蝦夷志

 
 

凡例
  1. 底本としては、「蝦夷・千島古文書集成」第一巻(教育出版センター昭和60年3月刊)を使用させていただいた。
  2. 旧漢字はなるべくそのままの体裁を留めているが、一部テキスト化による限界もあり、新漢字に改めた箇所もある。
  3. 一部好ましからざる表現もあるが、歴史的表現として、そのまま表記した。

 


蝦夷志序

蝦夷は一に毛人と曰う。古の北倭なり。(倭は山海経に出ず。)漢の光和中、鮮卑の檀石槐、倭の善く網して捕うるを聞き、東して倭人国を撃ち、千余家を得て、徒して秦水の上に置き、魚を捕らえて以て糧食を助けしむ。鮮卑は東胡の種なり。即ち今の韃靼東北の地にして、謂う所の倭人は即ち北倭なり。夷の俗は善く沈没して魚を捕う。今に於ても亦た然り。夷は種落多く、渡島の蝦夷と曰うは其の東北の海中に在る者なり、北蝦夷と曰い、東蝦夷と曰うは其の徒(うつ)りて内地に居る者なり。北は越国と謂い、東は陸奥国と謂う。齶田(アギタ)(一に飽田に作る、今、秋田に作る。)と曰い、淳代と曰い、柵養(一に城養に作る。)と曰い、津刈(一に津軽に作る、又た都加留に作る。)と曰うは、皆な東北の別なり。宋書に曰く、毛人は五十五国と。唐書に曰く、倭国の東北は大山を限りとし、其の外は即ち毛人なりと。総て其の内外の種落を言うなり。夷種は分れて内地に居るも、其の始は詳かにするを得可らず。

景行天皇の征東の詔に曰く、東夷辺界を犯し、以て人民を略す。往古以来、未だ王化に染まず、と。是れに由つて之れを観れば、其の内地を侵犯すること、蓋し由来既に久し。而して叛服も亦た屡々(しばしば)なり。

斉明天皇の四年、安倍の臣を遣わし、船師を率いて蝦夷を伐つに、齶田・淳代の酋帥、迎えて降り、渡島の蝦夷も亦た来り会す。乃ち淳代・津軽に郡の郡領を定めて還る。五年復讐た安倍の臣を遣わし、飽田・淳代・津軽・膽振祖等の酋帥を率いて以て蝦夷を伐つ。乃ち其の地を徇え、遂に治を後方羊蹄に置きて還る。(後方羊蹄は読んで「シリベシ」と云う。即ち今の「西シリベチ」の地なり。)是の年の秋、使を遣わして陸奥の蝦夷を率いて以て唐に聘す。

唐書に曰う、永徽(永長中=年号)、我が行人蝦夷と偕に来るとは即ち此れなり。時に高宗、我が行人に問いて曰く、蝦夷は幾種ぞと。対えて曰く、類に三種有り、遠き者は都加留(つがる)、次なる者は麁蝦夷(あらやみし)、近き者は熟蝦夷(にぎえみし)なり。今、此の熟蝦夷は謂う所の三種にして、其の荒服〈王城の周囲五百里ごとに区切って、甸服、候服、綏服、要服、荒服の五服えお定めた中国古代の制〉及び内地に在る者を挙げて言うなり。(日本紀の註に載する所の伊吉連の博徳書に出ず。都加留は即ち津軽なり。是れ其の内地に在りて遠き者なり。麁(ソ=あら)は猶お荒と言うがごとし。是れ其の荒服に在りて次に遠き者なり。熟とは其の内地に居りて近き者を謂うなり。)

厥(そ)の後凡そ蝦夷と称する者は、皆な其の内地に在る者を謂うのみ。天平宝字六年、東海東山の節度使藤原の恵美の朝臣朝猟、鎮守府の門に刻石して、以て四方の道里相い距る遠近を誌す。曰く、蝦夷の国界を去ること一百廿里と。其の石今に於て見るに府城の旧址に在り。(其の石は古俗の謂わゆる壷碑なり。)則ち知る、宮城郡の北方数百里は、尽く夷地に没するなり。(古く百廿里と謂うは之れを今の法の二十里に准ず。)其の之れを荒徼〈遠方の見はりのとりで〉に駆して、悉く東山の地を収め、海に因りて塞と為すに至りしは、則ち征東将軍坂上の大宿袮田村麻呂の功、蓋し以て大と為すなり。

