栗原郡 2


片子沢(カタコサハ)
今、姫松(ヒメマツ)村と改め、隣近の諸村里、綿丸、嶺崎、泉沢等を合同す。稲屋敷の南、真坂(一迫)の北とす、鳥合神社あり。
留守文書元弘四年のものに、陸奥国二迫、栗原郷、内外栗原、并片子沢内など見えたり。又、姫松とは、一迫の旧庄名なりとも、一書に云へど、明徴なし、今は村名に転ず。○封内記云、片子沢邑、鳥合神社、嵯峨帝御宇之古社、而星霜九百余年也、名跡志曰、相伝、由理若大臣、有鷹児、曰緑丸、後人哀其為主溺死、建祠祭之、称新山(シンザン)権現、或曰秀衡所建也、別当宅曰鳥屋宅。

栗原(クリハラ)郷
和名抄、栗原郡栗原郷。○今、尾松村、鶯沢村、姫松村、富野村等にあたる。即、二迫川の水域を以て、其分内とす。栗原寺、及び栗原てふ里名の遺れるにて、之を証すべし。延喜式に、栗原駅といふは、玉造と磐井の中間にて、駅址今伝ふる所なきも、営岡の近地なるべきや勿論耳、猶探るべし。(一説、黒瀬を以て駅址とす)

補【栗原郷】栗原郡○和名抄郡郷考、兵部式栗原駅馬五疋、○伊勢物語「くりはらのあね葉の松の人ならば云云」いまもあね葉といふ村ありとぞ、○郡郷考云、今按栗原郷属邑十九又二迫郷有栗原村、○今の栗原は仲村郷にて、其東の富野沢辺などか。

富(トミ)
今、城生野と相合せて、富野村といふ、宮野の北一里、二迫川と一迫川の交会する西辺に在り。沢辺駅を去る一里、黒瀬(クロセ)てふ小駅之に属す。

復軒雑纂云、古道を考るに、玉造駅は、今、岩出山の北、葛岡(クズヲカ)村に多加波々城址とてある、其辺ならむか、又、此辺より直に東北に向ひ、栗原郡の柳目(ヤナギノメ)村(真坂の東)を歴て、宮野村(今の国道)に出づる道あり、其宮野の北、黒瀬といふ地に、長者屋敷とてあるは、駅長の居なりしなるべく、是れ栗原駅の址ならむ、さるは、其西北に栗原村ありて、黒瀬の地は往時は栗原村の内なりしと伝ふればなり。○今按、玉造郡より栗原寺、松山道、津久毛橋の直路は、柳目、宮野、黒瀬等の迂廻と相合はず。古の栗原駅は、之を黒瀬、城生野の辺に擬せずして、栗原寺、営岡の辺に訪求すべし。黒瀬は、長岡郡より来る者を承けて、姉歯、金成へ向ふ別路なれば、亦一駅たるべきも、式内の駅路と相紛乱するなきを要す。

復軒雑纂又云、黒瀬の地は、往時十六町余の大沼にて、其西の岡に長者(チヤウジヤ)が原、長者屋敷などいふ地あり、長者とは、駅長の俗称なれば、此地に駅ありしものか、延暦二十三年、栗原郡に新に三駅を置くなどある、其一にもあらむか、又、此黒瀬の地に、鹿島香取の社あり、封内風土記には、これを式内の栗原郡香取御子神社とせり。

伊治(イチ)城址
復軒雑纂云、伊治城の旧址は、史家の索めて獲ざる所なり、然るに、今より五六十年前、栗原郡刈敷(カツシキ)村の金田氏、城生野(ジヤウノ)村に一大城墟あるを発見し、弘化四年、岩崎綱雄、其著「栗原郡旧地考」中に記して、略地図をも掲げたり、

神護景雲元年十月勅、見陸奥国所奏、即知伊治城作了、自始至畢不満三旬、朕甚嘉焉、云々、十一月、置陸奥国栗原郡、本是伊治城也、云々、

此文にて、伊治城址は、栗原郡中にあるべきこと知らる、「本是伊治城也」とは、本是伊治城管下之地也の意にて、延暦二十三年十一月の条に、秋田城を停めて郡と為す、とあると同じかるべし、伊治城の名は、此後も、■史に見ゆれば、固より城を廃せられしにはあらず、且、建郡の後に、伊治村の名も見えたり、

同二年十二月勅、陸奥国管内、及他国百姓、楽住伊治桃生者、宜任情願随到安置依法給復、」三年二月勅、陸奥国桃生伊治二城、営造巳畢、厥土沃壌、其毛豊饒、宜令坂東八国、各募部下百姓、如有情好農桑、就彼地利者、則任願移徒、随便安置、法外優復、令民楽遷、」六月、浮宕百姓二千五百余人、置陸奥国伊治村、」宝亀九年六月、賜陸奥出羽国司以下、征戦有功二千二百六十七人爵、授按察使正五位勲五等紀朝臣広純従四位勲四等、(中略)伊治公砦麻呂授外従五位下、自余有差、」十一年三月、陸奥国上治郡大領、外従五位下伊治公呰麻呂、及率徒衆、殺按察使参議従四位下紀朝臣広純於伊治城、

上治郡詳ならず、伊治郡の誤ならんとの説あり、従ふべきか、郡の大領は、本郡の人を以て任ずる例なればなり、然れども、史に伊治城伊治村の称は見ゆれども、伊治郡の称は見えず、若しは、栗原郡、元伊治城なれば、相通じて記したるものか、或は伊治郡を上下二郡に分称したるものかと、然れども、伊治郡の称すら覚束なし、况や下治郡無きをや、

広純(下略)、宝亀中出為陸奥守、尋補按察使、在職視事、見称幹済、伊治呰麻呂、本是夷俘之種也、初縁事有嫌、而呰麻呂匿怨陽媚事之、広純甚信用、殊不介意、又牡鹿部大領道島大楯、毎凌侮呰麻呂、以夷俘遇焉、呰麻呂深啣之、時広純建議、造覚■柵、以遠戌候、因率俘軍入、大楯呰麻呂並従、至是呰麻呂自為内応、唱誘俘軍而反、先殺大楯、率衆囲按察使広純、攻而害之、独唯介大伴宿禰真綱、開囲一角而出、獲退多賀城、其城久年国司治所、兵器粮蓄不可勝計、城下百姓競入、欲保城中、而介真綱掾石川浄足、潜出後門而走、百姓遂無所縁、一時散去、後数日賊徒乃至、争取府庫之物、尽重而去、其所遺者、放火而焼焉、

