バーミアン巨大石仏の危機について

−平山郁夫氏の嘆き−


 

悲しいことが起こりつつある。それはインド北西部に位置するバーミアンの巨大石仏(高さ50mにも及ぶ世界最大の石窟仏)が、破壊されつつあるとの報道が連日なされているからだ。このバーミアンの巨大石仏と言えば、私はすぐに画家平山郁夫氏の姿と、氏が描いた巨大石仏の遺構が浮かんでくる。

平山郁夫氏(氏はユネスコ親善大使でもある)と言えば、広島で被爆体験を持つ世界的な画家である。

氏は昭和20年8月6日、広島で異様な体験をした。その日、平山少年は、生徒勤労動員で外にいた。ふと空を見上げると、B29が、落下傘を落とした。その先には光る物体があった。少年は、ただならぬ気配を感じ、人に知らせる為にある建物に駆け込んだ。それとほとんど同時に、眩しい光と共に強烈な熱風が襲ってきた。もちろんそれは人類史上初めて使用された原子爆弾だった。多くの偶然が重なり、平山氏は、死を免れて奇跡的に一命を取り留めた。きっとそれは仏様が、原爆や戦争の悲惨を後世に伝える為に、氏の命を救ったのかもしれない。ともかく氏はこうして、画家としての人生を歩みだすのである。

平山郁夫氏は、1968年に初めて、この地バーミヤンを訪れた。この時、氏は38歳であった。氏のシルクロードの探訪の旅は、薬師寺の白鳳伽藍の再建復興に携わったおり、当時の高田好胤管長とのご縁を得たことによって始まった。そして薬師寺が、玄奘三蔵と深い関わりを持つことを知り、玄奘の足跡を辿る為にシルクロードの至る所、それこそ何十回にも渡って訪問された。時には、熱波の砂漠で、立ち往生をし、チベットの高山に登り、高山病を押して、決死のデッサンをしたこともあると云う。

そのようにしてシルクロードを題材とした多くの傑作制作された。氏の作品は、単なる仏教に題材を取った仏教画というよりは、祈りが画として、そこに存在するかのような趣がある。そんな中で氏が心を痛めたのは、1979年冬から起こったアフガン内戦であった。人間同士が殺し合う悲惨な戦争が展開され、人類の貴重な遺産である多くの文化遺産もまた、戦争の銃弾に傷つき破壊された。氏の目から見れば、大いなる慈悲を湛えたバーミアンの巨大な石仏が、泣いているように見えたに違いない。

アフガンだけではない。カンボジア内戦においても、アンコールワットの遺跡は、ずたずたに破壊され、仏像の首は切り取られて密かに闇のルートで流されたりもした。今回はたまたまバーミアン遺跡問題だが、紛争地域にある多くの遺跡が、今バーミアンの石仏と同じように危機的状況にあることは明らかだ。

このバーミアン石仏攻撃の背景には、我々が知らない事実があるようだ。それはこの一月より国連によるタリバーンに対する制裁強化がなされたことによるようだ。それによってタリバーンの在外資産は凍結され、国際航空便の禁止などの措置が取られている。原因は、タリバーン側が、国際テロリストとみなされている人物を匿っていると国連が見なしていることである。

要するに国連制裁に不満を持つタリバーンが、この仏像を人質のように考えているというになる。既にアフガニスタン戦争は、20年も続いている。しかしその出口は一向に見えない。そこに昨年、干ばつがこの地を襲い、同時に飢餓が発生した。現在アフガンでは、60万人の難民が溢れ、ひどい所では、子供の2人に1人が栄養失調に罹っているという指摘もなされている。確かにこの事実を考えれば、石仏を破壊する側にもそれなりの理屈というものはあることは事実として、我々は冷静に見ておく必要がある。

さてこの事実を踏まえながら、平山氏は、4日午前「この人類の遺産を何としても守りたい」として石仏破壊の緊急アピールをを発表した。そして直ちに署名活動と「バーミアン遺跡救済基金」を設立することを世界に向けて呼びかけた。バーミアンの巨大石仏が、何とか、無事で生き残ると同時に、アフガンの60万の難民たちに食糧が行き渡り、平和が一日も早く訪れることを祈らずには居られない。佐藤

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○基金の送り先は
「第一勧銀 恵比寿支店 普通預金1540286 
バーミアン遺跡救済基金」宛て。
○問い合わせは
日本ユネスコ協会連盟事務局、03-5424-1121。
 


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2001.3.06