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ジョージ・ハリスン逝く

−凡庸なる者の星は本物の星となった−


ジョージ・ハリスンが亡くなった。結局体力の弱った彼は、念願のハワイの自宅には戻れず、カリフォルニアの友人の家で最期の時を迎えた。彼の生涯が、私自身の青春の思い出とオーバーラップしながら、頭ので駆け巡っている。

ジョージは、若き頃より、童顔に髭を生やすことで、己の気の弱さを他人に気づかせまいとした。またジョージは、己の凡庸な才能を、非凡な二人の天才の魂に触れることで克服した。ジョンとポールに畏れずぶつかって行くことで、独自の音楽を構築することに成功した。その意味で彼は、我々凡庸なる者の星であった。どうすれば凡庸が非凡に対抗できるか、身を以て示したのが、ジョージの生涯だ。

ジョンはある時、ジョージの作品がアルバムに少ないことを聞かれて、こう云った。

「別にジョージの作品を嫌っているわけではない。レベルに達していないからアルバムには入らないだけのことだ。」

確かアルバム「リボルバー」だったと思うが、明らかに現実としてはジョンの云う通りだった。グループ最年少のジョージは、ポールに殴られたりもした。しかしジョージは、ひるまず、非常にナイーブで柔らかい歌を悪びれずに作り続けた。例えばホワイトアルバムの「ロング・ロング・ロング」や「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウイープス」のような歌がそれだ。

それが最後の最後で花と開いて、ビートルズがグループとして最後に完成させたアルバム「アビーロード」において、「ヒヤ・カムズ・ザ・サン」や「サムシング」という傑作を創造するまでになった。あのアビーロードというアルバムは、まさにジョージの為にあるようなアルバムといっても決して大袈裟ではない。特に「サムシング」は、おそらくビートルズの作品の5傑に入る傑作であると思う。実に素晴らしいラブバラードでフランク・シナトラが「最高のラブソング」とのお墨付きを与えた位だ。晩年のシナトラは、この歌をよくステージでも歌い続けた。

しかし運命は変転する。嵐のようなビートルズの成功が去ったとき、ジョージはまだ27才の若者だった。芸術家としては、ひとり野に放たれ、きっと信じられないような世間の風聞とプレッシャーの中を、ジョージは、苦悩とひとり戦い続けた。ビートルズ以後の彼の作品には、その苦悩の痕が色濃くにじみ出ている。

また彼は、以前の妻が親友のギタリストエリック・クラプトンと愛し合うようになる現実を目の当たりにするという運命を受け入れねばならなかった。しかしジョージは、愛別離苦の苦しみを堪えに堪えて、クラプトンとの友情の絆を断つことは決してしなかった。愛の力を最後まで信じていたのだろう。彼は立ち直り、再び新たな家庭を築き上げていった。

そんなジョージは、2001年11月29日午後1時半(日本時間30日午前6時半)に、カリフォルニアの友人の家で最期の時を迎えた。ベットの側には、愛しい妻と、24才になる息子がジョージの手を取り励ました。しかし運命は非情だ。愛する者たちに看取られながら、ジョージは天国へと旅立っていった。我々凡庸なる者の星にして、非凡なるものには容易に備わらぬなき忍耐力を持つ芸術家ジョージ・ハリスンは58才にして天国へ召された。ジョージ・ハリスン・フォーエバー。

冬の月満るを待たで逝き給ふジョージ浄土のジョンと語りき

佐藤
 

 


2001.12.1

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