覚■城は今知れず、恐らくは磐井郡中の地ならむ、

延暦十五年十一月、陸奥国伊治城、玉造塞相去卅五里、中間置駅、以備機急、発相模武蔵上総常陸上野下野出羽越後等国民九千人、遷置伊治城、二十三年十一月、栗原郡新置三駅、(新置の三駅、其名を知らず、玉造塞は玉造郡中なるべけれど、其故址今知るべからず、されど、伊治城址決定せば、此三十五里の字は、玉造塞址を索むべき好材料ならむ)

城生野村の、伊治城址ならむと指す地は、方六七町ありて、地形略円形を成したる岡野にて、北を前面とし、二迫の峡間を望みて、直下に二迫川(一名、荒瀬川)を控へ、西は古へ黒瀬沼といふ大沢なりき、(今は田となる)、南より東へかけては、一迫川廻流し、東北に至て、二迫川と落合ふ、其一迫川より東南なる一帯の地も、古へは大沼にて「イヂ沼」といひし由なり、(今は田里となる)、城址の南面なる一迫川の岸は、断崖四五丈、屏風を立てたるが如く、此崖に幅六七間、切り通して川端に下る坂あり、坂の中程に升形とも云ふべき処あり、是れ古への後門ならむと云ふ、坂下の川底は、板岩なるに、橋柱を建てたりと覚しくて、岩の面に径三四尺の孔、三所まで、水中に見ゆと云ふ、宝亀十一年に、陸奥介大伴真綱、伊治城に居て俘軍に攻められ、囲の一角を開きて、多賀城に逃れたりといふは、此後門なりしならむか、又、城址の西南隅は稍高し、大仏(ダイブツ)山といふ、頂に大仏殿あり、(今は、小堂に石地蔵を安ずと云)、夫れより西は山続きなり、又、城址の中央、東に偏して唐崎と称する地あり、其畑中に古松あり、此所、地中より時々屋瓦を掘出す、今国道は、西南なる築館駅より来りて、郭内を北に貫きて走れり、其北へ下る坂の辺、正門の跡ならむ、又、此所より北三十町許に「マイカド屋敷」といふ地あり、関塞など置くべき地勢にて、前門の跡ならむか、是れ伊治城墟の大勢なり、(城址内なる照明寺は、天正中の草創なり)、神護景雲三年に、浮宕の百姓二千五百余人を、伊治村に置くと見え、延暦十五年に、諸国民九千人を伊治城に遷すと見ゆるは、所謂柵戸なるべく、柵戸は屯田兵なりしが如し、今、城址の四方六七町あるを見れば、九千人の居をも容るるに足らむ、さらば、棚戸といふものは、当時、皆郭内に住せしめたるものとも考証するを得むか、多賀城址の外郭も、方六七町あり、胆沢城址の外郭も、北は胆沢川に限り、夫れより十五六町南に掘跡あり、当時の諸城、規模皆大なりしこと、相参照すべし。○又云、此城址の東南に「イヂ沼」の旧称あり、其東南に伊豆野、伊豆沼あるは転訛か、「ち」「つ」「し」「す」の清濁転訛は、奥州土音の常なり、而して「いぢ」の義知るべからず、若しは蝦夷語などにて、伊治の字音を当てたるものか、然るに、陸奥五十四郡考補遺には、伊治は訓読「これはる」にて、栗原と声近しといへり、常陸に新治あり、伊予に今治あり、肥後沖縄の地名に、原を「はる」と読むもあり、若しは、伊治城管下の地を郡に建てらるるとき、伊治の音読なるに、新に訓を施し、声の近きを以て、栗原の字に作り、新に郡に命名せられしものか、音読の地名を、訓読にしたる例もあり、彼の、駿河益頭郡は、日本武尊の遺跡にて、焼津なるに、益頭の字音を埋めたるものなるを、和名抄には、又訓読して、益頭に末志豆と註し、備後の安那郡は、旧事記の吉備の穴国、景行紀の吉備の穴海、安閑紀の婀娜国なるを、和名抄には、安那に夜須奈としたるなど是なり、焼といひ穴といふを忌みて、改めたるにやあらむ、正訓ならざれば、湯桶読となれり。○、今按、伊治城址は、栗原郡栗原郷内に属し、二迫の峡辺たるべきことは、疑を容れず。而も、其玉造よりの距離と、営岡、栗原寺、松山道、小堤村等の位置に考へて、古駅路の行迹を探れば、営岡(タムロガヲカ)こそ、其名のつたふる如く、城営の址かと想察せらる、猶実践精究を要す。又、伊治の字は、イチにや、コレハルにや、是れ亦一疑問とす。(初めイチなるが、後コレハルとよみ、栗原の文字を仮れりとは、為し難し、且つ、益頭、安那の例を引くも、要なきに似たり)営岡八幡宮の金口、延慶四年の識文に、小治山と刻むは、若しは、コハル山とよみ、即、コレハルの訛にあらずや。越後国の寺泊の旧名、伊神(コレカミ)(延喜式駅名)を、方俗、国上(クガミ)と曰へると相参照し、コレハルの説も棄て難ければ、併録して後採に竢つ。

補【大沼】栗原郡○地誌提要、畑岡村の南にあり、周回三里三十三町、東西一里南北十七町、○一名伊豆沼と曰ふ、畑岡村は志波姫村の南に在り。
伊治沼 宝亀十一年三月丁亥、陸奥国上治郎大領云々(全文鎮守府条下に出づ)延暦十五年十一月己丑陸奥国伊治城、玉造塞相去三十五里、中間置駅、以備機急、按に此上治郡は伊治郡の誤なるべし、神護景雲元年伊治城に郡を建て栗原郡となす、爾後伊治城僅に史に見えて、絶て栗原郡を言はず、此に至りて伊治郡あり、蓋栗原を伊治に改称せるものか、但其始置栗原郡は追称に出るものか。

