役小角とは何者か? 

-役小角伝説は何故創られたか?!-

 
その昔、七世紀末の大和国の葛城山山中に役小角(えんのおづの)という謎の人物が棲んでいた。「日本霊異記」上巻第二十八巻には、この不思議な男の話が、面白く語られている。

役小角。生まれも没した年の不詳のこの人物は、現在では山伏の元祖としてよく取り上げられることが多い。別名の「役行者」(えんのぎょうじゃ)の呼称もよく聞く名である。この人物の出自は、賀茂氏の出とされ、幼き頃より物覚えがよく、呪術を使い、文武三年(699)に、金峯山と葛城山に橋を架けようとしたが、困り果てた「一言主」(ひとことぬし)という地の神さまが人の口を借りて「役小角は天皇を滅ぼそうとしている」と陰口を言ったらしい。

それに怒った文武天皇は、彼を捕まえようとしたが、呪術を使うので簡単にはいかない。そこで彼の母を捕まえたら、彼は素直に縄について、伊豆に流された。しかしこの人物は転んでも只で起きるような人物ではない。昼は命令に従って伊豆に居たが、夜になると富士山に登って修行をし、三年の月日が経ち、ついに彼は恩赦を受けて大宝三年(701)に都に帰されることになったが、その時は、孔雀王の呪教を修めて仙人となり、空を飛ぶようになったというのである。そしてこの話には後日談がある。大陸に渡り、百匹の虎中から「ワシは役小角なり」という声がしたとか。あるいは陰口を利いた一言主は、今でも呪詛されていて縛られたままだというのである。人間である行者が修行して仙人となり、ついには他国に自由に飛翔し虎に化身したり地の神さまの一言主まで、呪詛して縛ってしまうというから本当に奇妙な話である。

そもそもこの日本霊異記という本は、薬師寺の景戒という僧侶が仏教の霊力を広める目的をもって8世紀末?9世紀初頭に編纂した日本最古の仏教説話集である。でもよくよく考えてみると、どうも私にはこの役小角という人物が、仏教修行者とは思われない。どう見ても古神道を信奉していた行者が、出来る人物ということで、仏教に取り込まれて伝説化していく過程のようにしか思えないのである。

まずこの話の骨子を分解してみれば、ある修行者が居て、その人物がAという山とBという山に橋を架けようとした。するとAという山に棲む国津神さまが、A?Bに橋を架ける人物は、天津神のアマテラスの子孫たる天皇を陰謀によって滅ぼそうとしたと告訴した。捕まった修行者は、三年の伊豆流罪の刑期中、こっそりと富士山に登ってさらに山岳修行を続け、ついに仙人となり天狗のように空を飛ぶ術を会得してしまい、告訴した国津神の一言主を術で縛って復讐を遂げる物語である。

更に単純化すれば物語は、冤罪(?)で投獄された山岳修行者が修行を続けて仙人になり、復讐を遂げる、ということに尽きる。一言主とは、おそらく葛城山の麓に住んでいた葛城氏の人々の祖神である。その神が、役小角によって縛られる。しかも役小角は、この霊異記の中で、仏道修行者のように変化させられて紹介されている。つまり仏の術を体得すれば、神さまも縛ってしまうことになるという構図になる。

おそらく日本全国、地の神だらけだったはずだから、仏に逆らえば、一言主のように縛られてしまうぞ。葛城氏の二の舞になるぞ。というプロパガンダ(文化宣伝)が、役小角の伝説の根底に、隠されていることになる。

これはよくある手だが、優れた人間を、あれは私たちの仲間のひとりということで仲間に入れて、伝説化しついには広告塔のようにしてしまうのである。今日本中には、役行者が来た修行の山というのが沢山ある。これはヤマトタケルに縁の地に負けない位の数に上るに違いない。山岳修行者ある所に役小角伝説ありと言っても過言ではない。

いったい役小角とはどんな人物か。岩窟に棲み、葛の衣を着て、松の葉を喰い、清泉を身に浴びて、けがれをすすぐ、空を飛ぶ、この一連の姿を思う時、それは仏教修行者の姿というよりは、山岳で修行する山伏(山岳修行者)の姿であり、極端に言えば天狗の姿に重なる。空を飛ぶというのが決定的である。しかも仙人というのだから中国の神仙思想をも含んでいて、不老不死になったのだとということもこの日本霊異記の伝説は、含んでいる。仏教の修行でそうなったということが大切なのである。もちろん現実の役小角も多少なりと仏教のことは知っていたかもしれないが、おそらく現実は日本古来からの神道の伝統を宿した土真面目な修行でしかなかったのではないだろうか。

彼が、金峯山から葛城山に橋を渡しというのは、ある種の誇張がある。少し前に書かれた「正史」である「続日本紀」(しょくにほんぎ:697-791までの編年体の史書。797年頃成立?)でも、同年の記述に鬼たちを使う術を持つ修行者として役小角のことが紹介され流罪になったことが書いてある。きっと当時としては大変な事件だったのであろう。この事件を教訓化し、プロパガンダに改変したのが、この日本霊異記の怪奇話ということになる。もちろん真相は不明だが、土地の人のために山に吊り橋を架けようとしたことだった可能性もある。そこに何らかの利権を持っている人間が一言主という神に象徴される人物で、その為に役小角は告訴されて捕まってしまうのである。その時にも、母を助けようとして、自ら縄についた訳だから、母思いのやさしい男であったことだろう。

私はこの役行者が、いつの間にか、仏教の修行者のようになっていく過程に、日本の神道が、身も心の仏教という新しい極めて体系的そして綜合的な宗教に絡め取られてゆく姿を見てしまうのである。現在、山伏を糾合する派は、「聖護院を本山とする天台宗本山派と醍醐三宝院を本山とする真言宗当山派に分れる」(岩波日本史辞典)ということになっている。山をネットワークとして存在した神々の祠と社は、次々と仏教に習合をさせられることによって、仏教の教えを根源とする思想に改変させられてしまったのである。

九世紀初頭、都が京都に移った。その頃にひとりの宗教的天才空海が現れた。彼が目指したのは、密教の加持祈祷の方法を中国から持ち帰ることによって、山岳修験者の多くを真言宗によって糾合することだった。それは好意的解釈すれば日本という国家のイデオロギーとしての宗教を密教の加持祈祷で短期間に鍛錬し、日本を一等国の仲間入りをさせようとすることだったかもしれない。確かにもしも密教というものが日本にもたらされなければ神仏習合が日本社会でこれほどスムーズに進んだかどうかははなはだ疑問である。加持祈祷と呪詛の最新技術が、密教には詰まっていた。あれほど桓武天皇(737-
806)が若い空海(774-835)を登用した裏には、密教の持つ絶対的な加持祈祷の神秘力が、新都を守ってくれると思えたからに他ならない。空海のライバルに最澄がいる。しかし密教では彼は遅れをとっていた。そこで弟子の円仁(794-864)は、中国に渡り、比叡の山に密教をもたらし未開の地と言われた東北に活路を見出そうと必死になった。その結果が、最後に山伏もまた天台と真言に分かれることになったと見るべきではないだろうか。今日そのどちら派にしても役小角が山伏の元祖というのであれば、その理由は極めて明解である。すなわち仏教が拡がる以前に、山伏のスタイルで修行をする古神道が、日本の山々をネットワークする形で確立していたとみるべきではないかということになる。佐藤

 


2002.12.4
 

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