世となりますことをこいねがって申し上げたまでのことでございますれば。」(吾妻鏡文治3年3月8日佐藤訳)

あまりの聖弘房の話しぶりに、流石の頼朝もそれ以上話しがなくなってしまった。この時の頼朝の心境は、どのようなものであったろう。猜疑心に長けた頼朝のことだ。ただただ感服していたとも思えない。あるいはこのように弁の立つ僧侶を、再び奈良に放免することも危険と考えたのかもしれない。結局、頼朝は、この高僧を、父義朝の菩提を弔うために3年前に造営したばかりの勝長寿院という壮大な寺院の住職として迎えたのであった。

つづく 


 

 


2002.6.7
2002.6.12
 

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