仲村(ナカノムラ)郷
和名抄、栗原郡仲村郷。○今、三迫にあたり、岩崎駅の南に、中野(ナカノ)てふ小村名ののこれるは、古郷名の追徴とす。即、鳥沢より、大原木、小堤、沢辺、神成に至る三迫川両岸の山谷を籠めたり。封内記云、三迫、中野邑、玉井(タマノイ)在、古塁東八町、上品寺、真言宗、属岩崎清水寺。

岩崎(イハガサキ)
今、岩崎町、人口三千五百、築館の西北三里、三迫川の北岸に在り。此より東北、州郡界を過ぎて、磐井郡一関駅へ五里、古へ黒岩口といへる山駅、即是也。
観聞志云、駿馬、封内之産尤多、且畜養馴致、調良而鬻市者、年々衆之、栗原郡岩崎駅司厩者、択其善良駿足者、以季冬而献之江都将軍家。○封内記云、蒜香郷岩个崎邑、有市店而駅也、有号石崎岩倉成田地、毎歳七月自朔日至八月廿日、凡五十日、州内馬集此地、名之曰日市、古来之旧例也、公族中村氏采邑、熊野山黄金寺、曹洞宗、嘉吉三年辛酉、学室中積和尚開山、伊達摂津宗綱、伊達筑前宗信及母堂霊牌処、邦君寄附八石九斗、音羽山延命院清水寺、称初崎観音、真言宗、不詳何時何僧開山、邦君寄附八石九斗、一説悪七兵衛師末者之子、弥兵衛師門、擬京師大悲閣建之、一説、作弥平兵衛師門、有古塁曰鶴丸、伝曰、富沢日向直景所居、而高祖道祐、曾祖明岩、祖父直家、父直綱、五世相継住于此、其後、元和中、貞山公弟五男、伊達摂津宗綱居之、宗綱没後、至寛永四年、宗綱弟伊達筑前宗信居之、宗信歿後、石母田大膳宗頼居之、然其地漸崩、狭窄而不可居、故宗頼別卜地於塁下居之、今中村家所居是也。

近世岩崎の邑主は、本藩の一家、中村氏なり、旧号新田氏、元禄中、日向成義の時、始めて中村と改称し、本邑を賜る。其後、日向義景あり、藩主重村(徹山)斉村(桂山)周宗(紹山)三公に仕へ、文化中、周宗夭死し、弟斉宗(英山)襲封の際、効忠最大なり、今に仙台の人皆之を称す。○一書に曰く、中村義景は、重村の妹に尚し、壮年国務を執る、名望一時に揚る。寛政八年、斉村の早世するや、遺子二人あり、共に甫めて一歳、長周宗封を襲ぐ、義景之を輔く。而も周宗年十四(文化六年)にして卒し、嗣なし。当時国宝、藩君年十七に満たずんば養子するを得ず、嗣なければ一跡を改易せらる。義景乃喪を秘して発せず、凡四年、其間、内に君公起臥病養の態を粧はしめ、外は大に政務の事に任ずる常の如し、輔相の辛労至れり。文化九年に至り、周宗の養嗣を幕府に乞ひ、同歳の異母弟を立つ、之を斉宗といふ。既にして、義景辞職隠居、以て世の視目を避け、天保中、寿を以て卒す、秩四千五百石。

補【岩崎】栗原郡○観蹟聞老志、東鑑三迫黒岩口、今岩崎也、○初崎観音堂在焉。

黒岩(クロイハ)
封内記云、岩崎邑黒岩館、天正十八年、木村伊勢守吉清家臣所居、名跡志曰、是乃東鑑所謂黒岩口也、土人曰之黒岩舘、中古富沢日向居之、去鶴丸西三町余。○管窺武鑑云、天正十九年、葛西大崎再一揆起り、木村伊勢、居城の佐沼、我持の三ノハザマ迄攻落ちれ候。○按、三迫の名族富沢氏の事は、下の鳥沢の条に注す、明応中の薄衣状、富沢河内守は、胆沢郡の柏山伊予守重朝に殺さると載せ、天文中の古川状には「天文三年、新田古川等叛、富沢亦叛、倒戈撃処々、放火以至鶯沢城、我兵巳喪三百余騎」云々。

三迫(サンノハザマ)
古人専指して三迫といへるは、黒岩口、津久毛橋と見て大差なからん。文治五年八月、「泰衡郎従、於栗原、三迫、黒岩、一野等要害、雖蠣鏃攻戦、強盛間、奉防失利、為宗之者、若次郎者、為三浦助被誅」といへるにて悟らる。其後、三迫は、三浦一門の和田義盛の知行地なりしに似たり。建久元年、「和田義盛滅亡之後、勲功賞、賜陸奥国三迫、藤民部大夫」云々。藤民部とは、二階堂行政なり。又、台記に見ゆる高倉庄も、三迫の地なり。

吾妻鏡の三迫合戦に、若(ワカ)次郎と云ひ、延喜式、栗原郡に和我神社あり。今、若柳の辺なる有賀村に、御賀八幡宮あり、若氏、并びに和我神社に参考せらる。予章記、河野通信、文治五年、奥入合戦の時、阿津賀志山の先陣懸たりし軍功により、奥州三の迫を給り、亦喜多郡替として、久米郡を賜る、云々。

関城繹史云、興国二年(北朝暦応四)十一月、源顕信、将援小田、徴兵国中、官軍稍集、四日、賊酋石堂秀慶拒之三迫、六日、伝檄招相馬岩城等与党、与党赴会、顕信不能出援、〔相馬文書〕、三年三月、陸奥国府、為賊所拠、顕信未能復之、〔白河文書〕、秀慶堅扼三迫、拒顕信、故顕信亦不得来援、〔飯野文書〕、四月、顕信率結城親朝子弾正少弼顕時、撃秀慶于三迫、七日、九日、又数戦、〔白河文書〕、遂敗之、先是、秀慶築砦拠之、至是棄砦而逃、官軍稍振、〔阿蘇宮文書〕、顕信欲乗勢援常陸、謀之親朝、先是、足利尊氏遺書招親朝、廿七日、又致書云、降則土地官職如故、是以親朝思慮迷錯、不肯従顕信之計、而顕信亦不能来援、〔白河文書〕。○蒲生氏郷記云、天正十八年の冬、中納言様(豊臣秀次)、三迫まで御下向、九戸、櫛引、両人共に、於三迫生害させられ畢、扨、糠夫(ヌカノブ)中を、南部に被下、御仕置相済、中納言様、平泉被成見物、上洛也。○封内記云、稲屋敷邑古塁、一号稲瀬城、伝曰、森稲葉所居、古塚一、号九戸壇、天正十九年九月、九戸城主南部左近将監政実、於此地刎首、埋其屍。