史は闕いで其の事を伝えず、嘆に勝う可き哉。(嘗て之れを津軽の人に聞くに、坂将軍の行営の地は往往にして有り。土人も亦た其の事を説くこと、猶お前日のごとし。唯だ其の文献の以て徴するに足る無きのみと云う。)其の後六百五十六年、若狭の守源の信広、海を越えて夷中に入り、遂に其の南界を取り、以て北地を定む。是の歳は嘉吉三年なり。(信広は若狭の国の人なり。始め武田太郎と称し、後蠣崎と称し、又た改めて松前と称す。蓋し地名に因つなり。)此れ自り以降は、子孫世世、其の地を拠守して今に迄び、東顧の憂久しく絶ゆ。因つて旧聞を輯(あつ)めて、以て蝦夷志と為す。享保庚子正月庚寅、源の君美序す。
 
 

1 蝦夷地図説

蝦夷は東北大海の中に在り。山島に依りて国を為し、地は山険多く、僅かに禽鹿の径を通ず。夷人は軽捷驍健、且つ善く水に没し、行くとして阻むを見ず。此の間の人の往来するに由る所は、唯だ其の水路のみ、故に夷地の幅員広狭は詳かにするを得可らず。我が東北海岸は、蝦夷の南界を距ること甚しくは相い遠からず、而して其の間の海潮は駛急なり。(蝦夷の東南の地角の突然出ずる者は、名づけて「シラカミ碕」と曰う。南部地方を相い距ること、只だ一衣帯水を隔つるのみ。)

津軽の地の小泊より舟を発して、北行八里にして松前に到る。亦た御厩津より西北行十四里にして松前に到る。(四時此の路常に通ず。)松前は夷地の南界なり。(国史に謂う所の渡島・津軽津なる者は蓋し此れか。)

是よりして北するも亦た皆水行す。東路すれば則ち乍ち東し乍ち北す。順風約五昼夜にして其の東港に抵る可し。(地名を「ノツサブ」と曰う。)

此を去つて亦た東北行すれば、順風約六昼夜にして其の北港に抵る可し。(地名を「ソウヤ」と曰う。)

其の間の沿海に船を泊す可きの処凡そ十二あり。西路すれば則ち乍ち西し乍ち北す。順風約五昼夜にして、其の北港に抵る可し。(即ち「ソウヤ」地名なり。)

其の間の沿海に船を泊す可きの処凡そ十七あり。其の北、海を渡ること七里、復国有り、皆夷種なり。其の地の幅員は略々南と同じ。蓋し其の西北は即ち韃靼海なり。(俗に以て奥蝦夷と為す。其の地は総称「カラト島」なり。)

東北に相離るること十三里、五島相い錯りて海中に在り。又た其の東北の海中に三十二国有り。亦た皆夷種と云うも、地方遠絶し、疑うらくは明らかにすること能わざらん。(東北の海島は凡そ三十七。総称して「クルミセ」、亦た名づけて「ラツコ嶋」と曰う。詳かに後に見ゆ。)

西北の懸海に四嶋有り。相離ること近き者は七里、其の遠き者は十五里許り、(西南の二島は、総て名づけて「テウレ」と曰う。其の北の一島は「リイシリ」と名づく。又其の北は、名づけて「レフンシリ」と曰う。)此れ蝦夷地境の尽くる所なり。
 
 

2 蝦夷

松前治城は山海の間に介居し、東西に各ゝ港口有り。諸州の賈(買)船の輻(福)湊する所なり、東は黒岩に至り、西は乙部に至る。此を去つて以往は、陸の行路絶ゆ。西南の海上の三島は、南に在るを小島と日い、其の北なるを大島と日い、又た其の北なるを奥尻と日う。此より乙部に至るは十八里。(奥尻島は南北に十有五里。)

凡そ松前の地界は、東西相い距ること八九日程にして、其の北は則ち夷地と為す。夷人も亦皆な山海に濱して居り、往往にして聚(集)落を成す。其の邑(村)聚の東に在る者は五十四なり。

