芭蕉が平泉で観たもの

平泉に芭蕉は永遠の美の都をみた?!

 
奥の細道を手元において、平泉の景観というものを改めて考えてみよう。平泉バイパス工事によって、一番問題となるのは、やはり柳の御の西北の段丘にある源義経の最期の地とされる高館からの景観の破壊である。そこは今から300年ほど前に、松尾芭蕉によって、「夏草や兵どもが夢の跡」と詠まれている平泉第一の景勝地である。芭蕉がこの句に込めた思いはいったいなんだったのか。彼はこの高館において何を見たのだろう。芭蕉がこの地にやってきた丁度500年前の夏、平泉という黄金の都は、君臨していた奥州藤原氏とその郎党、また源義経と臣下もろとも、一瞬の光芒のように滅び去っていた。

芭蕉は、元禄二年(1689)5月12日(新暦6月28日)、雨をついて一関に到着そこに停泊した。翌日、雨は上がり、初夏の奥州路を、真っ直ぐに高館にやってきたのであった。さて義経が自害し果てたと言われる高館の高みに立ち、このように記した。

三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。まず高館にのぼれば、北上川は南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。さても義臣すぐってこの城にこもり、巧妙一時の叢(くさむら)となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

ここで、この文章で、実際に芭蕉が目にしたものだけを挙げてみよう。すると、不思議だが、芭蕉が観念というか、心のなかで描いているイメージが浮かび上がってくる。
第一に「秀衡が跡は田野に成て」
第二に「金鶏山のみ形を残す」
第三「北上川は南部より流るゝ大河也」
第四「衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入」
第五「義臣すぐってこの城にこもり、巧妙一時の叢(くさむら)となる」

一関から奥州路を北に一里ほど進むと平泉になる。芭蕉は、ただ「平泉平泉」と心で念じながら、歩いてきたはずである。なだらかな丘の道を越えて、彼方に平泉の景観が目に入ったはずである。旧街道は、奥大道と言って、毛越寺の前を西に向かう道であったが、芭蕉は平泉に入る大門と思われていた毛越寺には行かず、現在の四号線沿いの道を真っ直ぐに来て太田川を渡り、秀衡の館の跡と言われる伽羅御所跡と柳の御所跡を右に見て、左には無量光院の跡を見ながら、あれが金鶏山などと言いながら、高館に一路向かったと思われる。

そして眼下を見下ろす。ここは稀代の英雄源義経が自害して果てた場所だ。という思いが、芭蕉の気持ちを揺さぶっていたであろう。そして栗駒山から吹き下ろしてくる薫風は、夏草のむせ返るような匂いを運んで、その感傷を一層掻き立てたことであろう。ただ目に見えるものは、夏草の青さと大河の淀みない流れと束稲山、遠くには奥羽の連山がかすんでいたことだろう。しかしここで不思議なことがある。芭蕉がこの地を訪れた元禄二年には、高館の上には、義経堂が建立されていたはずだ。しかし芭蕉は、天和三年(1683)というから、わずか五年前に建てられていたこの小堂について一言も触れていない。この小堂は、仙台藩四代藩主の伊達綱村によって、建てられたもので、中には義経像も奉られていたのだから、言及してもいいはずだ。ところがまったく語らないのだ。このように見てくると芭蕉にとって、平泉という都市の印象は、ただ滅びたという以外には何もないかのようである。(このことは、西行法師が、平泉に燦然と輝きを放っていたはずの金色堂を一切歌に詠み込まなかったことに共通する何かがあるのかもしれない。)

次に高館に登って、芭蕉がイメージとして観ているものを挙げてみよう。
第一「大門の跡は一里こなたに有」
第二「泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり」
第三「国破れて…」

平泉において大門というものが果たしてどこにあったかということは、まだ明かされてはいないようであるが、当時の考え方から、毛越寺の大門ではないかというのが、奥の細道を研究している人々の考え方のようだ。芭蕉は毛越寺については、触れていないし、達谷窟の西光寺にも行っていないから、現在の四号線に沿った奥州路を岩ヶ崎まで行って、そこから一迫に抜けて行ったというのが定説となっている。したがってこれは書籍からの想像で書いている。また衣の関は、関山中尊寺の西の裏に当たるから高館からは目にすることは不可能なので、これも筆の流れに任せて書いていることが分かる。大体、エゾを防ぐというのであれば、田村麻呂の時代であるから、意味が不明である。古来からの歌枕である「衣の関」という言葉を入れることによって、奥州という自分のイメージを増幅しようとしたのかもしれない。

そして最後杜甫の「春望」の漢詩であるが、高館に登って、芭蕉の心に突如として、この詩が浮かんだのであろう。ただ茫然と何もない大河と山野を見ながら、この詩のフレーズが、芭蕉の脳裏の中で復唱されたに違いない。表現の技法としてはイメージの固着であり、読み手に強烈な滅びた都の印象が残ることを狙っていると思われる。

こうして芭蕉が、高館で観たものが、朧気ながら見えて来たように思う。それは単なる奥州の寂れた古都の風景などではない。もちろん人々が一般に言う廃墟というものを見て感傷に耽っているのでもない。それは滅びというものの現実の風景を目の辺りにした瞬間に、時というものの無常なる姿が、眼前に亡霊のようにして芭蕉の前に現れたのではあるまいか。所詮、人が造り出す都市というものも「一瞬の巧妙」に過ぎず、自然の織りなす造形には歯など立ちようがない。平泉という都市というものが滅び去った後に、伸びやかに命を漲らせている夏草の生命力に、芭蕉は明らかに感動を通り越して畏れをなしているかのようだ。芭蕉はきっと、高館からの平泉のパノラマの中に、永遠なる「美」というものを観たのであろう。
この時の畏れの結晶とも言える句が、あの、「夏草や兵どもが夢の跡」ということになる。

佐藤
 

 


2003.2.19
 

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