補【三迫】栗原郡○観蹟聞老志、三迫東鑑に見ゆ、黒岩口、今の岩が崎駅是也、○岩ヶ崎町。
○ 岩崎、津久毛の辺か。又和名抄栗原郡の郷名の清水郷は今の栗原郡の一迫の清水村なり、栗原郷は二迫の栗原村なり、中村郷は三迫の中野村なり(会津郷詳ならず、三迫金成駅辺ならむと考へたり)皆一二三迫の内に存す、又延喜式神名帳の栗原郡の駒形根神社は栗駒山にあり、其他の六社も一二三迫の内。

高鞍(タカクラ)
台記云、仁平三年、去々年、厩舎人長勝延貞為使、下向奥州、先年可増奥州高鞍庄年貢之由、禅閤(忠痛)被仰基衡、(金五十両布千段馬三疋)基衡不肯増之、久安四年、禅閤以五箇庄譲余、同五年、以雑色源国元為使仰基衡曰、可増、高鞍、金五十両布千反馬三疋(本数、金十両布二百段細布十段馬二疋)大曾禰(オホソネ)、布七百段馬二疋(本数、布二百段馬二疋)本良(モトヨシ)、金五十両布二百段馬四疋(本数、金十両馬二疋預所分金五両馬一疋)屋代(ヤシロ)、布二百段漆二斗馬三疋(本数、布百段漆一斗馬二疋)遊佐(ユサ)、金十両鷲羽十尻馬二疋(本数、金五両鷲羽三尻馬一疋)基衡不聴、国元其性弱、不能責之、空以上洛、重遣延貞責之、去年基衡申曰、不得増所仰之数、可増進、高鞍金十両細布十段布三百段御馬三疋、大曾禰布二百段水豹皮五枚御馬二疋、本良金二十両布五十段御馬三疋、遊佐金十両鷲羽五尻御馬一疋、屋代布百五十段漆一斗五升御馬三疋者、仰日、三箇所(本良、遊佐、屋代)所申非無其理、依請、至高鞍大曾禰両庄者、田多地広、所増不幾、猶減本数、可進、高鞍馬三疋金二十五両布五百段、大曾禰馬二疋布三百段也、今日任此数、延貞持来三箇年年貢(久安六、仁平元年、二)然而返却不受、今年相合三箇年歟、受之、増年貢事、成隆朝臣高鞍預、俊通本良預、所勧進也。
この高鞍と云へる庄田、即、栗原郡内に拓かれしものにて、高倉郡と称へしも、旧庄名に出でしに似たり。又、郡内三迫金成(カンナリ)に、産金の伝説あり、高鞍の貢金に合考せらる。余目氏記録には、三迫高倉庄七十三郷と云ひ、専三迫に之を称へしを知るべし。

鳥沢(トリサハ)
今、鳥矢崎(トリヤサキ)村と改め、岩崎駅の北、磐井郡堺の地なり、鳥沢とは、岩崎黒岩口の館主、富沢(トミサハ)日向の旧里か。富沢、鳥沢は相近し。封内記に、鳥沢古塁、樋渡典膳所居云々。

伊達成実記云、天正十六年正月十六日、大崎へ被仰付、大崎に伊達御奉公は、氏家弾正、湯山修理亮、一栗兵部少、一迫伊豆、宮野豊後、三之迫の富沢日向、何も岩出山近辺の衆に候。

伊達世次考云、明応中薄衣状、有富沢河内守、蓋三迫領主、住岩个崎也。(左の文書なる探題は、大崎政兼にて、河内守も三迫の先代也)

探題、与富沢河内守、近日及弓矢、云々、太不可然候、不日可被廻無為計略、縦雖有意趣、関東進発之間者、惚別閣諸事、早速令出陣、可被致忠節之由、所被仰下也、乃執達如件、
   寛正六年五月十九日   尾張守(畠山政長)
    石川治部大輔殿〔集古文書〕

余目氏記録云、吉良畠山取合の時、竹城保長田陣に、葛西蓮せいの十六番目の子、富沢の先祖、右馬助とて、所帯の一所も不持、こうとう斗して候人、調義の忠節により、三迫とみさはの郷を給はる、其後、威勢弥益にて、典厩三迫高倉庄七十三郷、西岩井の郡卅三郷の主たり。

按、富沢典厩は、吉良畠山争奪の際に、家を起ししとすれば、正平(貞和観応)の比の人か。然らば、其蓮せいは、建武の比の人にて、葛西系図の清宗(法名明蓮)、清貞(法名円蓮)などか。されど、法名相合はず、清貞の孫満良(法名蓮昇)に擬すれば、時代合はず、疑惑あり。

沼倉(ヌマクラ)
今、松倉と合せ、栗駒村といふ。岩崎駅の西北三里、三迫川の峡谷中に在りて、最幽僻の境なり。栗駒岳は、更に村の西北五里に在りて、陸中磐井郡、羽後雄勝郡に跨がる。磐井、雄勝にては、之を酢川岳といふとぞ。
観聞志云、源義経墳墓、在沼倉村、義経自尽後、沼倉小次郎高次者、葬之此地、以立其陵墓、此地乃高次古館、址在上頭高山、称之弁慶峰、往昔、武蔵坊経歴之地也、弥陀堂長林寺、仏躯背後記曰「応永二年所建也」義経兵馬具、如今纔余隻鎧、雌雄瀑布、同村山中、雄瀑布直下十五丈余、畢由所謂「洞門千丈掛飛流、玉砕玉聯冷噴秋、今古不知誰惓得、緑蘿為月帯為鈎」者、宛然在目前、雌瀑従焉。(雄滝、一名行者)○安永書上云、安永七年十一月二十一日、同八年二月十日、松倉(マツクラ)山崩れ、数百間に及ぶ。