(曰く「ハラキ」。曰く「シリキシナイ」。曰く「エケシナイ」。曰く「コフヰ」。曰く「クンヌイ」。曰く「シツカリ」。曰く「ベンベ」。曰く「オコタラヘ」。曰く「ウス」。曰く「エンドモ」。曰く「アヨロ」。曰く「シラヲイ」。曰く「タルマヘ」。曰く「マコマヘ」。曰く「アツマ」。曰く「ムカワ」。曰く「サル」。曰く「モンベツ」。曰く「ケノマヘ」。曰く「ニカブ」。曰く「シブチヤリ」。曰く「ミツイシ」。曰く「ウラカワ」。曰く「モコチ」。曰く「ホロベツ」。曰く「ウンベチ」。曰く「ホロイズミ」。曰く「タモツ」。曰く「トマリ」。曰く「オンベツ」。曰く「トカチ」。曰く「シラヌカ」。曰く「クスリ」。曰く「チヨロベツ」。曰く「アツケシ」。曰く「ノツシヤム」。曰く「ベケルル」。曰く「チベナイ」。曰く「シロイトコロ」曰く「ルウシヤ」。曰く「リイシヤシ」。曰く「ベリケ」。曰く「フナベチ」。曰く「シヤル」。曰く「リンニクリ」。曰く「ウライシベチ」。曰く「ハバシリ」。曰く「ノトロ」。曰く「ツコロ」。)

西に在る者は四十一なり。

(曰く「ウスベチ」。曰く「フトロ」。曰く「セタナイ」。曰く「ハマセタナイ」。曰く「アブラ」。曰く「チワシ」。曰く「シマコマキ」。曰く「ユウマキ」。曰く「「六条間」。曰く「スツツ」。曰く「オタスツツ」。曰く「タシネシリ」。曰く「シリベチ」。<国史、後乃羊蹄に作る。即ち古時治を置きしの所なり。>曰く「イソヤ」。曰く「イワナイ」。曰く「シリフカ」。曰く「ムイノトマリ」。曰く「フルウ」。曰く「シヤコタン」。曰く「ビクニ」。曰く「フルビラ」。曰く「ザルマキ」。曰く「モイレ」。曰く「ヨイチ」。曰く「シクズシ」。曰く「カツチナイ」。曰く「オタルナイ」。曰く「ハツシヤブ」。曰く「シノロ」。曰く「シヤツホロ」。曰く「イシカリ」。曰く「オシヨロコツ」。曰く「アツタ」。曰く「マシケ」。曰く「ベツカリ」。曰く「ホロトマリ」。曰く「ハシベツ」。曰く「ツルオツヘ」。曰く「トマナイ」。曰く「ウイベチ」。曰く「テシオ」)

北に在る者は四なり。

(曰く「バツカイベ」。曰く「ツサン」。曰く「ノツシヤム」。曰く「ソウヤ」)

 

其の南北の中間は形成稍ゝ卑し。故に南山以北、北山以南は、水皆な其の卑きに就いて、瀦(水たまり、貯と同系語)して二沢を為す。其の東に在るは則ち南流して東海に入り、其の西に在るは則ち北流して東北の諸水と合して大河と為りて西海に入る。二水海に入るの処、相距ること二十五里。

夷人亦た水に傍いて聚を成す者十三なり。

(曰く「ヌマカシラ」。曰く「ユウハリ」。曰く「ツウサン」。曰く「オサツ」。曰く「イチャリ」。曰く「ツウメシ」。曰く「シママツプ」。曰く「イヘチマタ」。曰く「ツイシカリ」。曰く「カバタ」。曰く「メイブツ」。曰く「ユウベチ」。)

凡そ其の部を為す者は、分ちて五と為す。

(東瀦は形葫蘆(ひょうたん)の状の如く、周廻三里許り。下流海に入る地は、名づけて「イブツ」と曰う。蓋し国史の謂わゆる胆振祖は則ち此れなり。西瀦は周廻十二里許り。下流海に入る地は、名づけて「イシカリ」と曰う。是の河は夷地の水の最大の者なり。五部は、曰く東、曰く西、曰く中、曰く東北、曰く北)。

国に姓氏無く、号するに部落を以てす。部落には各自長有りて、其の統ずる所も亦た各々小大有り。

(号するに部落を以てするは、「メナシクル」と云い、「シユムクル」と云うが如し。即ち此の「メナシ」は東なり。「シユム」は西なり。「クル」は猶お部衆と言うがごときなり。皆な此れに倣う。酋の豪大なる者は家口什佰を以て数え、部衆は佰仟を以て数うと云う。)男子は披髪長鬚し、耳に銀鐶を穿つ。

(其の髪を縮れて短し。卑賤なる者は耳鐶に或は鉛錫を用う。)其の服装は単衣、左衽(右まえ、左のえりを内に入れる)、窄袖長身、腰に細帯を束ぬ。酋豪は則ち蟒緞(ウワバミの模様のある厚い織物)綾緞(あやぎぬ)雑絵(あつし)等を裁用し、頸に大刀を懸け、装うに金塗銀鏤を用い、帯に紅緑の組条を用う。(名づけて懸刀と曰う。)

