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「相田みつを」って誰?!


 
人は、美しいもの、かっこの良いものには、目がどうしても、吸い寄せられる。反対に見た目にぱっとしないものや、平凡なものには、魅力を感じないものだ。情けないが、佐藤もそんな人間の一人に過ぎない。その証拠に9年前に「相田みつを」さんのすばらしい本を、ある人にいただいたのに、ほとんど読まずにそのままにしていた。「相田みつを」さんの本は、最近話題に上ることも多く、一種のブームになっている。この著者の相田さんとは、栃木の足利市に住んでいた書家のおっさんのことである。この人を知っている人は、少ないはずだ。

ひどいことに、私は、彼の本を何度か、捨てようとも考えた。しかし人様にいただいたものでもあり、さすがに捨てることはできなかった。そして今、9年振りに、この本を開いた。すると次のような言葉が、並んでいたのである。
 

この世は、わたしが、わたしに、なるところ

七転八倒 つまづいたり、ころんだり、するほうが、しぜんなんだな、にんげんだもの

うつくしいものを美しいと思えるあなたの、こころが、うつくしい

一生、勉強、一生、青春

うそはいわない、こころに、きめて、うそを、いう

アレコレ卑下は、するけれど、やっぱり自分が一番かわいい

なまけると、こころが、むなしい、一生懸命になると、自分の非力がよくわかる


字も幼稚な感じで、文章も、どちらかといえば、子供の書いた文章のようだ。しかしひとつひとつの飾らない言葉を読んでいくと、何故か、すがすがしい気分になってくるのも確かだ。これらの文章の額が、神戸の大地震に被災した人々の家にいくつかかけてあり、被災者を励まし続けているとも聞く。何も、うまい文章や、誰も読めないような、難解な字が人の心を救うのではない。シンプルな言葉こそ、人の心にしみ込み、人に勇気をもたらすのだろう。

「老子」の言葉に、「本当にうまいものは、まるでへたくそのように見える(大功はつたなきがごとし)」と、いう一節があるが、相田さんの字も文章もまさに、この大功(たいこう=本当にうまいもの)なのかもしれない。

「相田みつを」という人物は、若い頃、病弱で、そのため大学にもいけず、書の道をこころざした。しかし簡単に書で飯が食えるわけもなく、苦労の連続だったようだ。その時出会ったのが、近くの寺(曹洞宗の高福寺)の坊さん(武井哲応老師)で、この人との出会いが、彼に自分の人生の何たるかを、教えてくれたようだ。彼は35年間に渡って、この人に師事した。相田さんは、この出会いについて、次のように言っている。「いつでも、どこでも絶対に頭の上がらないおっかない人。うそや駆け引きは、絶対にまかり通らない人。そういう人を生涯に持てるか持てぬか、が、人生ではおおきな分かれ道になる」と。

彼が、世に知られ出したのは、昭和59年からだというから、まだ15、6年しかたっていない。その前は、貧乏をしていて、周りの人々が、気を使って、商店街の看板や包装紙を書かせてくれて生計をたてていたようだ。人間誰しも、自分の身の回りに、本当にすばらしい人物が、いるのを気づかないでいることも多い。

私も、相田さんの本を持っていながら、9年間も、そのすばらしさに目を向けなかったぼんくら男である。何しろ相田さんが、生きている人か、死んでいる人か、さえ知らなかったのだ。実は相田さんは、すでに平成3年12月に68歳で、この世を、あっさりと去っている。

はっきり言えば、相田さんの感覚は、私の感覚には合わない部分が多い。私には、どうも彼の弱々しさを、そのままさらけ出す感性が好きではない。飾らずに書くのは良いが、精神の虚弱さを感じてしまうのだ。しかし良いではないか。たまには自分の現在の感性や感覚を疑って見ることも、時には大切だ。要は、9年間も、このようなすばらしい本をほっぽり放しでいたことが問題なのだ。さてあなたは、「相田みつを」をどうみるか?「相田みつを」にどう触れるか?彼をどう思うか?佐藤
 

 


1997.5.13

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