日本やってきたダヴィンチの処女作「受胎告知」

レオナルド・ダ・ヴィンチ

天才の創作の秘密に迫る!?


上野の東京国立博物館に「レオナルド・ダ・ヴィンチ ー天才 の実像」展を見にいった。詳しいことはよく分からない。ただダ・ヴィンチの傑作「受胎告知」がイタ リアのウフィツィ美術館からやってきたというので、とにかく行ってみた。

すると、展示してあるのは、本当にこの「受胎告知」一点のみ。それで1500円は高い、と思いながら、会場に入った。会場は、「受胎告知」を展示している 本館の第一会場と最新のダ・ヴィンチ研究を網羅し天才の実像に迫るというコンセプトの第二会場に分かれていた。

薄暗い照明の中、本館一階正面奥にダ・ヴィンチの歴史的名画は掛かっていた。鈴なりとまではいかないが、かなりの人が詰めかけていて、なかなか順番が来な い。絵の背後には、螺旋のようにして、少し離れた位置から、じっくり見えるような細工が施されていて、じっくり味わいたいと思った私は、まずこの位置で 15分ばかり、絵と正対した。ダヴィンチの作品と私の目の位置の距離は3m半ほど。

すぐに思ったのは、比較的小さな絵であるということだ。目視では横が2m50cmで楯が1mちょっと位が、と思ったが、実際のサイズは、横217cm、楯 98cmとのことだ。横長の絵である。それと特に天使ガブリエルの裾を覆っている衣の色が鮮やかな赤だということである、またマリアの表情も若くて初々し さを感じる。

直観で思ったのは、この天使ガブリエルの顔が、ダ・ヴィンチがはじめて絵を描いたとされるベロッキオの工房での作品に有名な「キリストの洗礼」の天使の顔 に 似ていることだ。「キリストの洗礼」の方が少し子どもっぽいが、顔の輪郭や表情がよく似ている。このキリストの洗礼もまた同時期に描かれたものと言われ、 ダヴィンチが20歳か21歳で、はじめて描いた作品といわれている。

この時ダ・ヴィンチは背景とこの天使を描いたとされる。この絵は、キリストがヨハネに洗礼を受けているのを、二人の天使が左端の傍らでじっと見ている絵で あ る。もう一人の天使は、師匠のベロッキオが描いたとされ、ダヴィンチの天使の完成度に驚いて、それからは筆を折ったといわれる。

この天才が現れた時に筆を折るというのは、一種の天才神話で、ピカソの絵を見た時に父親が筆を折ったというのも、このパターンであり、ダ・ヴィンチの場合 も これを即座に信用するわけにはいかない。

受胎告知というテーマは、ルネサンス期前後より、よく扱われる題材で、特に有名なのは、フラ・アンジェリコ(1387?-1455)の作品かもしれない。 これはフィレンツェのサン・マルコ修道院の回廊に描かれているフレスコ画である。構図的にも、ダヴィンチの作品と極めて似ていると私は思う。違いは、アン ジェリコの作品が、丸いアーチ型の屋根に囲まれた中で、天使とマリアの目の位置が1mほどしか離れていないのに対し、ダ・ヴィンチの作品は、建物の外での 出 来事で、天使とマリアの間は大人一人の空間が空いていることだ。そのためにダヴィンチは、その開いた空間を遠近法によって奥行きを感じさせるように遠景を 配置しているのである。

これは晩年に描いた代表作「モナリザ」にも受け継がれている風景描写で逆光の光が射し、山が光って霞み立ち、微妙な空気感が感じられる。またその前には杉 や松などの木が結界を作るように植えられていて、この場所が特別な聖なる空間であることを暗示しているようにみえた。

とにかく鮮やかな印象を持ったのであるが、おそらくこれは修復などによって、長い歳月の間に染みついたホコリなどを丹念に取り去った結果、ダヴィンチが描 いた当時の鮮やかな色彩が戻ったものであろう。また天使の跪いている周囲の草花などの描き方であるが、これはやや過剰とも思えるほどの数で、春から夏にか けての躍動感溢れるイメージが感じ取れた。

私がこの作品に直に接して感じた最大のことは、天使ガブリエルが、決然とした意思を持った存在であることだ。これは神の意志を暗示しており、その神に祝福 を受け、神の子を身籠もるという乙女のマリアに恩寵を知らせることの使命に対する絶対の自信のようなものだろう。世には、様々な「受胎告知」がある。しか し他の画家の作品とダ・ヴィンチの「受胎告知」を分かつものは、天使ガブリエルが身体全体に宿している意思の力である。