栗駒(クリコマ)岳
又、駒岳と云ひ、古名駒形嶺といふ。陸前北疆の重鎮にして、形勢最雄大なり。一迫川、三迫川之に発す。首峰を大日岳といひ、神廟あり。(鶯沢にも此山神を祭る)標高一千六百二十八米突。

栗駒の山中、舞玉倉に温泉あり、駒湯といひ、硫黄性、熱百零八度、元和中に浴槽を置く。新湯、更に其西一里、同性なれど、熱少下す、文化中の発見とぞ。沼倉の本村より駒湯に至る四里、駒岳の東峰(剣峰)の南渓中に属し、三迫川の遠源とす。〔鉱泉志、温泉志〕○安永書上云、駒湯、御役四百文上納、貞享二年より、湯元相立候。

封内記云、駒形山(コマカタネ)、跨于奥羽両州、自坎而東南至坤属本州、兌乾属羽州、俊嶮不可言、実東奥第一之高岳也、盛夏宿雪猶在、恰似斑馬、自東望之、南首北尾、自西望之、北首南尾、有斑馬駸々奔走於雲表之勢、故号之駒形山、或栗駒山、或駒岳、郷俗転称曰御駒山(オコマサン)、名跡志曰、山上多朴樹、頗美在而■貢国用、跨磐井郡五串邑、歌林所称栗駒山者是也、古歌多詠朴樹、如今山多朴樹、是亦其証也。

みちのくの栗駒山のほほの木のまくらはあれど君が手枕、〔夫木集〕(今按、栗駒山てふ同名は、山城国にもあり)真白にあし毛に見ゆる駒形根かんつよくして雪の早さよ、(これは、享保中の仙台侯吉村の興歌なり)山崎氏地誌云、栗駒山は酢川岳とも云ひ、二重式層状火山の一なれど、裾野の発達著からず、其の外輪山は、僅に南壁のみを存して、略、東西に亘れる連峰をなし、東端に大日岳あり、高さ千六百五十七米、実に火山中の最高峰たり、其の西方は次第に陵夷して虚空蔵山となり、其の北更に隆起して馬糞森(千二百十八米)を生ず、外輪山の北半壁は、全く崩壊して其の痕を留めず、又、一部の剣山の噴出物の為めに破られたり、剣山は、大日岳の北に位せる中央火口丘にして、高さは大日岳に劣り、千百米を有するに過ぎず、久年の削除剥作用によりて、円錐状の原形を失ひ、頂には火口を存せず、其の北腹に、八幡及び極楽野と称する所あり、幾多の噴気孔此処散在して、硫黄堆積夥く、今其傍に鉱業所を設け、之を採掘し、鉄索によりて直ちに東麓(十数粁を隔つ)水山に輸送す、外輪山の南側には大神森(八百九十五米)、上下山の二寄生火山、南北に相並び、何れも円錐状をなすも、火口を有せず。

駒形根(コマカタネ)神社
式内に列し、文徳紀、仁寿元年、陸奥国駒形神加階の事見ゆ、即是なり。今、栗駒山中に、其奥院を説き、里宮は沼倉村、并びに花山村に在り。
封内記云、沼倉邑駒形根神社、或曰御駒宮、或曰大日社、在奥羽之界駒形之巓、大日岳、伝曰、日本武尊東征之時祭之、以為東国鎮寧之祈、所祭之神、天常立尊、国狭立尊、左右、大日■尊、中、置瀬尊彦火尊、左右、吾勝尊、中、謂之駒形峰大明神、或云駒岳神、一二三迫西磐井羽州雄勝郷、凡百八十六邑総鎮守、而延喜式本郡七座之其一也、在山上称岳宮、山路嵯峨、且秋季新雪埋渓、里民難■登、故造営里宮於東麓、常敬拝之、上古有四大宮司三十禰宜六十社家、今悉闕、其家名姓氏僅存鈴杵家一人、別当修験観常院。(安永書上云、修験峰雲院)

東鑑、建久元年三月、大河次郎兼任、歴華山千福山本等、越亀山、出於栗原寺、云々。この兼任は、出羽にて兵を挙げしなれば、千福は即山北(センボク)なるべし、亀(カメ)山といふは、もしくは神山の義にて、駒形根を指ししにあらずや。

栗原旧地考云、栗駒山大日岳の西に、数丈の岩壁そびえたる所にしも、岩くら有て、之を奥の院といひ習はせり、此の所、毎春雪解の頃に、残んの雪の形、駒の姿をあらはす、云々。○大槻氏云、胆沢郡、和賀郡の境にも、駒岳ありて、其山に分たんがため、栗原郡には、郡名の一字を冠せ、栗駒と呼びしか、出羽の雄勝郡にては、此山を酢川岳といふ。

三迫(サンノハザマ)川
二迫川の北に并行する一渓にして、栗駒岳に発し東南下す、岩崎、津久毛を経て、沢辺駅の南を流れ、大林、姉歯の間にて、他の一二の両迫と相合し、即、単称、迫川となる、長凡十里。

平形(ヒラカタ)
今、猿飛来(サツヒライ)、大原木、小堤等を相合せて、津久毛(ツクモ)村といふ。岩崎駅の東一里、沢辺駅の西一里、三迫川の偏岸とす。栗原寺の北に連なり、古史に松山道といへるは、此間より磐井郡へ通へる者に似たり。(此地より平泉まで凡七里)

東鑑云、文治五年八月廿一日、甚雨暴風、追泰衡令向岩井郡平泉給、而泰衡郎従於栗原三迫要害、雖蠣鏃攻戦、強盛間、奉防失利、為宗之者、若次郎者、為三浦介被誅、爰二品経松山道(マツヤマミチ)、到津久毛橋、梶原平二景高、詠一首和歌之由申云、

