小説「ダヴィンチ・コード」とイエスの謎
−イエスの生涯と女性−
「ダヴィン
チ・コード」という小説が、世界的に空前のヒットとなり、ついには映画化されることになった。昔、中学生の頃だったか、岩波文庫の「福音書」を借りて、何
の先入観もなく、キリストという人物に接した時の新鮮な感覚を思い出す。
その時、私の中では、キリストは神の子というよりは、我々と同じ欲望も感受性もある生身の人間であると感じた。中
でも、マグダナのマリアという女性が、キリストの足に香油を塗るシーンは、とくに強烈な印象があった。
私は、この時、イエスは、きっと彼女のなかに女性を感じていたのだと思った。ところが弟子たちは、女性をなじる。
「もしもそのような油を買うお金があったなら、貧しい人に施しなさい」
一説ではマグダナのマリアは春を売る女性だったとも言われている。だからなおさら私はイエスの偏見のない態度に共
感したのである。イエスは弟子たちの態度に激怒した。
「この女性は、私を慰めようとしているのだ」
イエスは、すでに自分が義のために死ぬことを覚悟している。弟子たちは、そのことを分かっていない。そこにイエス
と弟子の間には、心のギャップが生じている。マリアはそうではない。そこにいるイエスに心酔し、自分がなしえることをして、イエスをつかの間でも慰めよう
とする。
それが悲しくも美しい。このシーンを読み終えて、イエスに親近感を覚えた。そして敬愛する偉人の一人になった。イ
エスは、自分の男性という性を意識しながらも、それを信仰の力でそっと押さえ込む。本当ならば、イエスは、「ありがとう」と、強くマリアを抱きしめたかっ
たのかもしれない。
イエスは、その時、マグダナのマリアに対するセクシーな感情を別のものに転換することによって、心の平穏を保つ術
を心得ていた。我欲の転換の昇華の術(スキーム)である。既にイエスは自分の己の心というものを徹底的に見つめ、その中にある我欲を消滅させる方法を心得
ていたのである。それはイエスが荒野で悪魔と戦ったというエピソードによっても分かる。そのエピソードで修行するイエスの前に現れた悪魔とは、きっと外に
いる本物の悪魔などではなく、イエスの心に奥に潜んでいた「弱い心」だったのだろう。
・・・そんなことを考えながら、イエスという人物に再び巡り会う機会を与えてくれる「ダヴィンチ・コード」を読み
始めることにした。
確かにダヴィンチの傑作「最後の晩餐」のイエスの左にいる人物が女性に見えることは確かだ。果たして、これが本当
にマグダナのマリアだったのか。そしてまたある種伝説的人物となったレオナルド・ダヴィンチその人が、マグダナのマリアを信奉する秘密結社にいた人物かど
うかは分からない。しかしイエス・キリストには、聖母マリア以外に、その偉大な生涯を彩る女性がいたということは、むしろ自然なことではないかと思うので
ある。2006.5.18佐藤
2006.5.18
佐藤弘弥
義経伝説
義経思いつきエッセイ