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アフガンの嘆きを聞け

−今試される平和への智慧−


世界中の目が、アフガニスタンに向けられている。9月11日のアメリカが蒙った同時テロ以降、これまで国連が飢餓の危機にあると注意を喚起しても顧みられなかったアフガニスタンが、皮肉にも多くのアメリカ人の命の犠牲と引きかけに、陽の目を見た形である。

昨日テレビでこんな情景を見た。パキスタン国境に逃れてきたアフガン難民の女性達だった。ほとんどが、タリバンの強制によって、ベールを被り、ほとんど顔は見せないが、目元には、深いシワが刻まれていた。若いはずなのにおばあさんのようにさえ見える。

「あなた方のほとんどは女性なのですが、男性はいないのですか?」
「夫は戦争で死にました」
「何か希望はありますか?」
「食べるものもないのに希望なんてありません。しいて言うならば平和だけが望みです」
「幸せを感じることはありますか?」
「夫も死んで、幸せなんて、感じれるはずはありません」
彼女はそう言いながら、側で泣く、幼い子の口に小さなパンくずのようなものをくわえさせた。

アフガニスタンから帰った医師の話によれば、現在のアフガンの人々の意識は、「アメリカ憎しというようなものではなく、不思議なほど静かである」ということだ。想像するに、アフガンの人々は、度重なる戦争によって、疲れ切っているのだ。もうとても戦争どころではない。先の戦争未亡人のように心から平和がくることを望んでいるのであろう。

住むところはおろか食べるものもない状態では、戦争なんて、拳を振り上げている状況ではない。政権を握っているとされるタリバンの兵士だって、アフガンの人々ではなく、周囲の国や中東のイスラム諸国から傭兵として、雇われている人間も多いということを聞く。

となるとその資金を提供していると見なされるビン・ラディンを、アメリカの要求通りにおいそれと、引き渡すはずはない。とするとこの騒動の根底にあるのは、宗教とか、政治的イデオロギーというような高尚なものではなく、貧困によって、ねじ曲がった人間の意地と富める国々との利害の対立が横たわっているようにしか思えないのである。

確かにソ連が、軍事的に介入してきた時、アフガンの人々は、イスラム教の教義による団結と、アメリカからの側面援助によって、何とかソ連軍を追い払った。厳密に言えば、ソ連はアフガン以外に、国内の問題を抱えていたために、撤退せざるを得なかったのだ。それは調度、日露戦争で、日本がロシア革命というロシアの内政問題をうまく利用して、どさくさ中で、取りあえず勝利したことと似ている。

ソ連との戦いで、アフガニスタン全土は傷つき焦土となった。もうアフガンには、戦う力などないのだ。そのアフガン相手に戦争をするというのも、ほとんど意味がないことかもしれぬ。確かにアメリカは一度振り上げた拳の置き場に困っているようなフシもある。

いま、どうにかして、アフガニスタンに平和を取り戻す道はないものか。佐藤

 

 


2001.10.9

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