凡庸な者しか政治家になれない国

−日本政治の混迷−


 
本日の産経新聞紙上で、政治学界の長老猪木政道氏が、凡庸な者が、首相の座に就く日本の現状を痛烈に批判している。極論すればどうしてこんなにも、凡庸な指導者ばかり、次から次と登場してくるような状況になってしまったのか、と嘆いておられる。氏のタカ派的な心情はともかく氏が下した結論には、まったく同感である。氏はその状況を生みだした背景には、「国民的なたるみ」があると指摘している。

さてこの「たるみ」であるが、「たるみ」とは慢心のことであり、気のゆるみそのものである。また自分がやらなくても誰かがやってくれる、とか自分が政治に参加したところで、世の中は変わらない、という、国民の中にある白けきったムードである。しかもこのムードは、政治家というものをまるで信用していない「我関せず」の心情でもある。

この国民のたるみ、あるいは「表面上の無関心」を良いことに、凡庸な政治家が、世の中にはびこってしまった。猪木氏は、「国会議員の中には、すばらしい人材がたくさんいるのに・・・どうして凡庸な人物が首相に選出されるのだろう?」という言い方をされておられるが、私はこの認識には大いに疑問がある。というのは、国会議員も凡庸な人しかなっていない、と思うからである。国会議員の顔を一人一人浮かべて見れば分かるが、異常な程に増殖した二世議員、こんな状態では、まるで世襲制の封建時代に逆戻りした感じがするのは私だけだろうか。右を見ても左を見ても、二世議員ばかり、それは選挙区の組織票をそっくり世襲する形で成立する新しい政治家家元制度のようにさえ見える。これが日本という国を放っておけば、自然に形成される支配の構図かもしれない。この社会構造を打破するような流れが起こらない限り、猪木氏の言う「国民のたるみ」の上に乗っかってくる凡庸な指導者というものは、排除できないのかもしれない。

要するに言いたいのは、日本社会の構造的な問題を解決しない限り、凡庸な指導者しか現れない日本の政治状況は変わらないということである。誰が今の政治家を見て、国の為に政治家になろう、と志を持つだろう。本当に今の政治家は、かっこ悪いとしかいえない。


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2001.3.22