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夢に現れる暴力の影を考える

−夢に反映する集合的無意識?−


 

最近どうも暴力的な夢ばかり観るので、はたと首を捻って考えた。一度や二度ではない。高名な映画監督が、テロにあって暗殺されたり、自分のこめかみに銃口を当ててみたり、考えられないような暴力的な夢ばかり立て続けに観ているのだ。

これがどうも個人的な無意識とは関わりのない次元から、夢の素材が発している気が強くする。心の地図を考えれば、潜在意識の下に、個人の無意識の層があり、更にその下層に集合的な無意識の層がある。もちろんこれはユング心理学の教える心の世界であるが、個人の心には、集合的な無意識というものが、否応なく個人の意識に影響を与えていることになる。

そう言えば、ユングがナチズムを語った中で、まだヒトラーがドイツに台頭する前に、多くの若者の心理分析に携わった経験から、原因不明なのだが、若者の気質が、非常に暴力的で、「いったいどうしてしまったのだろう?」と首を捻った時期があると書いていた。そうこうしているうちに、たちまちナチスがドイツを席巻し、あの忌まわしいホロコーストと呼ばれるユダヤ人の大虐殺という蛮行にドイツ民族が手を染めてしまうのである。

ナチスドイツの暴力的熱狂を支えたのは、必ずしもナチズムという極右的な思想に共鳴した思想的な行動というよりは、どこか集合的な無意識の悪魔的な熱を巧みに扇動するヒトラーのような指導者が魔術的な面持ちで現れた結果、若者が一種の夢の中の熱狂状態に陥ってしまったのであるまいか。

しかもナチズムの賛同者は、単なる若者だけではなかった。当時でも、いや今でも、20世紀最高の哲学者の一人であるハイデガーという大哲学者も、あのナチスの単純なレトリックに引っかかって、ナチス党に入党するという過ちをしでかしたのである。これは歴史的謎である。そもそも哲学の根本は、ソクラテスではないが、「汝自身を知る」ことに他ならない。おそらく大哲学者までをも狂わす何かが、ドイツ民族を凄まじい戦争禍に巻き込んだ集合的無意識として働いていたのであろう。哲学者のハイデガーまでもが、暴力的な熱狂の渦に巻き込まれるのだから、若者がナチズムに魅せられるのは、不謹慎だが当たり前だったというべきだ。更に言えば、ナチスの総督だったヒトラー自身だって、集合的無意識の操り人形だったと言えないこともない。

ドイツのことばかり言っては、片手落ちになる。わが日本も、正気とは言い難い情況下に身を置いていた。今から僅か60数年前のことだ。当時の日本人は、軍国主義にすっかり染まっていた。その時には、こともあろうにナチスのドイツとファシストのイタリアと「日独伊」の三国同盟を組ぶ有様であった。まさにこの同盟関係は、ファシスト国家連合という泥船そのものであった。その結果、わが日本は、様々な戦禍をアジア各地にもたらし、はた気づいた時には、アメリカ軍によって、東京は焼け野原にされ、最後には広島、長崎に原爆まで落とされてて、やっと自分たちが犯してきた罪の大きさに気づいたのであった。

私が連日のように見る暴力的なる夢の根源にあるものは、おそらく21世紀の未来から来る集合的無意識のメッセージであろう。つまりそれは人類の深層心理下にある集合的無意識の反映そのものであり、世界が暴力に染まってしまって、正気を失いつつあることへの警鐘なのである。時に個人の夢に、集合的無意識を映す鏡のような役割を果たすことがある。このメッセージをどう捉えるかで、世界はまったく違った歴史を歩むことにもなりかねない。もしも人類がより良き平和な社会を目指すのであれば、根本的に暴力が世界にもたらしている壊滅的な脅威を反省する必要がある。

今我々は、21世紀という極度にグローバル化された世界の中で生きている。しかし悲しいかな昨年9月11日のニューヨーク同時多発テロによって、何かが変わってしまった。それは世界中の人間の心の中を吹く風の香りが完全に変わってしまったようなものだ。あの時から、世界中の人間の目がどこかつり上がって見える。人間の意識が、暴力化の一途を辿っており、それが世界を取り替えしもない次元まで、引きずり込んで行く可能性がある。それほどに人類は、どうしようもない暴力連鎖の中に身を置いてしまったのである。

少なくても私にとって、9.11以降の世界の暴力的変貌は、人類の未来に対する不吉な予兆そのものである。しかし救いがないわけではない。幸いそれが「私の個人的な夢」に過ぎないという点である。

どうにかして、この暴力連鎖の夢という、個人の心に反映した吹く冷たく無秩序で、しかも破壊的な風(集合的無意識)を取り払わなければならないと思うばかりだ。佐藤
 
 

 


2002.1.21

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