アンディ・フグの早世を悼む

現代の英雄の早すぎる死

 
アンディ・フグが死んだ。驚きだ。実に驚きだ。悲しみよりも、驚きがどうしても先行してしまう。それも当然。35歳は余りにも早すぎるではないか。その訃報に接した時、人の運命の暗闇をかいま見る気がした・・・。

やがて、アンディ・フグという人物を心の中でなぞって、じっくりと考えてみる…。そのフグという愛らしい名前からしても、彼は親しみ易く、好感の持てる好人物だった。スイス人でありながら、あくまでも彼は日本にこだわった。別に流ちょうに日本語を話せるわけでも、書けるわけでもない。それでいて、彼の心は、日本人以上に、昔の日本人の美風を備えたサムライ的日本人であった。

スイスチューリッヒの貧しい家庭に生まれたフグは、少年時代から、体が小さいながら、喧嘩に明け暮れるような少年だった。10歳の時に友人に連れられて、空手道場に行き、空手に異様なほど惹かれていく自分を感じた。彼は小さい体で、大男をなぎ倒す、ブルース・リーに憧れた。15歳で極真空手を始め、早くも17歳でスイスチャンピオンになるなど、その格闘センスは、ひときわ優れていた。1984年、19歳にして、第3回極真空手世界大会にて世界デビューを飾り、1987年の第4回同大会では、弱冠21歳で、現在の極真松井館長と互角に戦い、惜しくも準優勝に破れた。

フグの闘志は、いつも敗北によって、かき立てられた。極真での自らに煮え切らぬものを感じたフグは、正道会館に移って、いよいよK-1のリングに上ることとなる。このK-1こそは、彼の生き様とアイデンティティを確立する絶好の舞台となった。

初デビューは93年。94年K−1グランプリでは活躍が期待されながら、初戦でアメリカのパトリック・スミスに一回KOで破れ、惨めな敗北を味う。しかし彼の真骨頂は、ここから発揮され、5ヶ月に行われた「リベンジマッチ」で、見事、スミスを一回KOで下して、「リベンジ」が流行語になるほどの熱狂を格闘技ファンの間に巻き起こした。

翌95年にも同じ事が起こった。95年K−1グランプリでは、優勝候補筆頭にあげられながら、またも初戦で新鋭のハードパンチャー、マイク・ベルナルドの強烈なパンチを受けて3回で惨めなTKO負け。しかしながら6ケ月後に行われた「リベンジマッチ」で、再びリベンジに成功し、アンディ・リベンジ神話を築いてしまった。

そして遂に翌96年には、ライバルとなったベルナルドを決勝で2回KOで倒して、K?1チャンピオンとなった。この頃から、母国スイスでのフグ人気は、加熱し、テレビの視聴率は、何と60%を越えるような国民的英雄にまで登り詰める程であった。また私生活でも、一流のモデルだった女性を娶って結婚。空手のかけ声からとった「セイヤ」という名の一児の父になった。格闘家として栄光、スイスの豪邸、幸福な家庭、まさに絵に描いたような成功者となったフグではあったが、内面は実にで孤独であったようだ。

それはK-1と修行ため年間のうち10ケ月を日本で、残りの2ヶ月がスイスの家庭でという実にアンバランスな結婚生活が、原因となっていたかもしれない。日本におけるフグは、狭い下宿で自炊をするなど、外面的な派手さとは裏腹に、非常にストイックで質素な生活だった。彼は日本食が大好きだった。特にうどんは、自分で作り好んで食べたようだ。

一方、戦績の方は96年(フグ31歳)を境にして、厳しくなった。当然母国のファンや日本のファンに答える気持ちが強くなり、97年にはK−1決勝で、準決勝でこの年の優勝候補筆頭のピーター・アーツ(オランダ)を準決勝で破ったものの、決勝ではアーネスト・ホース(オランダ)に敗北。98年(フグ33歳)には、決勝で、ピーター・アーツに敗れて、フグの限界説が囁かれるようになった。99年(フグ34歳)には、準決勝で、ホーストに敗退した。

そして運命の2000年。フグは35歳となり、母国スイスで、6月引退試合と銘打った試合を敢行した。その時、フグは、既に離婚していた。おそらくすれ違いのため、通常の結婚生活が出来ないことが原因であったろう。しかし重荷を下ろすことで、フグ自身は、ますます自らを進化させようとした。だからこそ母国では引退したものの、この12月のK−1グランプリ2000では、館長推薦枠によって、決勝トーナメント出場するつもりだったようだ。またアメリカに進出すべく、ラスベガスでの試合が計画されていたとも聞く。しかし内面では、格闘家としてのおのれの限界が見えているフグにとっては非常に辛い日々だったに違いない。

そしてこの八月スイスにおいて、フグは発熱で倒れた。おそらくフグは、自分の体が、何か得体の知れないものに冒されているのを直感で感じとっていたに違いない。そして8月15日、不調の体を押して来日。19日には入院して、その病名が難病の「急性前骨髄球性白血病」であることが判明した。しかしこの病名を知らされても、フグは「この病気を公表し、この難病で苦しむ人を励ましたい」と語り、このような最後のメッセージを口述筆記で残した。
 

ファンの皆さん、突然このような状態に私が陥ってしまったことで大変ショックを与えたかと思います。私自身、ドクターから症状を聞いた時は非常にショックを受けました。しかし、私は自分が今陥っている状況をファンの皆さんに告げることで、ファンの皆さんとともにこの病気と闘っていきたいと思います。今度の敵は私がこれまで闘った中でも一番の強敵です。しかし、私は勝ちます。ファンの皆さんの声援をパワーにしてリングと同じ時のように、最大の強敵に勝とうと思います。10月の大会は残念ながら出られませんが、日本でこの病気と闘い、いつの日か必ず皆さんの前に現れたいと思います。がんばります。押忍(8月22日口述筆記)


しかしながら、昨日24日午後6時過ぎ容体は急変、アンディ・フグは、遂に帰らぬ人となった。またしてもフグのラストマッチは、敗北で終わったのだ。フグの真骨頂は、やはり不屈の「リベンジ」精神にあった。もしも世に、我こそは、誰にも負けぬフグのファンであるとするならば、その人はフグ精神を見習い、どんな苦しい時でも、そのリベンジ精神を発揮すべきであろう。アンディ・フグ、不屈の精神を持つ格闘家。享年35歳。彼の栄光と挫折の短か過ぎる人生は、眩しいほどの輝きに満ちているが、どこか悲しい…。

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確か詩人のリルケも、彼と同じ急性白血病で亡くなったように記憶する。
そのリルケの詩に次のような詩がある。

ドゥイノ悲歌より「第六の悲歌」(手塚富雄訳:岩波文庫)

英雄は、早世した人々にふしぎなほど近似している。
(中略)
かれは選びつづけ行いつづけたのだ。
おお、英雄の母たち!
奔流の始源(しげん)
おんみら峡谷(きょうこく)よ
そこへ心情の高い懸崖(けんがい)から少女らが
嘆きつつ身をおどらして
飛び入ったのだ
未来の息子への犠牲として
何故なら、英雄こそは愛へのあらゆる滞留地を踏み破って突進した
そこでの体験の一つ一つが、かれをいとおしむ心臓の鼓動の
一つ一つがかれを高め、かれらをかなたへ押しすすめた
だがそのさなかにも、すでにかれはそれらのものと訣別して
微笑みの終局(はて)に立ったのだ
−ひとり異なるものとして

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2000.8.25