卑下は則ち苧麻及び樹絲を織つて布と成し、之を文るに刺繍を以てし、身に近づくるの衣は、皆な木綿獣皮を用うるのみ。婦人は髪を結びて髻と為し、耳に銀連鐶を穿つ。唇を染むるに青草汁を用う。

(其の鐸は之れを男子に比ぶれば、用うる所稍ゝ大、或は銀錫を用う。其の唇を染むる者は、名づけて口草と曰う。未だ是れの何たるかを審かにせず。)

額面手臂は皆迎黥して花奔状と為し、種種繊巧ありと云う。是れ幼児に其の母の刺す所なり。其の衣制は男子の如くなるも、蟒緞の刺繍を用いず、束ぬるに博帯を以てし、頸に銀鏡を懸けて以て之れが飾と為す。円の径数寸、鏤むるに花藻を以てし、左右に耳有り。之れを繋ぐに絲縄を用いて彩玉銀鐶銅銭を貫穿して前に垂らす。

(鏡は或は銅質にして、塗るに白鑞を用い、其の径は三寸より六寸に至る。名づけて「シトギ」と曰う。蓋し古の謂わゆる美須麻流の遺制歟。)

男女は皆な鞋履を著せず。徒跣にて善く行く。屋舎は皆な房室内外の制無く、屋は唯だ四壁のみ、窓戸を鑿界して、上に覆うに茅を以てし、菅を編みて地に舗く。父子兄弟雑処し、共に寝食を同じうす。男女別無く、上下節無し。酋長に見ゆるに及ばば、則ち合掌膜拝(地にひざまづいて拝む。)す。

医薬を知らず、唯だ祈禳(いのり、はらい。)有るのみ。若し其れ夭疫及び痘疹なれば、則ち棄てて山中に避く。凡そ人死すれば則ち之れを土中に葬り、柳枝を其の上に挿す。(柳枝を取用するに、刀にて其の末を削つて細茸(細くやわらか。)と為すこと、茅花の如く然り。凡そ神を祭ることを亦た主と為す。)父母の喪は服制有ること莫し。唯だ其の兄弟若しくは叔姪は、刀を抽き刃を外にして互に其の額を撃ち、流血面を被う。

蓋し相い責むるに不幸不弟の罪を以てするなり。(此れを「メツカウチ」と謂う。)夷中は金玉を宝とせず。(山に金銀を産し、海に青琅■〈青玉〉を出すも皆採らず。)古器及び刀剣の属も亦た文字無く、甲子を知らず、年を紀すに寒暑を以てし、月を紀すに虧盈(かけるとみつると)を以てす。約を盟い信を結ぶには、皆其の宝を用い、罪を贖うも亦た之の如し。其の宝器は形燕尾に類し、長さ尺有五寸、鉄質の金鐶にして、両岐に鈴を懸くること各々一口、諸れを地室に蔵し、祈禳には則ち祭る。(其の名を「クワサギ」と曰う。)

俗尤も神を敬うも、而も祠壇を設けず、其の飲食に祭る所の者は、源の廷尉義経なり。東部に廷尉居止の墟有り、士人最も勇を好み、夷中皆な之れを畏る。

(夷俗は凡そ飲食には乃ち之れを祝いて「オキクルミ」と曰う。之れを問えば則ち判官なりと曰う。判官は蓋し其の謂わゆる「オキクルミ」か、夷中廷尉と称する所の言なり。廷尉居止の地名を「ハイ」と曰い、夷中称する所の「ハイクル」は即ち其の地方の人なり。西部の地名にも亦た弁慶崎なる者有り。或は伝う、廷尉此より去つて北海を踰えたりと云う。寛永間、越前国新保の人漂いて韃靼の地に至る。是の年癸未、清主乃ち其の人を率いて燕京に入り、居ること歳余、勅して朝鮮をして送致して還らしむ。其の人曰く、奴兎干部の門戸の神は、此れ間々廷尉の像を画きし者に似たりと。亦た以て異聞と為す可し。)

男子は皆な漁猟を以て生業と為し、漁惜(干魚。)獣皮は其の互市に当り、以て其の無き所に易う。

婦人は草木皮の絲有る者を取用そて、辟纒(麻糸をねる。)し布を織り、頗る刺繍に工なり。

(草は則ち苧及び藤葛、木は則ち北間の古俗に栲「タエ」と云い、又た級木と云う者なり。)

