弁慶伝説の虚実

謡曲「船弁慶」の弁慶のイメージについて

 
能の出し物に「船弁慶」というものがある。この題材は「平家物語」と「義経記」から取られている。ここでの弁慶像は、超人的な法力を持つ、カリスマ的な人物として描かれている。この船弁慶を通じて、弁慶のイメージというものを考え直してみたい。

この題の通り、弁慶が中心となって、筋が展開する仕立ての能である。ここでは義経は、台本である謡曲にも子方とはっきり明記されている。子方というのは、「能などで子供のする役。また、その役をつとめる役者」(広辞苑第五版)のことである。要するに子役なのである。

能の古い姿を今に伝えると言われる黒川能(山形県東田川郡櫛引町黒川の春日神社の王祇祭で奉納される能)の写真をみると、やはり義経は、少年が面を被らずに演じ、弁慶の方は、面を付け、大柄な人物が演じている。

この能の舞台は、尼ケ崎の大物の浦である。時代は、文治年間。この時、義経は、その軍事的能力によって、宿敵平家一党を一の谷、屋島、壇ノ浦と追って、攻め滅ぼしたのであるが、その余りの勢いと、軍事的才能を危険に思った(?)兄頼朝の不興を買い、策謀によって、孤立した義経は、ひとまず西海(九州地方)に退いて、自分を指示してくれる兵を集めて、都に戻ってくる腹づもりを固めていた。いよいよ、義経一行が、西海に逃れるというその所から、能は始まる。

ここから「船弁慶」の筋立てを追ってみてみよう。

さて鬼神の如きいでたちの弁慶は、荒々しく登場し、義経の愛人である静御前を「静」と呼び捨てにする。まさに自分が「静」より立場的に上だと言わんばかりの傲慢な態度である。逆に静は、弁慶を「弁慶殿」と敬称をつけることを忘れない。義経は、ここでは「計らい候え」(うまくやってくれ)というばかりで、弁慶に頼りきるいわば「馬鹿殿」風の扱いである。ここで、この能を作った作者、観世信光の創作意図がはっきりする。つまり義経記の義経の大物浦での難破騒動を、弁慶という人物のキャラクターを際立たせて、物語を面白く、エキセントリックに演出しようとする意図である。ここに弁慶は更にデフォルメされ鬼神の如き存在となって、伝承される可能性がでてくることにに注目したい。

その弁慶が、義経に静をこの旅に連れて行かないように進言する。義経は、渋々これに同意し、「自分も落人となってしまったから、静よ都に帰って時節を待て」と静に言う。静も、泣く泣くこれを受け入れ、一舞、舞ってこの場を離れる。もちろんこれは義経記の筋とは違っている。義経記では、難破して、静を含む義経一行は、吉野に逃れていくことになる。何故作者はここで、静を一舞舞って、舞台から消したのかと言えば、それはおそらく、前段で、義経と静の別れ場を作ることで、一山作りたかったのであろう。また後に出てくる亡霊の知盛の恨みを強調したかったこともあるだろう。つまり知盛という亡者の恨みは、平家一族を滅ぼした怨敵義経とその武者ども以外には考えられないからである。そしてその強烈なる恨みを防御するのは、まさに鬼神の如き弁慶の持つ法力しかないのである。

次ぎに船頭が登場し、船の準備をしながら、弁慶にこのように告げる。

「義経の君が、今日は波が荒いので、様子を見て、ここに逗留した方がいいな、と言っておられますが」

弁慶は、むっとして言う。

「何と、情けない。おそらく静に名残を残しておられるので、そのように言われたのだろう。それでは運も尽きたも同然。平家を討ち滅ぼした時のあの怒濤の波間をこぎ出した君とも思われない。いいから黙って船を出すのじゃ」

ここで、まったく傍若無人な独り合点の弁慶が現れる。ここでは義経の判断と意志は、まったく無視される。まさに義経は、「馬鹿殿」扱いである。

場面は、あっという間に海上に移る。始めは波穏やかで、いい船旅になると思われた。船乗り達は、いずれ、義経と頼朝兄弟が、朝廷の取りなしによって、仲直りを果たした時には、西国の海の権利を私にお与え下さいなどと、弁慶に取りなしを頼むなど、今でも政治の世界でありそうな、おべんちゃらを使う。

