高館の景観の変貌と「馴れ」の問題

 

人間にとって、何より怖ろしいのは「馴れ」という問題であろう。何故こんなことを思ったかと言えば、昨日平泉の高館に登り、日々あの松尾芭蕉が、「夢の跡」と詠嘆した北上川の夏草の川縁が壊されているのに、それが自分の中で、徐々に異様な変貌と思えなくなっているような気がして来たからに他ならない。怖ろしいことだ。これが「馴れ」というものであろうか。私の中で「馴れ」は、心のどこかに芽生えて来ているようだ。

「馴れ」とはいったい何であろう。初めての時には、心臓の鼓動が飛び出さんばかりに興奮するような事でも、「馴れれば、手のひらに止まった蚊を打つような気持で、人を殺せたりもするものさ。」そんなことを、旧日本軍兵士だった知り合いの老人から聞いた。

その人は、いつもは、どこにでもいるような人の良いおじいさんであるが、戦争の日々を語る時には、別人のようになる。目がらんらんと輝き、当時の戦争の記憶が脳裏に蘇って来るのだろう。空間の一点を見据えて、異様な体験を静かな声でしゃべり出すのだ。

その内容は、とてもここに書けるようなものではない。異常すぎる。しかしどんなに我々のような戦争を知らない世代にとっては異様に聞こえる話でも、現にこの人間の歴史の営みの中で間違いなく起こったことなのである。

いつしか戦争を起こした当の世代のほとんどは死んでしまった。又知らぬまま、命ぜられるままに戦争に巻き込まれ、戦後も生き延びた世代もまた、戦争について固く口をつぐんだまま、あの世に旅立ち、あるいは旅立ちの時に差し掛かっている。

第二次大戦のある加害の記憶を、あれはでっち上げだとする人たちの一団がいる。この人たちの周囲では、被害の記憶だけが、蓄積され、戦争とは、いつの世にもあり、何も日本だけが悪いわけではない。という聞こえの良い論理がそよ風のように日本中を吹きまくっている。

これもまた「馴れ」だ。初めは「それはちょっと」と思えた論理でも、何度も聞かされいつの間にか、耳障りの良い小鳥のさえずりのように聞こえて来るのだ。「馴れ」。この「馴れ」の論理に巻き込まれない為には、きっちりとした自分なりの倫理観や正義感というものがいる。初めの時の、胸の鼓動を忘れずに、敢えて「馴れ」を拒絶する位の覚悟を持てば、魔のように忍び寄る「馴れ」という時の悪魔から自由になることができるのだろうか。

それにつけても、高館のかけがえのない景観は、どうなってしまうのか、不安と悲しみが、湧き上がってきてどうしようもない。佐藤
 

 


2002.6.24
 

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