声楽を知らず、故に其の器無し。而して北部に四絃を弾く者有り、疑うらくは是れ胡琴ならん。燕飲し楽しみ甚だしき時は、声有りて高下し、牛の皿(中央のくぼんだ下ぶくれの素焼きの器。)中に鳴く者の如し。此れ其の歌謡にして、乃ち海潮を占候するの詞なりと云う。

其の舟楫は、小なる者は木を刳ること太古の制の如く、木を編んで蓋うも亦た古の謂わゆる桴なり。夷は性闘を好む、故に兵器有り。則ち皮甲木皿(カブト)弓矢刀削(ほこ。)の属なり。弓は長さ三尺七寸、草皮を弦と為し、矢は長さ尺有二寸、鹿骨を鏃と為し、沓ぬるに竹を以てす。

鏃に逆鬚なる者有りて、淬ぐに毒草を以てす。蓋し其の毒を淬ぎ脱して出さざるに取るならん。削は乃ち銃■(金+見)の類にして、刃は小鑿の如く、木幹の長さ五尺五寸にして、頭の大いさ杵の如し。蓋し其の飛下するに力有るに取るならん。棍有り長さ二尺五寸、頭に鉄刺有りて菱角の如し。又た細管有りて、之れを吹けば号令を為す者なり。
 
(海驢皮を以て甲と為し、連綴すること三重、上旅(かさね、つらねる)は囲三尺、下旅は六尺、上下の長さ二尺三寸、名づけて「ハヨクヘ」と曰う。夷中に木有りて荊の如きは嫩条を取用し、編むに藤葛を以て皿と為す乃ち藤皿の類なり。名づけて「コンチ」と曰う。弓は「ヨク」と曰い、用うる所の木は、松身柏葉、其の名を「ヨワヌ」と曰い、纒うに樺皮を以てす。矢は名づけて「アイ」と曰い、■(ヤガラ)に松枝を用う。挿すに鷹及びロジ(鵜飼)の羽を以てす。削は名づけて「シヨチキネ」と曰う。)

凡そ物産の異草珍木は、尽くは状す可らざるも、春の菊に花の白き者有り、百合に花の黒き者有り、頗る奇と為す可し。(百合根は夷中、赤きは之れを啖う。)牛馬及び雉鷸の類無く、鷹鶻?鶚は皆な林木深鬱の間に巣くう。(蒼鷹及び?羽は方産の最も貴き者なり。)山に熊羆麋鹿有り。水に海豹海獺海狗の属あり。
 
(山東通志を按ずるに、云う、海驢は状驢の若く、即ち是れ夷方の謂わゆる「アモミツベ」なりと云う、海豹は其の大いさ豹の如く、文身、其の皮鞍褥を飾る可しと。即ち是れ夷方の謂わゆる「アザラシ」なりと。博物志の注に曰く、海■は頭は馬の如く、腰より以下は蝙蝠に似る、即ち是れ夷方の謂わゆる「アジカ」なりと。蔵器本草に云う、海獺は獺に以て大いさ犬の如く、脚下に皮有りて駢拇(足のおやゆびと第二指がくつついて水かきとなつている)の如し、即ち是れ夷方の謂わゆる「ネツブ」なりと。臨海志に云う、海狗は頭は狗に似て長尾、毎日出ずれば即ち浮いて水面に在り、即ち是れ膃肭獣にして、夷方の謂わゆる「ヲツトサイ」なり、東部の海湾は佗の名を内浦と曰い、其の水広くして深く、乃ち此の獣を出だすと。)

夷人は軽驍多力(丈高イ)、兼ねて弓箭えお習う。一獣を前に瞥視すれば即ち懸崖を下上し、深淵に沈没して、遂に之れに及ばざること無く、射て之れに中らざること無し。沿海の諸水は鹹淡の中、皆な鱒魚鮭魚を産するも、而鱒魚は鮭魚の最も多きに如かず。歳の七八月、鮭魚河を泝つて上れば、水塞がれて流れず、乃ち徒手之れを捕う。

