「義足でチョモランマ登頂」報道に思う
−山はいつも人を試す−
「両足を失った登山家が義足で世界最高峰チョモランマ(8850m)に登る」という快挙が世界中のマスコミを賑わせている。この人物はニュージーランドの
マーク・イングリス(47)という人物だ。現地時間五月十五日早朝。山頂から450m下のベースキャンプから地元シェルパやガイドら40人と共にアタック
を開始し、夜に無事登頂に成功したとのことである。もちろん義足によるチョモランマ登頂は世界初の快挙である。実に四十日間に及ぶ苦闘の末の出来事だっ
た。
ところが、この清々しい報道のすぐ後で、こんなエピソードが流れて、一瞬冷水を浴びせられたようになった。それは山頂付近で動けなくなっていた登山家がい
たのを放置したままでの登頂成功だったというのである。その後放置された登山家は酸欠により死亡をしている。
確かに四十人の登山家が、いたにも関わらず、その中の誰一人として、瀕死の人を救うために、「俺はこの人物を抱えて山を下りる」という者が現れなかったの
は悲しい現実だ。チョモランマ登頂のための苦労を考えれば、快晴という好条件を逃せば、今までの努力は水疱に帰してしまう。だから誰もが前を向いて、チョ
モランマの頂上を目指したということだろうか。
登山においては、しばしば人間の欲望がむき出して出てしまうことがある。ごく一部のエリート登山家を支えるために、多くの人のほとんど評価されない努力が
ある。かつて世界の登山隊の一員として選抜された植村直己は、アタック隊のために、せっせと食糧などの荷を負って何度もベースキャンプ間を往復した。そん
なこともあって、エゴがむき出しになるグループによる登山を避け、たった一人での登山を試みるようになった。
おそらく、今回の登山隊も、マーク・イングリス氏のために資金が募られ、世界初の義足によるチョモランマ登頂という大命題が掲げられ、マスコミからすべて
が、そのために動いていたことだったのだろう。良く解釈すれば、きっと幾人かの人々は、本当に瀕死の人をここに置き去りにしていいのか、という心の葛藤が
あったに違いない。
この快挙報道のすぐ後に、このような残念な報道が続いたのも、置き去りにしたという良心の呵責のある誰かが、ニュースをそっと配信したのかもしれない。
チョモランマに登るというのは、世界中の登山家にとって、最高の名誉のひとつであり、絶対に達成したい目標であるに違いない。しかし登山家である前に、一
人の人間としての良心があるならば、少なくても、四十人のグループの内の何人かは、目の前の瀕死の人間を担いで、降りることの方が、栄誉なことであること
を理解すべきだった。
1953年、当時エベレストと呼ばれたチョモランマに最初に登ったイギリスのヒラリー卿は、現在も顕在で86歳の高齢になっているが、この件に直ちに反応
し、「男性を何故救わなかったのか」と批判をした。それに対して、イングリス氏は、「自分たちに出来ることは何もなかった」と反論している。
私はヒラリー卿の見解を支持する。人間は極限の状況においてこそ、自分を試される。40名もの大部隊を引きつれての登頂はさながら、エゴと名誉を背負った
台本仕立てのドラマだ。しかし常に自然は、そんな愚かな人間の本質を見抜いていて試すのである。もしも仮に、既存の台本を捨てて、目の前の瀕死の人を救助
しよう、と当のイングリス氏が表明すれば、あるいは、智慧を出す人間が現れて、「ではチームを分けよう。少々のリスクはあるが、救助チームと登頂チームに
分ける。残念だが、私は救助チームに入る・・・」などと言う者も現れたであろう。しかし現実は違った。ここに今回のリーダーの人間性が透けて見える気もす
る。
誰も頂上の目と鼻の先に来て、しかも天候もすこぶる良いとなれば、救助チームに入るという者は少ないかもしれない。しかし人間は、本来素晴らしい自己犠牲
の精神を持っている。山で培った理性は伊達ではない。ふと我に返った時、「では自分も、救助チームに参加する」というものが現れるのだ。しかし今回は、余
りにも余裕がなく、我欲と目先の名誉心が勝ってしまった。そんな気がするのだ・・・。2006.5.26佐藤
2006.5.26 佐藤弘弥
義経伝説
思いつきエッセイ