陸奥の勢は御方に津久毛橋渡して懸ん泰衡が頸、祝言之由、有御感、云々、泰衡過平泉館、猶逃亡縡急、而雖融自宅門前、不能暫時逗留、纔遣郎従許、件館内高屋宝蔵等縦火、杏梁桂柱之構、失三代之旧跡、麗金昆玉之貯、為一時之新灰、倹存奢失、誠以可慎者哉。

封内記云、平形邑、江浦藻山信楽(シンギヤウ)寺真言宗、伝曰、泰衡陣営之地也、有古碑、高三尺六寸、広中五寸許、厚九寸許、記云「正応六年二月廿日」左書「石刀現宿」右書「帰真密方」江浦藻(ツクモ)橋、頼朝卿征伐泰衡之時、梶原所詠和歌、膾炙人口、観聞志曰、金成駅五町余、大悲閣下、有水流三迫河、架一土橋、津久毛橋是也、橋西、平形邑以東、跨南北、上有古館址、立石刻銘、記曰「泰衡之墓」高四尺五寸、石面上有梵字、下書「承保六年二月廿日」左方記曰「密方敬白」、橋畔是文治古戦場、城湟殊深、士卒憂之、投江浦藻踏而攻城、城遂陥、仍名江浦藻橋、以正応為承保、蓋以訓音相似而誤之乎、玉造郡上野目邑、亦有号津久毛橋、未知孰是。

大原木(オホハラキ)
今、津久毛村の大字とす。○安永三迫書上に、大原木村、牛頭(ゴヅ)社別当、善性院の文書とて、十七通の目録あり、不信のものに似たり。平泉毛越寺の文書にも大荒木あり、猶考ふべし。

毛越寺往古之寺領、三迫三拾三郷之内、大荒木村、神社寄進状写、
   敬寄進
  八幡宮御神田御こく田松木弐反
  五頭天王御神田弐段ひはため 合四段者
右、神は人の敬によつて位をまし、人は神のめぐみによつて、徳をます、内大臣大僧都御坊代として、成清寄進したてまつる、子々孫々にいたるまで、このむねをまもりて、知行あるべき状、如件、
   建武二年十二月二日 若狭中務兼藤原成清
     平泉毛越寺権別当

小堤(ヲツツミ)
今、津久毛村の管内なれど、三迫川の南岸にして、営岡、栗原寺の北一里、沢辺金成の西一里許、旧名松山ともいへり。

陸奥話記云、康平五年七月廿六日、発国、八月九日、到栗原郡営崗(原註、昔田村麻呂将軍征蝦夷之日、於是支整軍士、自其以来、号曰営、塹迹猶存也)云云、十六日赴松山道、以南磐井郡中山大風沢。

復軒雑纂云、松山道とは、栗原駅を過ぎて、其北、小堤村に松山といふ地あり、(三迫川の南岸)此地を歴る道なれば、称したりと思はる、津久毛橋は、小堤村の北稍西なる平形村、岩崎村(岩が崎にはあらず)の境、三迫川に架せる土橋是れなり、又、陸奥話記に「松山道以南磐井郡」とある以南は、以北の誤なるべし、磐井郡の中山、大風沢、未だ考へず。

永正十一年の余目記録に「かまくら殿、文治五年に御発向有て、秀衡たいぢし、平泉まで御下向候て、御帰に、三迫おつつみ松山と申所に、御陣をめされ、両国を日本の諸侍に御配分、云々」など見ゆ、又、封内記風土記の小堤村の条に「野山中有号陣場地」とあるは、頼朝の陣所なりしにか、観迹聞老志に、今の志田郡の松山町を、吾妻鏡の松山道と見たるは、地理隔絶して、更に当らず。

今按、松山道の前程は、中山を越え、南磐井郡大風沢といふに達せるならん。陸奥話記「以南磐井郡中山大風沢」の以字は、蓋、出字の誤のみ、松山道以南と読むは、句法を失ふ。されば、中山、大風沢とは、今の赤児、普賢堂、もしくは藤渡戸の辺の旧名にて、西磐井郡の南偏なる、流郷(ナガレ)の属なりしと悟らる。

追考、扶桑略記所引陸奥合戦記「赴松山道、次磐井郡中山大風沢」とあり以字は次の誤なること決せり。

沢辺(サハベ)
今、沢辺村といひ、小迫(ヲハザマ)、姉歯をも合す。三迫川に縁り、小駅家を成し、築館を去る二里半、岩崎の東二里。

入沢辺山中、左顧西北諸山、積雪如銀、始知身落東陬万山之中、為之凛然胆寒、

客跡初驚落奥陬、峭寒凛凛襲征裘、朔風吹送夜来雪、一掃群峰為白頭、   磐 渓

陸奥千鳥云、一之関通り、金成村へ出づる、此村一里脇に、つくも橋あり、沢辺村より十五丁南、川向に、あねはの松あり、即此辺を栗原と云ふ、宮野、築館、高清水、段々宿を過ぎ来て、荒谷といふ。○封内記云、沢辺邑、有市店而駅也、有号上林青大寺門前地、随洞山全慶寺、曹洞宗、仙台府下宮沢宗禅寺末寺、寺伝曰、文明六年、宗禅寺第三世通屋和尚開山。○観聞志云、小迫(ヲハザマ)大悲閣、号小迫山正大(シヤウダイ)、縁起曰、是寺、坂上将軍俊宗所創立、俊宗討賊于佐沼山中、而殪焉、■之構一堂、上安大士像、名号大武峰、戮其余党於七処、其一曰箟峰、其二曰湊津牧山、其三曰水越長谷、其四曰鱒淵華足、其五曰南部三閉、其六小迫、其七富山、各建閣以為護国鎮守。

姉歯(アネハ)
今、沢辺村の大字にて、三迫川を隔てて、其南とす。三迫川、此地の東にて、一二の迫川と相合ふなり。
十符菅薦、梨崎(ナシサキ)村といふに、姉羽の松ありと聞きて、たづぬれど、その木とさしていふ人もなし、道の辺に、少女もふり袖袴にて、なまめかしく装ひたり、昔を思へば、伊勢物語に「くりはらの姉葉の松の人ならば」とよめるは、松を女によそへて、人めかしくば、都にもいてかへらん者をと云るなり、さるを、かく都はづかしきばかりの姿形したるが多きは、開けゆく御代の、恵みの露におひ出し、をみなへしども、なればなるべし。○観聞志云、姉歯松(歌枕作姉場、松葉集作姉葉、藻塩草作阿礼葉、今従夫木集)、去沢辺東十二町余、在梨崎村、有長松樹是也、古松乃四十余年前枯槁、其松五葉、後人継而所植新松也、古老相伝、是乃松浦佐用姫者之姉某墓上松也、或曰、小野小町姉也、往昔有寺号松語山龕蔵寺、是乃妹子為亡姉所建精舎也。

