バーミアン石仏破壊さるV

−神について−


 
バーミアンの巨大石仏二体が、タリバーン政府によって完全に破壊された。このほどその爆破シーンが各局で報道された。映像は轟音とともに岩に彫られた石仏は、ついに千五百年の命を全うして大地に返った。衝撃的なシーンではあったが、余りにあっけない爆破劇に声も出なかった程であった。

その時である。映像にかぶって、誰の声かは、分からないが、「アラー・アクバル、アラー・アクバル」という声が数度聞こえてきた。もちろんこれは、仏教で言えば、「南無阿弥陀仏」に当たる呪文で、神は偉大なり、という意味の言葉である。

さてここで名指しをされた「神」とはいったいどのような存在なのであろう。私は、神の意味を考えずにはいられなかった・・・。(その場合、もちろんその神が哲学的な意味についてであり、各宗教固有の「神」のことではないので、念のため断っておきたい。)

この言葉を聞いた時、何故か、すぐに私はボブ・デュランの歌の「With God on our side.」(邦題:神の加護のもとに?)を思い出していた。この歌は、1964年に「時代は代わる」(The times they are a-changin')というアルバムの中で発表されたプロテストソングである。歌詞の内容は、多くの戦争をアメリカは経験した。その戦争があると我々は必ず、我々背後には神の加護がある、と教えられて戦ってきた。もしも本当に神がいるとすれば、彼は次の戦争を止めてくれるに違いない、という戦争を強烈に皮肉った反戦歌である。

この直後、国家としてのアメリカは、ベトナム戦争に突入し、多くのベトナムの人々を傷つけるだけではなく、アメリカの若者たちを、泥沼の戦地に追いやって、体だけではなく心にも「ベトナム後遺症」と言われるような深い傷を負わせたのである。確かに、デュランが言うように、アメリカだけではなく、どこの国でも、国家が戦争をする時には、神の名の下に戦争が正義として説かれる。つまり国の立場で言えば「聖戦」となってしまうのである。現に第二次大戦の日本においても同じであった。盛んに神国日本が喧伝されたことは記憶に新しい。

それにしても人類は、「神」という名の下に多くの血なまぐさい戦争を繰り返してきた。しかし長い人類史の中で、どのような神であろうとも、大衆の前に現れて、「国家の為に命を賭して戦え、相手を殲滅せよ」と「叫んだ」ことは一度もない。「神の声」を聞いた、という者はいたかも知れないが、「神」が、相手を殲滅せよ、と叫んだことは皆無なのだ。とすれば、戦争で必ず、祭り上げられ、叫ばれる「神の御名」は、人間が便宜上創り出した自分の行為を正当化するための「叫び」でしかないのである。残念だが、歴史上「神」の名が叫ばれる時には、いつも戦争の残虐性と不合理を覆い、残虐な行為を行った人間の心を癒す為にこそ「神」の名は「叫ばれ」るものである。

結論である。あのバーミアンの巨大石仏で叫ばれた「神は偉大なり」という言葉をしみじみと考えながら、どうしようもなく、悲しい気持ちになった。もしも本当に神がいるならば、あのような意味のない破壊を許すはずがない、とも思った。果たしてこのような人間の行為のすべてを、どこかで見ているはず(?)の神様は、地上に満ち溢れる「人間存在」そのものを、その寛容な御心でお許しくださるのであろうか。佐藤
 


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2001.3.21