又た火上に熏し、之れを乾して肉(月+昔)と為す。(此れを干鮭と云うは是れなり。)東海も亦た鰊魚有り。此の魚の聚る所は沫を嘘くこと雪の如く、水上に浮けば皆な色を変う。乃ち網して之れを捕う。味の美は子に在りて、子亦た腹に満つ。其の子を剖取して之れを乾してテイ(月+廷)(まっすぐなひもの)と為す。呂覧の謂わゆる東海のジ(魚+而)(はらご)とは蓋し之れを謂うならん。

(俗に鰊の字を用うるも出ずる所未だ詳かにせず。朝鮮の方は青魚と為す者なり。)昆布は東南海中の石上に叢生す。腹魚石決明は所在に皆名有り。乃ち水に没して之れを捕る。(嘗て昆布の夷地より出ずるを観るに、蓋し其の最も大いなる者は、博さ尺に余り、長さ数丈、淡黄にして両辺は青黒色、柔靱なること韋(ナメシガワ)の如く、以て巻舒す可く、爾雅〈字引の名〉謂わゆる綸は綸の如し。東海に之れ有る者は、即ち此の諸家の本草或は以て其の葉は手の如しと謂い、或は以て大葉は菜の如しと謂うは何ぞや。腹魚石決明は一類両種なり。其の形小大亦た自ら同じからず。或は石決明を以て鰒魚と為すは、疑うらくは非ならん。)

北海の鯨魚大いなる者は山の如く、夷中敢て捕うる者莫し。又た異魚有り、其の鬣極めて長し。

(形は江豚の如く、其の鬣は鋭くして長く、未だ其の名を詳かにせず。蓋し刺魚の類ならん。夷中之れを呼んで「カシ」と曰う。)

鯨魚は之れに触るれば則ち傷いて死す。海潮洶湧するも亦た能く蕩激して之れを沙岸に欠モ閣(オ)き、其の肉を臠(切り身にする)し其の膏を燃す、其の用亦た広し。夷人は坐して其の利を収む。大抵夷中の俗は之れを上世猶お未だ聖人なる者有りて出でざるが如きの時に視るなり。

其の礼を知らず、其の義を知らざること禽獣に近きは、蓋し其の教無きのみ。毛(草木、作物)を茹で血を飲むは、其の性なりと曰うと雖も、亦た未だ嘗て粒食の美たるを知らざるに由るなり。此歳以来、其の東西地方をは、土を墾して梁を植え以て粮食に充つる者有り。

(東部の地は、曰く「オシヤマンベ」、曰く「ノタエ」、曰く「ウス」、曰く「エンドモ」、曰く「シラヲイ」、西武の地は、曰く「セタナイ」、曰く「フトロ」、曰く「シマコマキ」、曰く「スツツ」、曰く「オタスツツ」、曰く「イソヤ」、曰く「フルウ」、曰く「イワルナイ」、曰く「シヤコタン」、曰く「ヒクニ」、曰く「ルヒラ」、曰く「シクツシ」。皆な墾田種梁す。)或は謂う、壌は曠土多く、俗艱苦を忍も、其の野は以て耕す可く、其の水は以て漑す可し。唯だ風気寒多く、稲麦に宜からざるを恐るるのみと。蓋し未だ稲に早晩有り、麦に南北有るを知らざるなり。男女は酒と煙を嗜むこと尤も甚しきも、皆な其の地に無き所なり。是の故に東南の賈舶の至る所は、則ち其の人相い慶ぶなり。
 
 

3 北蝦夷

(即ち奧蝦夷なり、夷中之れを呼んで「カラト」と曰う。)

北蝦夷は其の俗蝦夷と同じ。夷人亦た皆な山海に浜して居る。部落は凡そ二十二なり。

(曰く「ウツシヤム」、曰く「コクワ」、曰く「ツナヨロ」、曰く「マオカ」、曰く「ノタシヤム」、曰く「オツチシ」、曰く「キドウシ」、曰く「イトトマテ」、曰く「オレタカ」、曰く「チヤホコ」、曰く「ナフキン」、曰く「ニクブン」、曰く「キンチバ」、曰く「ビンノキ」、曰く「ウヘコタン」、曰く「カレタン」、曰く「セウヤ」、曰く「シロイトコロ」、曰く「シイタ」、曰く「ナイフツ」、曰く「アユル」。)

東は大海に際し、西北は即ち韃靼、東南海の両地は相去るの近遠詳かにするを得可らず。其の産は青玉G羽、之れに雑うるに蟒緞文絵綺帛を以てす。即ち是れ漢の物にして、其の従つて来る所は、蓋し韃靼地方と道うのみ。万国図中、東の室韋地に野作すと曰う者は、疑うらくは此れならん。凡そ南北壌を接すること但だ小海を隔つるのみ、而も波濤険悪にして、夷中も亦た畏途と称す。且つ其の地絶遠にして、此の間の人到る者鮮少なれば、閲歴して之れを知ること能わず。故に其の間の広狭も亦た考う可らず。
 