むかし、をとこ、みちの国に、すずろにゆきいたりにけり、そこなるをんな、京の人はめづらかにやおぼえけん、せちにおもへる心なんありける、さてかのをんな、

中々に恋にしなずはくはこにぞなるべかりける玉の緒ばかり、

歌さへぞひなびたりける、さすがにあはれとや思ひけん、いきてねにけり、夜ふかく出でにければ、女夜もあけばきつにはめなんくたかけのまだきに鳴きてせなをやりつる、

といへるに、をとこ京へなんいぬるとて、

くりはらのあねはの松の人ならば都のつとにいざといはましを、

といへりければ、よろこびておもひけりけりとぞ、いひをりける、〔伊勢物語〕

按前後二首及終篇、詞皆所述方言、而可以視往時郷語之実矣、又審、往時雖里婦之賤、亦能做風俗以述其情、於是始知、遺国風于此歌、而王化之及辺塞、在茲也、第一首之意、与明沈明臣宮怨詩「縁満南園桑葉肥、香風欲尽柳花飛、妾生不及呉蚕死、留得春糸上袞衣」者、略相似、能写得情実也、

松樹以南、有古塁、泰衡家臣姉歯平次光景之故墟也、館下水田、往古称東奥道(アヅマカイダウ)者也、去松下東南十二三間、有巨石、上有紋理、如布、往昔、義経経過此地、聊憩于石上、而伸旅鬱之地也、曰腰掛石、八幡叢祠、松樹西北、在梨崎村、荒廃巳久、姉羽古松摧為三断、郷人納一段于社中、以為後証焉、今猶存。
   みちの国にて、あねはのはしを、
  くちぬらんあねはの橋もあさなあさな浦かぜふきて寒き浜辺に、〔歌枕〕 能因 法師
名跡志云、姉歯松、道路有小橋、土人今曰之山王琵琶橋、去松巳五町、按、能因東行親見之人也、考歌曲、則与此地異矣、想夫海畔別有称姉歯者乎。○義経記云、出羽の国、かなよりの地蔵堂、かめわり山を越えては、昔の出羽郡司が娘、小野の小町と申者の住候ける、玉造むろのさと(今按、むろとは今知れず、めふの里あり)と申所、又、こまちが関寺に候ける時、業平の中将、あづまへ下り給ひけるに、妹のあねはがもとへ、文かきて言づてしに、中将下り給ひて、あねはを尋給へば、空くなりて、年久しく成ぬ、墓に植たる松をこそ、あねはの松とは申候へと申ければ、中将、あねはが墓に行て、松の下に文を埋めて、よみ給ひける歌、
 くり原やあねはの松の人ならば都のつとにいざといはましを、
とよみ給ひける名木を御覧じては、松山(マツヤマ)一つだにも越つれ、秀衡がたては近く候、理にまげて此みちに掛らせ給ふべし、と申したり、云々。

金成(カンナリ)
今、金成村といひ、畠(ハタ)をも合す、沢辺の北半里。金成の北に嶺脈東西に延亘し、地勢自限る。蓋、古の栗原、磐井の郡界是なり。今、嶺外の萩野村(有壁)をも、本郡の管内とするは、之と相背けり。
  圃山碑(炭工藤太者、鑿金鉱致巨富、仁安年三月十七日歿矣云)   関元龍

断碑苔蝕圃山隅、云是炭工藤田夫、試問黄金鎔治跡、花飛春色満平蕪、
(安永書上によれば、畠村の炭焼藤太碑は、正徳五年、仙台大年寺僧鳳山の撰文にて、此地に、古へ産金せる旨を録す。栗原郡の附説、高倉、高鞍を合考すべし、即、台記に見ゆる高鞍金の産地か)

封内記云、金成邑、有市店而駅也、有号翁沢地、八幡宮、康平五年、源頼義勧請也、鬼渡(オニワタリ)大権現社、大同中、坂上田村麻呂所勧請也、不詳何神、古塁凡三、号東舘西舘南舘、伝曰、金売橘治兄弟三人所居、其後旧邑主金成内膳居南舘、泉一、号髪長泉、古昔翁之仮面浮出水上、呼其地曰翁沢、今其仮面蔵於隣近小迫邑勝大寺、畠邑金山沢、金売橘治之父藤太焼炭、橘治鑿出黄金之地、小■(コツマ)川、源出自石名坂、至佐沼三方島会迫川、古昔、京師縉紳家姫子、蒙清水観音之霊夢、而到此地、為藤太之妻、生橘治兄弟三人、其初来時、渡此川濡其■、故名之。○甲子夜話云、金成村八幡宮境内より、嘗一鈴を掘出す、重八文九分、八字を刻す「福寿延長、子孫盛栄」の文也、伝言す、彼地は往昔金商橘次信高の宅趾にて、義経の遮那王と申せし時、共に下向此地に置き、尋て秀衡に寄託すと、地は古銅と見え、上金の焼つけなるべし、金色今に存す、内の鳴丸は鉄なり、(近藤重蔵談)。○太田南畝の一話一言に、金田八幡宮記録といふを収む、蓋、近世無識の巫祝輩の雑語にして、最妖誕に属すれど、其大意を録して異を広む。

