伝説の落語家

三遊亭円朝の生涯


 

落語の名人と言えば、三遊亭円朝(1839 ?1900年)という人物に尽きる。この人物は、江戸から明治にかけて生きた落語家だが、人情噺から怪談噺の「牡丹灯籠」(ぼたんどうろう)まで幅広い芸で、その名を歴史に残している。

しかしそんな不世出の天才と言われる円朝も、初めから、すごい噺家だったわけではない。もちろん才能はあった。だから今で言えば、三遊亭小朝のように、達者な噺家であったことは確かだ。

そんな彼も、自分の芸を磨いているうちに、自分の限界に差し掛かかる。それで座禅を組むようになり、偶然、剣豪の山岡鉄舟(1836?1888年)と知り合う機会を得た。山岡と言えば、無刀流の使い手にして、禅と書の達人である。

「あんたは噺家らしいが、昔母から聞いた、桃太郎の話をしてくれんか?」と急に山岡が円朝に言った。山岡の急な申し出に円朝はためらった。<なんで今、この俺が、桃太郎のような昔話をしなきゃーならないんだ。冗談じゃないぜ。ひょっとして、俺を馬鹿にしているのか?それとも公案なのか?>公案とは、禅の修行者に、師匠が与える悟りを得るための無理難題のことである。そんなことを散々考えた挙げ句に、円朝は結局、山岡の言った桃太郎の話をしなかった。

帰っても、円朝の頭の中では「桃太郎」の噺が引っかかっていた。なぜ?俺に、桃太郎なんだ?そして円朝は、自分で桃太郎を、手直して、高座でも演じるようになった。大衆には好評を博した。そこで山岡の所へ駆けつけた折り、

「山岡様、この前、できなかった桃太郎の噺をさせてください。是非聞いてもらいたいんです」

すると山岡は眼孔鋭く、小柄な円朝をにらみ据えて、こう言った。

「もういいですよ。あの時は、母親が、昔話してくれた昔話を、有名な噺家のあんたさんが、どう話すか、聞いてみたかったんですよ。ただね、円朝さん、舌で話してはいけませんよ…」

「…」またしても、円朝は、ショックを受けた。その証拠に、その後、一言も声が出せなかった。円朝の心は揺れた。<時節を逃したってことか…?それに舌で話すなって、いったいどんな意味なんだ。口や舌で話さないで、どこで話すと言うんだ、いったい?>とうとう最後には、家に戻って大声で叫んでしまった。「ふざけるな!山岡のヤロー」

しかしそんなこととはお構いなしに、円朝の人気は、ますます高まっていく。円朝の頭の中では、常に「舌で話すな」という山岡の言葉が、引っかかっている。ついには頭の中が、真っ白になって山岡を訪ねて、頭を下げた。

「先生、どうか、あっしを弟子にしてやっておくんなさい。どうすれば舌を使わない噺ができるようになるでしょうか?」

山岡は、即座に、ただ一言「無!!」と答えた。この「無」という公案は、禅の坊主が、弟子によく使う手である。山岡も円朝に向かって、ついに「無」と発した。この無を発する時点で、山岡自身は、円朝が、近々悟りを開いて、本当の名人になることを分かっている。だから「無」という問いを最後に与えたのである。

それから二年の間、円朝は、無心になって、座禅を組み、己の舌を無くす、修行に取り組んだ。すると答えは、向こうから、勝手にやってきた。

「舌で語るからいけない。心の奥の奥の芯で語らねば、本当の噺にはならない」どこからか、そんな言葉が聞こえてきた。

そしてその成果を、山岡に披露する時が来た。もちろん噺は「桃太郎」だが、山岡は噺など聞いていない。ただ心の眼で、じっと円朝の心を観ていた。

「円朝さん、今日の噺はいいね。実にいい。真がある」山岡は、和尚と相談し、円朝に「無舌居士」という法名を与えた。

現在、この山岡鉄舟と三遊亭円朝は、山岡の創案で作られた上野「全生庵」という寺で仲良く眠っている。そして円朝の墓銘には、生前の山岡が書いて与えた「三遊亭円朝無舌居士」という字が並んでいる。佐藤
 

 


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1998.12.1