泥を楽しむ

 菊池利雄氏のこと


菅原次男さんの義経伝説ロマンの旅の先遣隊として七月三日(土)福島と宮城の国境に位置する国見という町にむかった。そこには、かつて源頼朝率いる鎌倉軍と奥州軍が、激突した古戦場(阿津賀志山の戦い=1189年)がある。私の祖先である佐藤元治もそこで深い傷を負って、まもなく死んだと系図には書かれている。(注:吾妻鏡では、許されて、元の自領に戻されたとある)

そこで地元の歴史家の菊池利雄さんの家へ行き、彼の自動車でこの辺りの名跡を案内していただいた。しかり折からの雨で、しかもだんだんと日は西に傾き、雨は強くなるばかりであった。飯坂の医王寺からタクシーを飛ばして、菊池さんのお宅にたどり着くと、挨拶もそこそこに、菊池さんの愛車で、まず義経ゆかりの「義経腰掛け松」に向かった。

「この松は、三代目位の松で、樹齢は300年位経っているかもしれません。まあ義経さんが、腰掛けたか、どうかなんてのは、検証のしようがありませんから、真偽の方はさだかではありません」との説明を受けた。菊池さんの口調は、実にぶっきらぼうである。だが逆に、地元の名所を飾らずに教えてくれる態度に誠意を感じた。年の頃なら、70才過ぎのヒゲ面のおじさんだが、歩くのも実に早い。傘を差し掛けたが、「私はいいですよ」と雨をまったく気にする様子もなく、野球帽で間に合わせている。

次に防御の為に掘った防塁(ぼうるい)という溝に案内された。すでに時刻は、六時半を過ぎ、雨空もあって、薄暗くなってきた。菊池さんは、「比較的溝がよく残っているやつを案内しましょう」と言って、一人で藪の中に消えていった。こうなったらこっちも腹を決めるしかない。傘を捨てて、その後に続いた。溝の幅は20mもある。長さは数百メーターにも及ぶ。ここを通って進軍してくる鎌倉軍をブロックするために、奥州の人間たちは、半年もかかってこのような防御の防塁を掘ったのだと言う。

これからが、佐藤の地獄であった。この藪の前で、菊池さんの車が、轍(わだち)にはまって、立ち往生してしまったのだ。「押しましょうか」と言って、かっこよく押したのだが、なかなか、脱出できない。菊池さんがアクセルをフルに踏んだところ、エンジンが「グイーン」と鳴って、やっとのことで抜け出すことができた。

ところがだ。気が付くと私のズボンから、シャツにかけて轍のドロがどっさりとくっついているではないか。「まいったな」と、思ったが、後の祭り。たっぷり栄養を含んだドロで身体が重い…。しかしここで怒ってもいられない。すぐに気分を変えることにした。菊池さんの方も別に誤る様子でもなく、平然と「次に阿津賀志山を案内しますよ」と次の行動に移っている。

そこで私は「うん、まてよ、このオヤジ、俺の度量でも計っているのか?面白いじゃないか」と、完全に腹を括った。顔にも少しドロが付いているので、軽くタオルで拭いた。あとはなるようになれとお構いなしである。

「いや今日はいいおみやげ、いただきましたね」とジョークを飛ばしてみたが、真面目なのか、気まずいのか、学者肌の菊池さんは、どんどん別の説明を繰り返すばかりである。次には阿津賀志山(あつかしやま)の頂上の展望台に向かう。雨はますます激しくなり、時刻は七時に迫り、雨に煙った上に薄暗くなって、景色は一層見にくくなってくる。それでも傘も持たず、野球帽の菊池さんは、この山での攻防の様を話している。まったくエネルギッシュなオヤジもいたものだ。

「阿津賀志山もすごいが、このオヤジも結構すごいな?!」などと、自分だけで分かる冗談を思いつきながら、近くの駅まで送ってもらうことにした。これが人と人の出会いというものであろうか?最初からいい人で、最後までいい人であった試しはない。むしろ出会った時は、何だあいつと思うような人物の方が、親友になったりするものである。

別れ際、駅の前で、菊池さんが、「これもっていって」とビニールに入ったサクランボをくれた。私は妙にうれしくなった。駅のトイレで、泥のシャツとズボンを洗った。しかし着替えがないのでずぶ濡れに変わりはない。やがて仙台行きの電車が来て、そのサクランボを口にした。とっても甘い味が口いっぱいにひろがった。ふと今日のことが思い出されて、思わずクスクスと笑った。周囲の乗客は、きっと頭がおかしい奴と思ったかもしれない。何しろ、ずぶ濡れの男が、赤いサクランボを頬ばりながら、笑っているのだから。あの時のサクランボの味が今も忘れられない。あれはまさしく菊池利雄さんの人柄そのものの味がした。佐藤
 


義経伝説ホームへ

1999.07.05