新約聖書ルカ伝には、その時のガブリエルとマリアのやり取りが、シェークスピアの戯曲のように描かれる。

「恵まれた人よ。あなたは神によって選ばれた女性。あなたは身重となり男 子を産むであろう。その子はイエスと呼ばれ、大いなる人物となる。」

マリアは戸惑っている。
「そんなことは考えられません。私は男性を知りません。それに私には婚約者がいます」

天使ガブリエルは次のように説得を試みる。
「神に不可能はありません。やがてあなたに聖霊がやってきて、あなたはそれ故に神の子を産むのです」

ここまで言われ、マリアから戸惑いは消えて、
「私は神のしもべです。あなた様のいうような私になりますように」

この天使ガブリエルとマリアの会話の奥にあるものは、神の意志という絶対のお告げである。


レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)というと、芸術の世界では神のような存在で、万能の天才とも言われる。確かに20歳前後で、このような作 品 を描くという才能には脱帽するものがある。しかしダ・ヴィンチだって、人間である。人間の歴史文化の中で育まれてきた技巧や伝統を踏まえた上で、ダヴィン チ の創造性は発揮された。この実質的な処女作と言われる「受胎告知」においても、構図はやはり伝統的で革新的なものはどこにも感じられない。あるのは、天使 ガブリエルの横顔に見える神の意志の表出である。

ダ・ヴィンチの凄さというものは、おそらく画業として遺されているものだけに限らず、彼があらゆる人間の営みに興味を持ち、人生には夢と理想を持ちなが ら、 そのほとんどは実現せず夢想に終わったのだが、その中にこそあるのかもしれない。ダ・ヴィンチ以後の人間は、ダ・ヴィンチの夢想した空飛ぶマシンのスケッ チや 大砲、橋、都市計画など多岐にわたる研究の中に人間の想像力の可能性の無限を感じて、ダ・ヴィンチを神聖視しているのである。

だとすれば、ダ・ヴィンチ死後、500年後の世界に生きている私たちは、ダ・ヴィンチをむやみに神聖化せず、彼の創造活動(芸術)において、彼の魂を突き 動か している本質にこそ迫るべきだ。

その本質というものはダ・ヴィンチの狂おしいまでの知的渇望ではなかっただろうか。別の言葉で言えば、彼は森羅万象の背後にある諸原理をすべて知理尽くし た いと考えていたのである。しかし彼が思うほど科学は進んでいなかったというべきだ。その証拠に彼は最初地動説を信じていて、月の青さは、地球の海が太陽に 反射して見える現象というように考えていた。

彼の遺した数少ない作品には人間をも含む自然(森羅万象)を知り尽くしたいという強い意思の力(渇望)のようなものが見受けられる。同時に、私は彼の遺言 状の冒頭に記載されていることが彼の芸術活動の源泉としてあったと考える。そこには第一の遺言として次のことが書かれている。

「おのれの魂をばわが主偉大なる神と、光栄に、みてる処女マリア、聖ミケレ殿およびありとあらゆる天国の至福なる天使、聖徒、聖女にゆだねまつる」(「レ オナルド・ダ・ヴィンチの手記」(下)杉浦明平訳 岩波文庫 1958年刊)

ここには、神の恩寵への「絶対的信頼」と「祈り」がある。人間というものは、大体若い頃に考えたことに最後は戻って行く。その意味でも、処女作としての 「受胎告知」の中にある天使ガブリエルの強靱な意志力は、元々レオナルド・ダ・ヴィンチという人間の魂がほとんど生来的に保持していた感覚ではなかったか と 思う。

したがって、ダ・ヴィンチの想像力の源泉というものを想定するとすれば、まず森羅万象への知的渇望と、もうひとつ神と神に祝福されたマリアやガブリエル、 イ エスへなどへの絶対的な信頼と祈りがあるのではないだろうか。

それこそが、私たちが、ダ・ヴィンチの作品に接した時に感じる深い感動の源泉にあると思う。一般に芸術というものは「美」ものだが、ダ・ヴィンチの作品 は、 「美しい」というよりは、裸の魂が露出しているようで怖いと感じることがある。どう見ても、荒野で悲嘆にくれる「聖ヒエロニムス」(1480)は、聖人で ありながら、られほどの「老醜」を晒さなければならないのか。しかも彼の前には肉食獣のライオンが口を開けていて、今にも襲いかからんばかりだ。ここには 聖人が聖人に至るまでの苦しみのすべてが描かれている。

私は、この「森羅万象への渇望」と「神への絶対的信頼と祈り」が、すべてのダ・ヴィンチの作品の背後に通底している共通の観念ではないかと思う。モナリザ の微笑(1503 -05)の奥に、聖ヨハネ(1513−16)の天上を指さして微笑んでいる奥に、そして今回の「受胎告知」の神の意志を代弁する天使ガブリエルの目線に も、このふたつの思いが交錯して創作されたと感じ るのである。(佐藤弘弥記)


2007.5.1 佐藤弘弥

義経伝説
思いつきエッセイ