細胞の自死に学ぶ

アトポーシスということ


 

人間は、無数の細胞(60兆)の集合体である。

その個々の細胞にも、主人である人間と同じように、死の時がくる。細胞の死には、二種類の死に方があると言われている。ひとつは、細胞自身が、外的な環境の変化によって、仕方なく死を迎えてしまうネフローシス(受動的な死)という死に方と、もう一つは、アトポーシス(能動的な死=プログラムされた死)と呼ばれる死に方である。

アトポーシスとは、細胞が、新しい細胞や主人である生命そのものの成長のために、自ら積極的に死を選ぶような現象である。その時、細胞は、自分自身で、自らを殺すための遺伝子にスイッチを入れるらしい例えば、胎児の手は、丸い肉のかたまりとして成長し、その中の細胞が死んで脱落することによって手の形ができてくる。しかも脱落した細胞は、マクロファージという食細胞によって食べられて、跡形もなく、なくなってしまう。これがアトポーシスの完璧な死の姿である。自分が死ぬことで、全体の成長を助けている。

とは言っても、細胞に意識があるわけではない。何故、細胞は、武士道を彷彿とさせるような、いさぎよい死に方を選ぶのだろう。死に行く細胞は、アトポーシスを選ぶことで、次のものに道を譲り、全体を生かし、個としての与えられた使命をまっとうしようとするのである。その姿は、けなげですらある。

人間の死も、ただ何となく歳をとって死ぬというのでは、自分の指の皮一枚にも劣るというものだ。人も、細胞を見習って、自分の与えられた使命をまっとうした上でのアトポーシス的な死を考えてもいいのではないだろうか。

ところで、あなたが考える自らの使命とは、どんなものだろう。おそらく目先の雑事に追われて、考えたことのない人が大半だろう。そもそも使命とは、読んで字のごとく「命」を「使う」ことである。自分のかけがえのない命を、無駄に過ごすべきでない。きっとあなたはまだまだ自分が若いと思っている。しかしあなたも私も、日々確実に、死の瞬間に向かって、歩を進めている事実を忘れてはならない。

我々、今を生きている人間は、地球というお花畑に咲いた花のようなものだ。我々がこの世に生まれ出るために、無数の祖先たちのアトポーシス的な死があった人間の営みは、ちょうど生というタスキをつないでいく駅伝リレーに似ている。つまり我々は、過去の人々から引き継いだ命のタスキを次の世代に、引き継いでいく使命を負っているのだ。

人はこのような人間としての使命を強く自覚するようでなければならないと思う。多くの人は、自分の使命など、考えたことのない人が大半で、親や社会が、引いたレールの上を、何となく歩いている。これでは他人任せな生き方と言われても仕方ないであろう。

自分らしい生き方というものがある。また自分らしい死に方というものもある。我々もアトポーシスな死という細胞の死に様(ざま)の中に、何かを感じ、学ぶべきではないだろうか。佐藤

 


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1997.7.18