場面が急展開する。武庫川の空に雲が湧いてきて、風が出てくる。穏やかだった海は荒れてくる。

波はますます大きくなり、風はうなりを上げて吹きまくる。

そして、波間に、壇ノ浦で滅ぼされた平家の武者達の亡霊が浮かび上がってくる。

「こんな時節を選んで、恨みを果たそうとするのは、むむ仕方のないことだが・・・」と弁慶が一人言を言っていると、

「どうした弁慶」と義経が言って、

「前を見てくだされ」

一瞬はっとする義経であったが、そこは軍事の天才だけに、すぐに腹を決めてこのように言った。

「いまさら驚くことではない。怨霊が現れ、恨みを果たそうとしたところで、どれほどのことができようか。もともと悪逆非道が積もりに積もって、神仏の罰を受けただけのこと。いわばそれが彼らの天命ではないか。」

それでも平家は、義経一行を見据えて、雲霞(うんか)の如く集まってくる。

その中から、知盛の亡霊が、一人奇抜な面を付け、手には長刀を持って義経一行の前に登場する。

「これは義経、珍しや、われは平の知盛の幽霊なり、恨みはらさん」

そして散々舞踊り、風を払い、波を蹴立てて、義経一行を、海の中へとひきずり込もうとする。

義経は、「騒ぐな、慌てるな」といって、刀を抜いて、知盛の幽霊に斬りかかろうとする。

そこに弁慶が、「わが君、刀で亡霊は切れませぬ。」などと言いながら、数珠を取り出し、さらさらと押し揉んで、不動明王の呪文などを発すれば、さすがの知盛の怨霊も、苦しみながら、次第に遠ざかっていく・・・、その跡には、白波が残るばかりとなった。

これが「船弁慶」の筋立てである。

この「船弁慶」という作にみられる弁慶の鬼神の如きイメージは、「安宅(勧進帳)」や「橋弁慶」という作品でも共通のものである。またそこで描かれる義経像(童子の如き存在=子方の役)もまた共通である。しかも安宅では、こともあろうに稚児か童子の如き義経が家来の弁慶にいやという程打ちのめされて、よろよろと力無くよろめくあり様である。これなど見方によっては、「日頃の上司に鬱憤を晴らすな心地よさがある」と表する者もいるくらいである。更に私は、主君を打つというフィクションの中に、やがて下克上の時代がやってきて戦国の世に突入する日本人の無意識が、このフィクションのなかに反映しているのではないか、さえ思っている。まあともかくこのような伝説によって、義経と弁慶のイメージ(完全に優形としての義経と、大男弁慶のイメージ)が、が歴史的にみて次第に固まっていくことになった事だけは事実であろう。
 

さて以上のことから結論を導き出してみよう。琵琶法師の語りで、瞬く間に全国に広まった源平の合戦の物語は、時代を経て、次第に別の芸能にも題材として取り上げられるようになった。足利時代に観阿弥と世阿弥親子によって広まった能もその一つである。更に時代が江戸時代に入ると浄瑠璃や歌舞伎の中にも取り入れられ、義経と弁慶のイメージは、ますますデフォルメされ、民衆の中に広まり、固着していった。

正史で見る限り、武蔵坊弁慶なる名の人物が弁慶が存在したことは、吾妻鏡に一度とはいえ登場していることから、事実として認めていいのではあるまいか。ただし現在我々が思っているような鬼神の如き人物とは、いささか違うイメージの人物であることは確かであろう。まず弁慶は、義経の一番の家臣のように思われているが、これはあり得ないことである。平家物語から義経記に義経主従の伝説が受け継がれる過程で、弁慶の存在感が、次第に高まっているのは、伝説としての弁慶像が一人歩きを始めて創られた虚偽と断じても差し支えあるまい。

言い換えるならば、義経の悲劇の物語(「義経記」)を作り上げる過程で、英雄義経を際立たせる思惑で、創作された弁慶という人物が、意外な人気を博し、一人歩きを始めたということである。その後も、時代を経るごとに、弁慶像は、ますますエスカレートし、民衆のこころの中で増幅され、今日の弁慶像が出来上がったのである。だから私は、「弁慶伝説」の発祥地としての「義経記巻第三の弁慶出生譚」を読むにつけ、現実としての武蔵坊弁慶は、今日我々が思っているような鬼神の如き人物とは、まるで違う人物であったとしか、思えなくなってくるのである。佐藤
 


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2000.11.27