 

4 東北諸夷

東北海中に国する者は、夷中の伝うる所、凡そ三十七にして、夷人の通ずる所は唯だ其の一のみ。其の余は則ち詳かにするを得可らずと云う。

(東海の諸島は、曰く「イルル」、曰く「ツモシリ」、曰く「キイタツフ」、曰く「モリシカ」、曰く「クナシリ」、曰く「モウシヤ」、曰く「ハルタマコタシ」、曰く「マカンルル」、曰く「オヤコバ」、曰く「シヤムラテフ」、曰く「ラセウワ」、曰く「シリンキ」、曰く「アトエフ」、曰く「クルセミ」、曰く「エカリマ」、曰く「ウルフ」、曰く「エトロホ」、曰く「ホンシリヲヲイ」、曰く「シヰアシコタン」、曰く「エバイト」、曰く「モトワ」、曰く「ケトナイ」、曰く「モシヤ」、曰く「シイモシ」、曰く「ラツコアキ」、曰く「ウセシリ」、曰く「レニンゲチヤ」、曰く「フカンルルアシ」、曰く「マサオチ」、曰く「シイモシリ」、曰く「エカルマシ」、曰く「マカンナ」、曰く「シリヲヲイ」、曰く「コクメツラ」。夷中は総称して「クルミセ」と曰う。

夷人の通ずる所は即ち「キイタツプ」なり。嘗て聞く其の互市の例は極めて奇なり。毎歳夷人、船貨を装戴して以て行し、岸を去ること里許りにして止まる。島人候望して乃ち其の聚落を去り、之れを山上に避く。夷人其の貨を運搬し海口に陳列して去り、而して止まること初の如し。既にして島人方物を負担し、絡繹夾会して、各々自ら、其の欲する所の物を易取し、其の余及び厥の産を閣置して去る。夷人又た至つて之れを収蔵して還る。若し其の方物過多なれば、則ち或は其の余を留め、或は船貨を置きて去る。方物は皆な獣皮なり、船貨は則ち米塩酒煙及び綿布の属なりと云う。)

寛文の間、我が東海の賈舶、俄かに猛風に遇いて東北に飄去し、凡そ七たび、月を閲す。其の幾千里なるを知らざるなり。

海気昏黒にして日月を見ざること亦た一百余日なり。且つ大鯨有りて巨浪の間に出没し、船行甚だ艱危なり。忽ち一大国に到りて泊ること十有二日。乃ち海岸に傍りて西南に水行すること八昼夜にして海を渡ること十二三里、復た国有り。

其の行くこと初の如くにして九昼夜、亦た海を渡ること十五里可り、始めて蝦夷の東北界に至る。

((寛文壬子の歳、十二月二十三日、伊勢国の米船一隻、帆を志摩の国の海口に開き、東行して二十四日の哺時(ひぐれどき)、北風大いに作(おこ)り、東南に飄去すること九昼夜。風又た転じて東北に漂流すること幾千里なるかを知らず。明年癸丑七月五日始めて一国に至る。名を「エトロフ」と曰う。次に一国に至る。名を「クナシリ」と曰う。

又た次に蝦夷の東北界に至るも地名闕(か)く。東のかた海岸に傍りて水行二百里、東部に至る。地名を「トカチ」と曰う。此を去って松前に至る。水行百八十里。))

蓋し其の過ぐる所の者は、西人謂う所の極北海にして、夷中謂う所の三十七島なる者ならん。万国図は以て北亜墨利加地方の諸州と謂うも、是れ已に其の歴る所の二国は、幅員広狭未だ審かならずと云うと雖も、然も一隅を挙げて以て之れを反(一例によって類推)すれば、則ち其れ概ね得て見る可し。

而して今、蝦夷の地図を観るに、二国の地は乃ち弾丸黒子の若く然り。因つて知る、其の国たる、唯だ夷人の言に拠り、僅かに其の名を存するのみ、未だ信ずるに足らざるなり。故に今、姑く其の聞く所の者を取って、其の方俗を述ぶ。

