冬の平泉に芭蕉を思う

2006年1月4日、極寒の平泉中尊寺を詣でた。そこで芭蕉と平泉の出会いを改めて考えてみた。




中尊 寺弁慶堂
2006年1月4日 佐藤撮影

【中尊寺弁慶堂】

松尾芭蕉は、門弟の曾良を連れ、義経の死から五百年後、平泉を訪れた。高館 に登り、出来たばかりの義経堂を参詣し、茫然自失して夏草の山河をしばし眺めた。

これからは私の想像だが、芭蕉は気を取り直すと、田野の中に松林だけが面影を留めるる無量光院を左に見て、中尊寺の山門の前に着く。地元の案内の者が、 「ほれ、あれが弁慶の墓として伝わる五輪の塔です」と言うと、芭蕉は懐からやにわに数珠を取り出し懇ろに揉み弁慶の御霊に祈りを捧げた。山門をくぐり、月 見坂の急坂を息を切らして登ると、杉の木立からは湿った夏の風が優しく芭蕉の頬を撫でる。

石造りの弁慶堂の鳥居が芭蕉を義経記の世界に再び誘うのだ。芭蕉が「この鳥居は弁慶らしい豪壮な風情があるな」と言うと、「そうでございますなあ」と曾良 が感心する。案内の者が、「どうぞ、堂のなかをごらんください」と言えば、そこには座って甲の緒を締め、部下に戦の指示を出そうとする義経と、その前に 立って主君を護ろうとする大きな弁慶像がある。側には、弁慶が自らで彫ったとされる手彫りの弁慶像も置かれている。 芭蕉は弁慶堂のことについては、何も語っていない。少しばかりふしぎな感じがする。


新年の中尊寺金色堂

中尊寺金色堂の冬
2006年1月4日佐藤撮影

中尊寺金色堂で芭蕉は何をみたのか?

中尊寺に来て、芭蕉はいったい何を見たのか。少しばかり考えてみたい。

ここで芭蕉は、さや堂に包まれた金色堂を息を詰めるようにしてじっと見た。

さや堂が造られる発端は、吾妻鑑、健保元年(1213)四月四日の条の次の怖いエピソードにあ る。それまで金 色堂は、さや堂のようなものはなく、馬の背のように南北に延びる関山中尊寺の西南の一角に直に立っていた。ところが奥州藤原政権が政子の夫頼朝に滅ぼされ てからというもの風雨風雪に曝され、傷みがひどくなった。すると恐ろしいことに、秀衡と思われる甲冑姿の法師が政子の枕元に立って、金色堂と平泉の荒廃を 嘆いたというのである。信心深い政子は、直ちに命令を発して、傷みの激しい金色堂をさや堂にて覆って秀衡の悲しい訴えに応えた。

原文を訳してみる。

陸 奥の平泉の寺塔が破壊している事について、修復をすべき旨、本日相州より命令書を、陸奥郡内の 地頭等に下された。実はこの件は、昨夜、甲冑姿の法師一人が、尼御台所(政子)の夢に現れて、『平泉の寺とわが陵(墓)の荒廃、まことに遺恨に思うなり。 そちらの御子孫の運の為にも一言申し上げるために現れたる次第』などと言ったということである。目覚めた後、この儀の詮議に及び、ある者は『三日は秀衡法 師が亡くなった月命日に当たりますので、おそらくは秀衡公の霊魂かと思います』と言えば、別の者は、「それでは秀衡公が甲冑を着けているのはどうもおかし いのでは・・・」などの議論があって下されたものであった」 (現代語訳佐藤)

現在中尊寺に残っている旧さや堂は、政子の時のものではなく、正応元年(1288)の大修理で建てられたものと思われている。芭蕉が見たのも、結局このさ や堂であった。その後も、さや堂と金色堂は何度か、鎌倉政権や江戸時代になると伊達政宗によって修復がなされたこともある。最近では戦後昭和37年より昭 和42年にかけて大修復が行われ、古いさや堂に代わってコンクリートのさや堂が金色堂を護っているのである。

ともかく、金色堂は浄土を観想する阿弥陀堂というばかりではなく、何よりも藤原三代の霊廟であり、中尊寺の信仰の中心である。奥州藤原氏は滅び去ったが、 中尊寺を建立した初代清衡が込めた思いは、今も脈々と息づいているのだ。


旧さや堂

松尾芭蕉も 拝んだ金色堂の旧さや堂
経堂別当の住む西谷 坊より
2006年1月4日 佐藤撮影


芭蕉はこの金色堂に入って、時の流れを感じた。一番最初に芭蕉は次のような句を思いついた。

五月雨や年々降りて五百たび

芭蕉は奥州が滅び去ってから500年という気の遠くなるような歳月が流れたその時を見つめているのである。奥州の主人だった藤原氏は滅んでも、ふしぎなこ とにこの中尊寺とその象徴である金色堂は営々として護られてきた。ここには敵も味方もない。これを未来に伝えて行かなければという暗黙の何かがそこにはあ る。それがこの6m四方の空間を雨露から防いできたのである。

芭蕉は遂行を重ね、

五月雨の降りのこしてや光堂

とした。

芭蕉が訪れた時にも、光堂はお世辞にも今のように美しく輝いていたわけではない。しかし芭蕉は、この光堂が永遠にこの奥州の地に存在することを確信した。 芭蕉は本文で次のように言っている。カッコは私が付け足した文である。

か ねてより、驚きをもって聞いていた経堂と光堂の二堂は開帳していた。経堂は、三将の像(肖像か?)を遺し、光堂は三代の棺を納め、阿弥陀三尊を安置してい た。(しかしながらさや堂が造営される前に光堂は見る影もなかった。)七宝の輝きは失せ、宝玉をちりばめた扉は破れ、金の柱は霜雪に朽ち、そのままでは頽 廃して空虚の草むらとなりかけていた。その時、(北条政子は秀衡公の夢告によって)光堂の四面を囲み、その甍を覆った。その為に風雨を凌いで永遠の記念 (かたみ)となったのである。」(現代語訳佐藤)

こうして改めて読んでみると、芭蕉は現在の中尊寺金色堂というよりは、金色堂の歴史ドラマに焦点を当てて、その永遠なる美を観ている感じがする。芭蕉が北 条政子の枕辺に秀衡の霊が現れたのを知っていたかどうかは分からない。ただ、さや堂を直に見た芭蕉がこの小さな四面の永遠のものが秘められていることを直 観的に感じ取って推敲の極みともいえる「奥の細道」の行間にそっと潜めたことは明白だ。きっと芭蕉はユネスコ世界遺産の精神にも通じる永遠なる美を観たの である。


旧さや堂の前に立つ芭蕉の銅像

旧さや堂の前に立つ芭蕉 の銅像

さてこの経堂は、曾良の日記から経堂の主(別当)が留守で開帳されておらず内部は見ていないことが明らかになっている。芭蕉が見たものは光堂のみでこの段 はフィクション であったのである。また経堂には三将の像はなく、肖像であれば毛越寺にあるが、中尊寺の経堂にはない。像(肖像?)に関しては、聞き違いであったかもしれ ない。

しかしあの緻密な芭蕉が、何度も推敲に推敲を重ねて遺した「奥の細道」だけに、二堂とも開帳しているということでなければ、中尊寺を表現する美の感性に合 わなかったのだろう。それよりも、今眼前に見えるものの奥の奥の奥底に深遠なる精神をみる芭蕉は流石である。

関山の小さき四面に永遠のもの観じし人の銅像 おろがむ


2006.1.6 佐藤弘弥

義経伝説
義経思いつきエッセイ