中尊寺東物見からの冬景色



中尊寺東物見からの冬景色
(白鳥館箱石橋方向、背後に蓬莱山が見える 佐藤06年1月4日撮影)

奥州の冬の美しさは格別だ。中尊寺東物見には、数え切れないほどの人間がやってきた。ここから奥州の山河を眺め何を感じただろう。その中には、坂上田村麻 呂や源頼義やその子義家、それから時代を下り源義経などの武人もいた。彼らにとって、奥州の山河は、美しいというよりは厳しいものだったのではなかろう か。白い雪は、彼らの行く手を阻み、命の危険を感じさせ、義経に至っては、この奥州の原野のなかで命果てたのであった。奥州人は戦の度ごとに、自国の権益 と家族を守るために必死で戦い、そして死んでいった。その度、どれほどの血と涙が衣川に流れ北上川を下っていったことだろう。

武人でない旅人はこの地で何を感じたか。ただ美しいというのではないはずだ。人それぞれに感慨はあろう。もののあはれを知る西行法師は、この地にやってき て真冬の奥州を悲しくも美しいと感じ、

 とりわきてこゝろもしみてさえそわたる衣 川みにきたるけふしも

と詠んだのであった。何故、西行の心にさえ渡る冬の寒さが心に深く滲みたのであろう。衣川で起きた過去の戦か、それともこれから奥州が滅びるかも知れぬと いう不吉な予兆があったためか・・・。その後も文人墨客(ぶんじんぼっかく)は相次いでこの地を訪れ、様々な詩歌を詠み、山河を描いたのである。滅びから 五百年後
(1689年)の夏に訪れ、「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだ松尾芭蕉もいる。

江戸時代の後期、奥州を旅し旅行記を遺した菅江真澄(1754ー1829)は、「雪の胆沢辺」で、奥州の冬をこのように詠んだ。

 
みちの辺の氷る美雪を踏みしだき行く旅人の声寒げなり

冬の陸奥路を歩く、旅人の足音が聞こえてきそうな歌だ。奥州の冬の厳しさは格別である。しかしそれ故に、名だたる武人をも退け、独自の文化的発展を遂げて きたのである。頼朝はそんな奥州を自己の配下にしようとした大盗賊である。宮沢賢治(1896−1933)はそのように考え、次のような詩をしたためたの である。

 文語詩 中尊寺〔一〕

 七重の舎利の小塔に    
 蓋なすや緑の燐光     
 大盗は銀のかたびら    
 おろがむとまづ膝だてば  
 赭のまなこたゞつぶらにて  
 もろの肱映えかゞやけり  
 手触れ得ね舎利の宝塔   
 大盗は礼して没(き)ゆる  

確かに文治五年(1189)夏、奥州は源頼朝によって滅ぼされた。しかしその奥州の精神は、征服など一度もされて いない。それは井上靖が「黄金の小函」と呼んだ金色堂の周囲で今も脈々と鼓動を続けている。厳しい冬の一日、冬将軍のような地吹雪が、中尊寺東物見眼下の古戦場を吹き荒(すさ)ぶのを見るにつけ、そう思 うのである。

 月見坂息を切らして登り来て雪のみちのく 山河に出会ふ



2006.12.1  佐藤弘弥

義経伝説
思いつきエッセイ