((嘗て和蘭人の言を聞くに、「クルンラント」地方と云うは、是れ大にして、天地極北の界に在り、故に日光の到らざる者、歳に凡そ半に居り、常に霧気多くして寒し。其の海は鯨及び異魚を出だす。和蘭人此に捕鯨すと。又た云う。前八十年、和蘭人蝦夷の東南海口に抵る者有るも、而も未だ西北の地界を審かにせず。東に二島有り。其の一は則ち小島なり。其の一は唯だ西南の一隅を見るのみ、地形の広狭も亦た未だ審かにせずと。蓋し其の謂わゆる蝦夷の東海二島の其の中に錯在する者は、夷人の謂わゆる「クルミ」地方ならん。夷言の「クルミセ」は、即ち番語の「クルンラント」、夷言の「ミセ」は番には「ラント」と云い、並びに是れなり、此れ島を云うなり。万国図に尨狼徳に作り、或は臥蘭的亜に作る者は、即ち此れなり。又た按ずるに夷人の相い伝うる三十七島中、「シヰアシコタン」と曰い、「ヰイモシ」と曰い、「シヰモシリ」と曰うは、蓋し是れ万国図載する所の韃靼の東南の室韋地方に在る所の海鳥ならん。「シイ」は即ち室韋なり。夷語の「アシカル」は此れ夜を云うなり。夷語の「コタン」は此れ国を云うなり。「アシコタン」は猶お夜国と言うがごとし。万国図に、室韋の東北海に夜国有りとは、或は此れなり。「ミセ」と云い、「モシ」と云い、「モシリ」云うは皆な一転語なるのみ。))

其の国は山皆な高峻、黒霧四塞し、風気常に寒し。男子は被髪して長鬚、耳に銀鐶を穿つ。衣は熊皮を被り、襯は鳥毳(ニコゲ)を以てす。窄袖長身にして其の衽を左にす。左に弓矢を佩き、右に一刀を懸く、弓矢の制は蝦夷と同じ。其の刀は革手綱木鞘、長さ二尺許りなり。婦人は断髪し、耳に銀連鐶を穿つ。径の大いさ三寸可りなり。青唇文身し、其の衣は団領(まるえり)、余は皆な男子の制の如し。

凡そ草木鳥獣は高く且つ大いならざる者無く、山には麋鹿の属無く、海には牛馬の類多し。鯨魚海岸に跳躍すれば夷人矢及び槍を飛ばして之れを射る。鱒魚流に沂りて上れば潮落ちて水涸れ、手捕して之れを啖う。此の間の人は飯を炊きて食うに、夷人聚り観を以て怪しむ色有るも、言語通ぜざれば、之れを形して以て言に代うれば、略々と知る可きのみ。

其の部落は海口を相い距ること、陸行して約三日。行かんと請うも許さず、敢て請うに関弓(弓でさえぎる)して之れを禦ぐ。故に邑聚居宅は未だ其の制を審かにせず。

((茅は高さ丈許り、蓬は高さ二丈許り。虎杖(イタドリ)は粗大なること竹の如し。百合花を開けば花亦た最も大なり。樹は皆な数十囲にして他樹を見ず、其の名を「トドロフ」と曰い、葉は槻の如くにして小さく、枝は以て弓材と為す。鳥鳶鴎及び狐有り、皆な其の形大なり。海獣の名は「ラツコ」唯だ東海諸島に之れ有るのみ。故に夷中皆な総称して「ラツコ」島と曰う。山東通志に拠れば、海牛は長さ丈余、紫色にして角無し、亀足鮎尾、其の膏は以て燈に燃やし、其の皮は以て弓韃(ユブクロ)矢房(ヤブクロ)と為す、夷方の謂わゆる「ラコ」は蓋し此れならん、と。此の間の人始めて至るとき岸上の草屋に架、三人有りて居るを見る。明朝は其の一を見ず。居ること三日、陸続して至る者六七十人。中に女二人有り。一日衣を沙上に曝す。夷衆之れを取るに即ち叱り、皆な弓を関して去り、岸上に到り衆皆な偶語す。乃ち獣皮六張を取り将(モ)ち来り、之れを船中に投ず。我が俗の船は皮革の類を忌むが故に之れを却(シリゾ)くるも亦た皆な弓を関して之れを致す。一日又た其の将に還らんとする者有るに、我れ之れに尾して行くこと十里可り、日将に哺(ク)れんとす。其の人顧みて之れを止むるに、敢て請うも亦た弓を関す。故に行くことを果さず。))

 了



 
 

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2000.8.1
2000.8.11Hsato