延暦十四年、坂上田村丸、奥州霧機(キリハタ)山の賊を誅せし後、遺賊高丸(悪路王の子)なほ徒党を集むるに因り、同二十年、田村丸再征伐として下向、金成邑に屯軍の時、神に祈り多くの沙金をほり得、料足乏しからず、以て兵旅を賑はし、終に高丸を誅せらる、因りて、此地を金田の里と号せしめらる、大同二年、田村丸重ねて下向、此地に金神(金山彦)の宮社を造営あり、之を金田明神といふ、(即、今の八幡宮の地主神也)時に、神化現して告りたまはく、吾は仁和多利(ニハタリ)神なり、又、水渡(ミワタリ)と云ひ、海を渡す船玉也、又、山川万里を直ちに走せ渡る故に、鬼渡神と申す、太古には岐神(チマタ)とあらはれ、猿田彦とも申しき、本地は大悲千手観音也。

今按、庭渡神は、白河関以北、奥州諸郡、到る処に之を祭る、其由緒縁起、紛紜として、帰着を知らず。而も、綜合して之を考へ、条理の存在を推し求むるに、畢竟するに、道祖、即、岐神にして、古書に阿須波の神といへるに同じ。万葉集上総国防人の歌に、
 にはなかの阿須波の神に小柴さし吾は祝はむかへりくまでに、
とあるを明証す。此事は、既に、下総国印幡郡公津の阿須波神社、東葛飾郡船橋の龍神社の条に所見ありて、古へ、道祖には、小柴さして旅行の安全を祈るを風俗とす。されば、式内宮城郡志波彦神社、栗原郡志波姫神社を初め、名取郡笠島の道祖神、黒川郡志戸田の柴社、いづれも同神と聞こえたり。此神は、庭中に祭るを法とせるが故に、又、庭辺(ニハアタリ)神とも称へられしか。是れ新案に出づと雖、古義に庶幾からん。

庭辺を、庭渡、庭鳥、鶏、新渡、仁和多利、海渡、鬼渡、身渡、水渡、など、所在に異書訛言を見るも、もと一語に出でしのみ。

僧祝の徒、これを本地観音と為し、或は船玉神、金山神に援引するは、多岐亡羊とやいはん。阿須波神は、古事記に、大年神の子、庭津日(ニハツヒ)神の同胞とす。庭津日は、庭辺の義なれば、庭渡(ニハアタリ)と同言と謂ふべし。万葉に「庭中の阿須波の神」とよみて、二神を一神とするも是の故ならん。

補【金成駅】○十符の菅薦、金成駅に田村万呂の大同二年に建しといふ観音堂あり、昔此人の蝦夷をうちしとき、栗原郡のうちにて軍をととのへし所を後に営岡と名づけし由なり、源頼義の安倍貞任らを滅し折も、そこよりいでたちたれば、ことなる要害の地なるべくそはおほかたこのわたりにやと思ひて里人に問へど、知れる人なし。

大林(オホハヤシ)
今、福岡と相合せて、大岡村と改む、沢辺の東南一里、若柳に至る間、迫川の北辺にて、稍市巷を成す。水南は伊豆野(志波姫村)刈敷とす。
安永年中三迫風土記書上に、大林町、武鑓町、伊豆野新町など見ゆれば、亦一名邑とす。

会津(アヒヅ)郷
和名抄、栗原郡会津郷。○今、志波姫、大岡、若柳、有賀など、栗原郷仲村郷の東にして、磐井登米に隣接せる地ならん。和名抄郡郷考に「神護景雲二年十二月、勅、陸奥国管内、及他国百姓、楽住伊治桃生者、宜任情願随到安置、依法給復」とあるを引き、会津郡の遷住民の建てしならんと云へり。

有賀(アリガ)
今、武鑓(ムヤリ)を合せて、有賀村といふ、金成の東半里、若柳の西北一里。夏川(一名、小妻川)は、金成の方より来り、村中を貫き、迂曲して登米郡石越村へ入り、迫川に帰す、長八里。
此辺に、吾勝庄の称あり、由来を知らず。有賀八幡に、御賀(オガ)八幡の伝説ありて、もしくは、式内栗原郡和我神社の遺号にあらずや、和我訛りて御賀とも為らん。○封内記云、有賀邑、古塁凡二、其一、伝曰、延喜中、藤原利仁将軍之陣営、而号裴城、明応中、大碕家臣菅原兼長居之、天文二年三月、兼長移于本邑田子屋城、同家臣高玉茂兵衛居之、弘治二年秋、高玉移于本郡福岡城、同家臣田野崎玄蕃照道居之、元亀以来、大碕葛西相争、年々有戦、天正元年三月、大碕兵敗績、田子屋城主菅原掃部助長国(右馬兼長孫)戦死、当城照道亦降、三迫之地悉為葛西之有、其家臣渋谷式部居之、其二、在御田島、号田子屋城、天文以来、大碕家臣菅原右馬助兼長居之、天正元年、其孫掃部助長国、与葛西戦而死之、葛西家臣尾形新左衛門居之。

若柳(ワカヤナギ)
今、若柳町といふ、人口八千、沢辺の東二里、佐沼の北三里、迫川の両岸に渉る。此四近方三里許の低平を見るべく、田野頗広し、標高は約十一米突、地勢最卑、石越停車場(登米郡)の西一里。

貿易備考、若柳村に蚊■を出す、東京大坂及び近国に販ぐ、(蚊■一年製額、約一万二千張、此価金四万二千円)安永五年、村人三浦兵左衛門といふ者、近隣に麻を産するの多きを見て、蚊■を製するに利あるを察し、藩主伊達氏に請ひ、若干の資金を得て、其業を創め、年を逐ひて盛大に赴き、以て今日を致せり。

若柳川とは、迫川の別名にて、迫川は、此地以下、小舟を泛ぶべし、即中游に属す。○観聞志云、新山(シンザン)古館、在若柳村駅口、嘗言、太古此山一夕涌出、仍曰新山、河上架橋、通于福岡、此地後属葛西、与大崎■接兵、山南出野義隆兵日強、葛西弟寺崎式部大輔、令家臣千葉豊後、移此而守之、其先在磐井郡峠村北館、豊後裔降民間、在若柳村世能守家業。○安永書上云、若柳町、高五百五拾九貫文、町人弐百八十二軒、村人弐百八十四軒、但し、寛永年中、百姓八十五軒、唯今男女合三千三百八十人、元町は、慶長三年、中町は寛永十五年、新町は慶安二年、片町は元禄十五年、川南町は明暦十五年、相立申候。
 

 栗原郡 終



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