筑前琵琶を聴く

仮想の「壇ノ浦」に漂う

筑前琵琶 田中旭泉師が「壇ノ浦」を熱演
(10月15日 シンポジウム「義経と平泉」にて)
 
去る十月十五日(日)、平泉のシンポジウム「源義経と平泉」の会場において、田中旭泉師の筑前琵琶「壇ノ浦」を聴いた。

つい今し方まで、歴史学の先生方の熱気溢れる報告が聞かれた会場に、金の屏風と赤い雛壇が設えられる。そこに琵琶という楽器が運ばれてくると、俄に会場の空気は一変した。それまではシンポジウム「源義経と平泉」という堅い感じのテーマからか、会場はいつでも論争に発展しそうなスリリングな雰囲気が漂っていた。それが琵琶という見るからに優美な楽器が運び込まれた途端、ふっと別の空間に変化(へんげ)してしまった。これはやはり芸術の力というものなのだろう。じつに不思議な瞬間であった。

六歳から琵琶を習い始めたという田中旭泉師が、しずかに雛壇に上り一礼すると微妙な間を置いて琵琶を弾き始めた。何故か、この時キース・ジャレットのソロコンサートを思い出してしまった。キースは、ピアノに手を掛ける前、ほんの数秒首をうなだれて、眼を瞑り、間を取る。そしてしずかに鍵盤に手を触れる。その瞬間に似た心地のよい間というものを田中女史にも感じた。

芸術というものは、年若くして才能が開花するものだと言われる。8歳で交響曲を書いたモーツアルトや、10歳で、ズービン・メータ率いるニューヨークフィルと競演したバイオリニスト五島みどりのように、芸術の神は若き天才に惜しげもなく神の恩恵を与えてくれるものなのだ。世の中、このような天才が、突然のごとく現れてくれるから面白い。

田中女史もそのような神の恩恵を受ける人物のひとりに違いない。彼女の琵琶は、非常に繊細で、人間の感覚の深いところに染み入るような風情がある。実に壇ノ浦の段の言葉もよく伝わってくる。時に激しく、弦をかき鳴らし、ある時は弦の上を義経さんが軽やかに八艘飛びでもするかのような響きに聞こえた。

私は真ん前の席で首をうなだれながら眼を瞑り「壇ノ浦」という仮想の音の空間に身を任せていた。次第に演奏は佳境となる。義経を狙って、剛の者能登守平教経(のとのかみたいらののりつね)が、現れる。しかし義経は、味方の船にひらりと飛び移って、にっこりとする。教経の気に肩すかしを浴びせかける場面だ。まるで天狗のようだ。焦る教経は、義経を追おうと必死になるが、羽があるわけでもなく、「ああ、また飛び逃げられたか」と嘆くことしきり。

さて私の方はと言えば、波間を漂う海月(くらげ)となって「壇ノ浦」をゆらゆらと漂っている気分となった。しかも琵琶の微妙な音色が発せられる度に、あたかも義経公の御霊が、琵琶の弦の上を飛び跳ねているような奇妙な感覚にとらわれていた。

やがて義経に逃げられた教経の前に、安芸の太郎次郎の兄弟が現れて、戦いを挑む、周囲の平氏の劣勢をみて、もはやこれまでと察した教経は、両脇にふたりを抱え「死出の旅立ちの共をせよ」と言って逆巻く波間に消えていく。そして大将の知盛、幼き安徳帝、母の建礼門院、女官達が次々と波の間に間に消えていく。幸か不幸か、建礼門院は、源氏方の熊手に掬われてしまうが、死すべき者は皆死して、夕日に染まる波間には、主の消えた船や赤旗が辺り一面無数に漂っているばかり・・・。

「壇ノ浦」は、まさに平氏の滅び行く様を描いた残酷な歴史絵巻だが、こうして琵琶と語りで味わっていると、実に不謹慎な言い方だが、心地よい感じさえしてしまうのだ。おそらくそれは日本人のなかにある平家物語の悲劇を美に感じてしまう感覚が、平曲という魔術(平家物語と琵琶の芸術)によって、いつの間にやら醸成されてしまったからなのかもしれない。これが滅びの美というものなのか・・・?

そう思いながら、夢心地で「壇ノ浦」の波間に漂っていると、「白波ならで白旗のときめく世とはなりにけり」と謡いが続いて、演奏が終了する瞬間、ふっと眠りに落ちてしまった。そして後頭部をびくっと押される感覚がして、目を開けたのであった。後頭部を押してくれたのは、義経公かもしれない。実に清新かつ清冽な「壇ノ浦」に、心の底から癒される思いがした。佐藤

琵琶の音のそのみなもとの弦の間を九郎八艘飛び交うは夢


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2000.10.16